第4話 親の遺産
「この知多半島は尾張織田家の大収入源。この商工業区からの冥加銭(売上税)と関税の収入はあまりに魅力的だ。大名なら誰だって手中に収めたい」
「うん。それに木曽川に面している四つの港は知多半島の根元。知多半島を手に入れれば、尾張すべての港をかんたんに支配できるわ。だから義元公は、わたしたちが子供の頃から、何度もこの国に攻め込んできた……」
吉乃の声は、悲しみを隠し切れていなかった。
知多半島という『金のなる木』を欲して、今川義元は幾度となく尾張に侵攻してきた。信長の父信秀は、そのたびに義元を退けてきた。そして多くの人が死んだ。
戦国乱世に生まれたとはいえ、若い吉乃は静かには受け止められない。
けれど信長には悲しむ暇などない。
父信秀が死んだいま。家督とともに、義元との戦いも信長に受け継がれたのだ。
遠い日を思いながら、信長は水平線を見つめる。
「俺が生まれ育った城はさ、港のすぐ近くだったんだ。そんで親父が言うんだよ」
ゆっくりと息を吸いこみ、
「港はいい。どんなに遠く離れた土地でも、船ならすぐに行ける。尾張の瀬戸焼きも常滑焼も、港を使えば全国の人に届けられる。それに全国から産物が集まるから、尾張にいながら異国の匂いに触れられる。ってな」
信長は思い出す。勇ましく、けれど父としての優しさを忘れない信秀を。悪ガキ大将だった信長は、幼い頃から織田家中ではうつけと言われた。信長よりも、真面目で勉強熱心な弟信行のほうが当主にふさわしいと、誰もが口にした。母親でさえ、弟信行に家督を継がせようとしていた。そんななか、父信秀だけは何かにつけては『次期当主はお前だ』と信長に言い続けた。
「弟ちゃん」
吉乃は、信長の横顔に呼びかける。信長も、吉乃と視線を交えた。
「守ろうね。お父さんが残してくれた贈り物を。この、知多半島を」
吉乃の真摯な眼差しに、信長は大きく頷いた。
戦国乱世のこの時代。税収の多さはそのまま軍費、しいては防衛費に繋がる。莫大な税収入を得ることができるこの知多半島は信秀最大の遺産だ。敵だらけで味方のいない信長が、尾張国内を統一し、そして国外勢力から尾張を守る防衛費をねん出する遺産だ。
でも、父親の形見であることと同じくらい、
「吉姉。俺は、たとえどんな手を使ってもこの知多半島を守るぜ」
信長が視線を回した先では、商いに従事する人々が生き生きとして働いている。
父信秀が死に、織田家中では味方がいない信長。だが、領民たちは信長を好いてくれる。
そして好かれるからこそ、信長は笑顔の下、胸の奥で心を痛めていた。
いまの信長には、領民を守る力がないから……
「親父は、五千人以上の兵を動員できた。でも親父が死んで親戚連中はみんな離反して、俺は千人と数百がやっとだ」
信長は悔しさを噛み殺し、両手で握り拳を作る。
「今川軍から尾張を守るためには、織田一門が一丸とならなきゃならねぇ。なのに親戚連中の頭のなかは、親父が死んだ混乱に乗じて自分の領地を増やすことばかりだ。恥ずかしくて涙がでてくるぜ」
信長は一度顔を伏せ、息を吞んだ。でも、すぐに闘志を滾らせた表情を吉乃に見せた。
「吉姉。俺は年内に尾張を統一する。あいつらは、尾張の領民たちはこんな俺に期待してくれている。家中の誰もが当主の器じゃないって俺を蔑むけれど、みんなは俺を応援してくれる。そんな連中を守れなくて何が武士だ!」
信長の瞳の奥に、輝く決意を感じ取ったのだろう。吉乃は包容力溢れる笑顔で信長の手を取った。
「弟ちゃん。一緒に、この国を守ろうね」
一緒に。そう言ってから、吉乃は付け加える。
「お姉ちゃんは、弟ちゃんの奥さんだから」
と吉乃は信長を抱き寄せる。抱き寄せて、耳元で囁いた。
「今川方は尾張征服の方針を侵攻から調略に変更。離反した各織田家に寝返り工作をして、無傷で尾張を手に入れようとしているわ」
吉乃の実家には、行商人や旅芸人など、全国各地を回る人々が泊る。そのため、日本中の情報が集まる。それが吉乃の実家、生駒家の裏の顔。早い話が情報屋だ。
信長も、ただ妻である帰蝶をほうっておいて吉乃のもとへ行っているわけではない。生駒屋敷に顔を出すたび、生駒家で全国の大名たちの動きを探っているのだ。
「国境近い鳴海城、大高城は今川に寝返ったとみていいわ。いまは鴫原城に今川の使者が出入りしているみたい」
「わかった。どうやら運は俺に向いているらしいな」
「そうなの?」
「ああ。一番やばいのは、織田家が離散しているいま、大軍を送られて各個撃破されることだ。でも調略なら。そもそも親戚連中はもとから俺の敵なんだ。たいして変わらねぇ。俺はいままで通り、尾張統一に専念できる」
「でも、今川の援軍も出てくるかもしれないんだよ?」
「それでもだ。それでも、織田家が各個撃破されるよりは遥かにマシだ。ただ、鳴見城と大高城が寝返ったのはまずい。この二つの城の連携を断つために、あいだに砦を築く。吉姉、人夫(肉体労働者)の手配を頼む」
「わかったわ。お兄ちゃんに言っておくね」
吉乃の実家は商家。商品の灰と油を全国に流通させる関係で、人夫や荷馬車の手配はお手のものだ。吉乃が当主である兄に頼めば、砦建築に必要な物資と人手はすぐに集まる。
信長は吉乃から体を離すと、彼女の手を引いて歩く。そろそろ那古野城に戻る時間だ。
町へ戻る途中、信長は吉乃に尋ねられた。
「ところで弟ちゃん。さっきお姉ちゃんに内緒で買っていたクシ。あれって帰蝶ちゃんへのお土産?」
「~~ッ!?」
信長は息を詰まらせ、表情を崩した。
「な、なに言ってんだよ吉姉!」
子供のように取り乱す信長。そんな様子を楽しむように、吉乃は笑った。
「えへへ。帰蝶ちゃんとうまくいくといいね♪」
「ぅ……ぅん…………」
信長は、夕刻前であることを呪った。顔が熱い。いまが夕方ならば、顔の赤みを夕陽のせいにできたのに。そう思わずにはいられなかった。
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