第6話 ガンコオヤジ平手正秀 登場
吉乃を実家に送り届けた信長は、そのまま居城である那古野城に戻った。その胸には、尾張の統一と防衛に燃える感情が昂っていた。自室に戻る途中、信長は思い出す。いまは亡き父の背中を。
とその時、廊下の奥から怖い足音が聞こえてくる。それで信長は、もう一人の父を、織田家重臣のなかで唯一の味方を思い出した。
「やれやれ、頑固おやじ、いや、頑固じじいの登場か……」
曲がり角から現れたのは、白髪頭の老人だった。年はとうに還暦、六十歳だ。当時としてはかなりの高齢と言える。
それでも背筋はしゃんと伸び、両目には鋭い光を宿している。力強く床を踏みしめながらズンズン距離を詰めてくる老人の名は平手政秀。信長の家老兼教育係りを務めている。
「信長様! 帰蝶様をほうっておいてどこへ行かれていたのですか!?」
口から火を吹きそうな勢いで政秀は怒鳴る。
「おう政秀、まだくたばっていなかったか」
軽口を叩きながら、信長は止まることなく自室を目指す。
「当たり前です! この平手政秀! もう六十年は生きる予定です!」
「仙人かよ」
握り拳を作るハッスル爺さんに信長は苦笑する。政秀はすぐ横を歩きながら拳を震わせ、
「よいですか信長様! 信長様はもう帰蝶様という妻を持たれる立派な男子! 美濃からお輿入れなさった帰蝶様のためにも一日もはやく御子を作られ織田家と舅殿を安心させるのです! でなければ帰蝶様とて肩身が狭いではありませんか!」
信長の脳裏に、帰蝶の着物越しでもわかる巨乳と腰付きが浮かんだ。鼻の奥が痛くなる。
「ちょちょっ、お前なに叫んでいるんだよっ! そそ、そんな子作りだなんてっ」
――帰蝶となんて手も握ったことねぇよ!
プロポーション抜群の超絶美少女とのベッドインを妄想して、信長は顔を振る。自室の襖を開け、信長は畳の上に腰を下ろした。政秀は律義に襖を閉めてから信長の前で正座し、
「この政秀めが調合した精力剤を渡したでしょう! 調合法を記した紙と一緒に!」
信長は息を吞みながら視線を逸らした。
「あれはその、ほら……き、吉姉と一緒のときに……全部つかっちゃった……」
「正室ほったらかしてどこでなにやってんですかぁ!?」
鬼の形相で目を剥く政秀。政秀は信長に厳しい。いつも信長のやることなすことに怒って、叱って、非難する。それでも、政秀は織田家中の誰とも違う点があった。それは……
「まったく! そんなことではいつまで経っても!」
政秀は叫ぶ。
「立派な当主になれませんぞ!」
その一言で、信長の顔から緊張が抜ける。政秀はいつもこうなのだ。
織田家中の誰もが言う。信長はうつけだと。当主の器ではないと。弟信行が当主になるべきだと。だが、政秀の非難は違うのだ。政秀は必ず『このままでは立派な当主になれない』『立派な当主になるには』『信秀様の跡継ぎとしての自覚を』そうやって叱るのだ。
「聞いているのですか信長様! この平手政秀! 今日という今日は信長様に立派な織田家当主になっていただくべく口をエグいほどに酸っぱくして言わせていただきます!」
頬をほころばせながら、信長はふところに手を入れた。
「政秀」
「そもそも信長様は――」
「この常滑焼をどう思う?」
政秀は言葉を切り、信長が取り出した湯呑を手に取った。
「おぉ……この肌に吸いつくような手触り、表面の紋様……なんとすばらしい……って、ではなくてですねぇ!」
「こんなのもあるんだけど?」
「ふぉぉ……この赤々とした色合いと質感。知多半島の土でできた陶器はちがいますなぁ」
政秀は両目を血走らせ、犯罪的な視線で常滑焼を堪能している。
政秀は茶道や和歌を好む文化人。信長どうよう、陶器も大好きだ。
「う~む、素晴らしい曲線でございますのぉ。ふむふむ」
小さな壷や湯呑を指でなで、政秀は喉を唸らせる。
「だろう? 瀬戸焼といい常滑焼といい、尾張の陶器は日本一だな♪」
こうして信長は政秀とふたり、常滑焼の魅力について語り合った。夕食は部屋に運ばせ、政秀とともに酒を吞み交わしながら瀬戸焼、茶道、和歌の話も交える。
夜が更け、月明かりに気づいた政秀はそろそろ家に帰ろうと立ち上がった。ほどよく酒に酔った政秀は、上機嫌に部屋を出ていこうとする。その背中を、信長が呼びとめた。
「なぁ政秀。そんなに芸術が好きなら、隠居して数寄者になったらどうだ? いつまでも俺のお守なんて大変だろ……」
「なにをおっしゃる。この戦国乱世に隠居するいとまなどありますまい」
ふん、と鼻を鳴らす政秀に、信長は声を渋らせる。
「じゃ、じゃあ俺が尾張を統一したら?」
「知多半島を狙う今川がおりますぞ」
「今川も倒したら?」
「今川領を手に入れれば、隣国の武田、北条が攻めてきます」
「えっと、じゃあ……」
なにを言っても政秀に言い返されそうで、信長は解答に困ってしまう。
「なら早く天下をお取り下さい。幼い頃よりおっしゃっていたでしょう。俺が天下人になると。日の本六十六か国すべてが信長様のもとに下れば織田家も安泰。わたくしめも隠居して茶でも和歌でも自由にやれもうす」
「言ったなぁ」
信長は悪ガキのように口角を上げ、歯を見せる。
「じゃあ天下統一のためにも、政秀にはバリバリ働いてもらうぜ」
「ふんっ。望むところです。この政秀が辣腕を振るえるだけの采配を、信長様が振るえるならですが?」
挑発的な笑みを浮かべる政秀。信長は悪そうな笑みをやめず、はたから見ればさぞ奇妙な光景に映るだろう。
先代信秀の死後。織田家に仕える多くの重臣たちが、信長の弟信行を支持するなか。年長者で有能で信秀の信頼も厚かった平手政秀だけは、信長を支持した。信長にとって政秀は、もうひとりの父だった。
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