第12話 最低な告白

 訪ねてみたが、店にケーキの姿はなかった。

 クレアとニコラスは一応は閉められているカーテンの隙間から覗いてみたものの、人がいたような温もりの残滓というのか気配のようなものは全くなく、どこかへ行ってここずっと帰ってさえいないのだろうと推察された。


「ケーキさん、変な気を起こしてないといいけど……」

「うーん、彼は見た目だけじゃなく心も逞しいだろうから、さすがにそこまで悲観的な行動は取らないんじゃないのかな」

「そう、かもしれないけど……」


 クレアはニコラスをちらと横目で見る。


(本人がいないからなの? ケーキさんを彼って言ったのは)


 クレアの覚えている限りニコラスはケーキをレディ扱いしていた。しかし今は自然な発言として彼と言った辺り、実はニコラスもケーキの前では気を遣っていたのかもしれないとそう思った。

 二人でここから然程遠くない屋敷への道を歩く。

 ケーキ店を後ろにしながら、クレアは懐かしさが込み上げた。


 この場所はブライアンから初めてプレゼントを貰った場所だったから。


 結局手元に帰ってこなかった青薔薇の髪飾り。


 彼と共に失くしてしまった。


 知らず知らず下を向いてしまっていたからか、隣を歩いていたニコラスが名前を呼んで覗き込んできた。


「疲れた?」

「ううん、昔をちょっと思い出しちゃって」

「昔?」

「うん、ブライアンがね、ここで髪飾りをくれた事があったの」


 ニコラスは目を瞠る。それから少し切なそうに微笑んだ。


「あの子を思い出してくれてありがとう、クレア」

「お礼を言われるような事じゃないわ。家族と同じなんだから当然よ」

「家族……ふふ、そうか」

「勿論ニック兄様もそうよ」


 ニコラスは喜んでいるような躊躇っているような曖昧な顔付きになると思案するようにしながらゆっくりとクレアの横を歩いた。考え事をしていたからゆっくりになったのかもしれない。

 そしてそれほどケーキ店から離れていない場所で立ち止まる。


「――クレア」


 休日だからか通りには人通りがあり、馬車道にもそこそこ馬車が走っている。往来の喧騒に邪魔されない声の強さでニコラスはクレアの足を止めさせた。


「どうかした兄様? 買い忘れでもあった?」


 彼は「いや」とゆるゆると首を横に振ると、クレアの正面に立つ。


「以前、君は僕との婚約を断った、そうだよね?」

「……う、うん」


(兄様ってばいきなり蒸し返してどういうつもりなの?)


 生還してからも一切そんな話は出てこなかったので、クレアはもう終わった話だと認識していた。向こうだってそれは納得していたと思っていた。

 しかもそこを考えると芋づる式にオーリ王子の顔まで浮かんできて、クレアは内心で王子へと中指を立ててやった。


「戦場で色々と考えさせられて、やっぱり僕はクレアと婚約したいと思ったんだ」

「え……ええっ!? な、何で? オーリ殿下からは幸いまだ何も言われてないし、戦後処理に色々と忙しいだろうからこの分じゃ当分お呼びは掛からないはず。だから今あたしのためにわざわざ婚約しなくても大丈夫よ。あ、今って言うかこの先も変に気を遣わないでいいから、本当に!」

「……」


 ニコラスは何故か怪訝な空気を孕みながらも無言でじっとしているからクレアは何となく気まずい。何を言えばいいのか、或いは言うべきではないのかを考えているようでもあった。


「とにかくね、あたしの事はいいから、ニック兄様はニック兄様の好きな相手だけを見てあげて」


 説得するように見上げれば、ニコラスは何か痛いものを堪えるような眼差しになる。そこにはどうしてと問うような色も潜んでいるようにクレアは感じた。


「クレアはもっと欲張りに自分の望みを口にしてもいいんだ。そのために僕はここにいるんだよ」

「欲張りに……あたしの望みを……?」

「そう、誰に遠慮するでもなく、クレアの願う事を」


 彼は優しく微笑んだ。

 それはクレアに突然大きな不安を感じさせた。

 今までになくニコラスの表情は雄弁だったから。昔から彼は周囲との調和を優先するきらいがあって余り感情をストレートにぶつけてくるタイプではない。

 それなのに今はどこか違う。


(ニック兄様はまさかあたしを……? いやいやそんなわけないわよね。でも、もしもそうならどうしよう)


 婚約婚姻の提案は親切心や同情のようなものであって勝手に恋愛感情はないと思っていた。それがクレアの勝手な否定だったなら……。

 胸が苦しくなってクレアはぎゅっと下唇を噛む。瞳が揺れる。これまで彼の言動をそんな風に考えた事はなかった。


「実は、君に渡したい物があったんだ。帰ってきてからずっと渡せなかった物なんだ」


 ニコラスは懐から小箱を一つ取り出した。

 クレアは見覚えのあるそれにあっと声を上げると思わず詰め寄った。


「兄様もしかしてそれ――」

「うん」


 クレアの言わんとするものがわかっているのかニコラスは半分目を伏せて小箱の蓋を開ける。


 中には予想通り、青薔薇の髪飾りが入っていた。


 ブライアンから贈られブライアンへと送り、もう帰ってこないのだと諦めていたそれが。


「どうして、それを兄様が? ああ、そっか、遺品として受け取っていたのね」

「……どういう意味? ああ、遺品としてって、元々はブライアンの物だったからか」


 クレアは何か話が噛み合わない気がしたが、何がとはよくわからない。ぼんやりとした疑問が形になりそうだったものの、ニコラスが動いたので霧散してしまった。

 彼は腕を伸ばしてクレアの赤髪を耳に掛けてくれる。


「クレア、遅くなったけど改めて……ただいま」


 ――ただいま。


 クレアの中にいつかのブライアンの声が甦ってきてドクリと心臓が高鳴った。

 ただいまを言ってほしい相手はもういない。

 それをまざまざと思い知らされる。


 目の前にいるのはニコラスなのに、クレアが思うのはブライアンだ。


 ニコラスはきっと知らない。


 彼の手にある青薔薇がクレアにとってどんな宝物かを。


 それを葛藤の末に戦地に送ったクレア自身でも、とうとうこんな状況になるまで自覚しなかった根底の感情を。

 ニコラスは髪飾りをクレアへと近付ける。


「あ、少しじっとして? 手紙にあったよね。無事に帰ってきてこれをつけてって。約束を果たすよ」


 あなたの手で、とそう手紙には書いた。


(でもそれは……)


 ――ブライアンに願った。


 あの頃はニコラスまでもが戦場にいるとは知らなかった。だから彼には手紙を出していないが、知っていたなら出していた。


 けれど、無事に帰ってきてとは書いてもブライアンにしたような約束は願わなかっただろう。


 青薔薇の髪飾りは特別で、どうして特別なのかは、その贈り主が特別だからだ。


(ウィンストン家の二人には恋しないなんて思っていたのに)


 それはきっと二人が大切過ぎるから無意識に壁を作って自分を護るためだったのかもしれない。いつの日か彼らを失っても傷付かないように。

 それは最愛の妻を失った父親の嘆きを見てきたからかもしれない。クレアの前では見せないようにしていたが完璧には隠せなかった。辛そうな横顔は子供心に誰かを特別好きになる事への恐れを生んでいたのかもしれない。

 しかしそんな歯止めなど、知らないうちに超えていく。


 ニコラスの指先がこめかみを掠め、青薔薇の髪飾りがクレアの髪に触れて――――……。


「――やめてっ!」


 クレアは反射的にニコラスの手を叩き払っていた。パシリと肌を叩いた音が上がるのと同時に髪飾りが彼の手から飛ばされる。

 それは物理法則によって離れた馬車道まで飛ばされてカシャンと音を立て落ちてからも石畳を更に滑った。

 ハッと我に返ったクレアだが、ニコラスを気にしている余裕もなく車道へと飛び出した。駆け寄って飛び付くように髪飾りへと手を伸ばす。


「クレア危ないっ!!」


 ニコラスが叫び、クレアは迫りくる一台の馬車を知覚する。いかにのんびりしたウィーズだろうと馬車道を走る馬車は他と同様にそこそこ速い。生身の人間が走る馬に体当たりされて無傷なわけもない。


(あ、死ぬ……?)


 その思考は秒にも満たない刹那。


「クレア!」


 掻っ攫われるかのようにぐいっと腕を引っ張られて体が浮いた。何とニコラスが突っ込んできてクレアを抱えて庇ったのだ。二人で間一髪と何もない路上に転がった。

 急停止を掛けた馬車は言わずもがなでやや先で停車する。

 往来の人々は足を止め驚いた顔や懸念する顔をしてざわざわとしてクレア達を見つめている。


「う……」

「平気かクレア!?」


 目を開ければ地面に座り込むニコラスが不安そうな面持ちでクレアを覗き込んでいた。彼に半身を抱き抱えられているクレアは放心したようにしながら「大丈夫」と頷いた。


「あの、叩いてごめんなさい。それと助けてくれてありがとう」


 ニコラスから手を支えてもらって立ち上がるクレアは正直まさか彼が助けてくれるとは思わなかった。よくよく鍛えた者のような存外優れた彼の瞬発力には脱帽だ。自分まで万一だってあり得たにもかかわらずの勇敢さも。

 心底からのびっくり展開にドキドキしてまじまじと彼の顔を見つめてしまっていたら、彼は珍しくも怖い顔になる。


「クレア、何でこんな危ない真似をしたんだ。髪飾り一つで死ぬところだった!」

「なっ、そんな言い方って……!」


 その髪飾り一つがこの上なく大事な人間だっているのだ。


「兄様にとっては単なる髪飾りでも、あたしにはブライアンの形見も同然なの。粗末な物みたいに言わないで」

「そっ……うだとしても、クレアの命よりも優先されるべき価値はない。髪飾りなら、代わりのを僕がまた買うよ」


 代わりのを。ニコラスの言葉に嫌な予感がしてクレアは急いで視線を巡らせる。


「あ、そんな……」


 髪飾りは一部を馬か車輪にかは知らないが踏まれて砕けてしまっていた。まるで枯れて散ってしまった薔薇のようだと思考のどこかで思う。路上に散らばる無残な姿がクレアの目に涙を浮かばせた。

 彼女は途方に暮れた人のようなふらふらとした足取りで近寄っていくと震える指で拾い集めた。幸い粉々ではなくて比較的大きめに壊れたので欠片は全部拾えた。それらを丁寧にハンカチに包む。


「兄様、あたしにとってはこれの代わりなんてないの。誰にも誰かの代わりはできないのと一緒でね。兄様にブライアンの代わりはできないし、その逆だってそうでしょ。心からの物だって同じだわ」

「…………」


 ニコラスが初めて見る何とも言えない苦い顔付きでクレアを見ている。こういう顔も珍しいが弟のような表情の作り方だと薄ら思った。


 奇跡的に手元に戻ってきた髪飾り。


(これの過去には、きっと向こうでのブライアンがたくさんあるはずよ)


 しかし壊れてしまっては過去視が可能かはわからない。


(ここでじゃあれだし、帰ったら試してみよう)


 密かに決心していると、何故か道行く人々のざわめきが増した。それは心なし黄色い声にも近いものでクレアは訝しく思った。

 クレアの視界の中でニコラスが強張った様子で息を呑む。馬車から誰か降りてきたらしく、彼は「どうして彼が……」とその人物を見ている。知り合いだろうか。それにしては様子がおかしい。

 迷惑をかけてしまった馬車へは謝罪しなければならないが、乗っていたのは運悪くもニコラスには苦手な相手なのかもしれない。


(一体誰が……) 


 疑問のままに振り返ろうとすると早くも誰かの靴音がクレアの後方で止まった。同時に鼻で嗤うような声が投げ掛けられる。


「はっ、走行する馬車の前に飛び出すとは、よもやお前に自殺願望があるとは思わなんだな、クレア・ローランド」


(――!? この腹の立つ言い方っ、忘れるわけもないわっ)


 クレアはぐっと怒鳴りたいのを堪えて肩越しに微笑み睨んでやった。我ながら器用に表情を作るなとも思いつつ、相手の以前も見た軍服姿を上から下まで確認する。


「お久しぶりですね、オーリ殿下」


 居ても王都か戦場だろう彼がどうしてここウィーズに居るのかは知らないが、歓迎できないのだけはクレアの中で明確だ。


「車道は危ないし、クレア、一先ず歩道に上がろうか。殿下、ご無礼を致しまして誠に申し訳ありませんでした。この罰は僕が如何様にも受けますので」

「えっ兄様は悪くないでしょ。悪いのはあたしよ」


 人が好いにも程があるとクレアが言い足そうとするのを制してニコラスに手を引かれる。改めて謝罪をするにしても、いつまでも車道に留まり交通の妨げになっているわけにはいかないので抵抗はしないが、それにしても何という恐ろしい偶然か。

 よりにもよってオーリの馬車の前に飛び出してしまうとは。


(あ~~も~~っ、あたしとこの俺様殿下ってとんでもない悪縁なのかもっ!)


「オーリ殿下、申し訳ありませんでした」


 クレアも取り急ぎ一礼した。


「待て、逃げるのか?」

「逃げっ!? 車道は危ないから一旦歩道に行くんです」


(挑発的な言葉しか言えないのこの男ってば!)


 ギリギリ笑みは崩さずもギリリと奥歯を噛み締めるクレアをオーリは面白そうに見つめる。


「オーリ殿下、ここは車道です」

「それが?」


 しれっと非常識な返しがきて、クレアは思わず青筋を立てた。でも笑みの形は崩さない。


「殿下はいい大人ですのに、公共での迷惑も考えられないんですか?」

「……何だと?」


 瞬時に険呑な空気が満ちる。しかしオーリはクレアから視線を外しニコラスへと向けた。その何らかの疑念を孕んだような鋭い眼差しを。


(ええと兄様がどうかした? はっ! まっまさか兄様が王城で殿下のふりしたのバレてご立腹とか? それで直々に捕らえに来た、とか!?)


 あり得るとクレアは青くなる。時効かと思っていたがこの王子殿下は案外そういう点に細かいのかもしれない。


「ニコラス・ウィンストン。報告を受けた時はまさかと耳を疑ったぞ。――どうして生きている?」


(へ……?)


 クレアは最初余りの台詞に理解が及ばず目を点にしたが、次には思考が沸騰した。


「はああっ!? 何よその言い種はっ。誤報が皆無とは言わないでしょ!」

「ちょっ、クレア、落ち着いて、ね?」


 思わず敬語を彼方に蹴っ飛ばして叫んだクレアをニコラスが宥める。


「そうだな。私も死体を直接この目で見たわけでもない」

「そうでしょ!」


 クレアがふんと鼻を鳴らすとオーリはちらと馬車の方へと目を向けた。


「出てこいフラウ」


(フラウって、あの眼鏡で口の悪い殿下崇拝者よね)


 すると馬車から予想通りの人物出てきた。


(あーあ、どうせまた不敬だ何だと煩く騒がれるんだわ)


 しかし、オーリの隣に立った彼は顔面蒼白な顔でニコラスを見つめた。


「フラウはニコラス・ウィンストンが谷底へと落ちたのを目撃していた一人だ」

「はい、確かにこの目で見ました。しかし、ですが、どうして生きて……可能なものなのか?」


 後半部分は無意識にだろう独り言として呟くフラウは、幽霊でも見たような顔をしてニコラスを恐れを含んだ目で見つめる。

 ニコラスの方は生きているのを歓迎されていないように感じてなのか「幸運だったんです」と半分目を伏せてフラウの視線を避けていた。

 クレアには彼らの話が半分以上わからないが、生還したニコラスが責められるようなのは断じて看過できない。


「ちょっとそこのフラウとか言う人! ニック兄様が生きてちゃ都合が悪いわけ?」

「べっ別にそういう意図はない! 勝手に決め付けるな! しかし、殿下から話をされて半信半疑でいたが、まさか本当に彼だとは……」


 ぶるりと震えたフラウは以前の尊大さが嘘のようだ。ホラーやオカルトが苦手なのかもしれない。


「もしかして、殿下方は生きてるのが本当にニック兄様かをわざわざ確認しに来た、んですか?」

「そうだ」


 ちょっと冷静になり敬語に戻したクレアだが、オーリの即答にきな臭いものを感じた。


(どうして彼ら、ううんこの男自ら? 今更だけど本当の本当に兄様はどうして戦場に行かないといけなかったの?)


 訊くなら今しかない。クレアはこの場の勢いを利用しようと決める。


「ところで兄様、訊くに訊けないでいたんだけど、どうして従軍したの? 軍とは縁のない兄様が戦場だなんて、本当は誰かに無理に行かされたんでしょ、誰かに!」

「クレア、それは軍事機密なんだ」


 クレアがこれみよがしにオーリをちらちら見ながら誰かにという部分を強調したからか、ニコラスが困ったようにする。


(やっぱりね。だけど兄様の口から言えないならオーリ殿下に訊くまでよ。必要なら過去視魔法を使ってでもね)


 そうでもしないとまた同じような目的でニコラスが危険に晒されるかもしれないのだ。誤報だったとは言え屋敷に満ちた前例のない静かな絶望を思い出すと今でもクレアは腹の底辺りが冷水に浸されたような心地がする。


(誰かの過去を覗くのは良くないけど、そんな風に善人ぶってなんていられないわ)


 クレアの本気の決意を感じ取って身の危険を感じたのかは知らない。


「――私の影武者だ」


 オーリが最も端的に真実をつまびらかにした。


「でっ殿下それは機密ですよおっ!」


 フラウがギョッとして叫んだ刹那。


 パシンッと肌を叩いた乾いた音が上がった。


 詰め寄ったクレアがいきなりオーリの頬に平手打ちしたのだ。


「クレア!?」

「貴様あああーっ!」

「影武者ですって!? そんなの戦場でさせたって言うの!?」


 オーリはじろりとクレアを睨む。

 彼の臣下達は慄きすらする視線にもクレアは全く怯まない。


「ああそうだ。彼は戦場で敵を欺くために私として追い詰められる役割を担っていた」

「いくら似ているからって、そんな、そんな危険な作戦に非道にも戦闘素人を使ったの!?」

「非道? ハッ、戦争に負けて無辜の万の民が敵に蹂躙されるよりは人道的だと言ってほしいものだ。少ない犠牲で済むなら私は迷わずそちらを選択する」


 オーリは不意のクレアの暴挙に唖然となっているニコラスへと視線を転じた。その目の奥に探る色を覗かせて。


「ニコラス・ウィンストン、国のためによくやった」


 ニコラスが微かだがひゅっと息を呑んだ音がクレアの耳には聞こえた。何か爆発しそうな感情を瞬時に無理矢理押し込めた際にこんな引き攣りそうに空気が通るのをクレアは何となく知っている。

 内心怪訝に思って彼を一瞥したが、控え目な笑みで「殿下の深い思慮のあるお言葉に感謝致します」と頭を下げた。いつも場をなるべく荒立てないニコラスらしい受け答えだ。

 しかしクレアは憤慨もひとしおだ。ブライアンは犠牲になったのだ。家族の前でよくもいけしゃあしゃあと先のような台詞を口にできるものだとニコラスを再び睨んだ。


「数の問題って考え方は嫌いよ。大体、一般人の兄様にそんな無謀な真似させなくても、あなたなら……あなたっ、ならっ……!」


 破格な魔力で魔法を使ってもっと容易に敵を駆逐できたはずだと、そう皆の前で暴露してやりたかった。


 しかしクレアは堪えた。


 そこを口にしてしまえば、確実に越えてはならない一線を越える。クレアの命はない。


 この場で会話を聞いていた関係のない人々も、ニコラスだって。

 そしてだからこそオーリは影武者なんて方法を選択した。

 彼の魔法能力はこの国の大きな切り札と言える。必要ある時までは秘匿しておくつもりなのだろう。それくらいはクレアにだってわかる。


「女はヌルいな」

「はあ!?」

「クレア!」


 さすがにニコラスが鋭く叫び、その声にクレアはハッと我に返る。


「殿下、どうかご容赦を、僕から非礼をお詫びします!」


 即座にニコラスはオーリとの間に入って素早く膝を折った。身に染み付いているのだろう様になる動作だ。投獄されてもおかしくない事をやらかしたとクレアも気付いて不本意ながらもニコラスに倣う。

 オーリはややあって「次はない」とだけ言った。


「ところで殿下、本当に影武者と明かして宜しかったのですか?」


 立ち上がりさりげなくクレアを庇うように自らの背中へ追いやったニコラスが懸念を示したが、表情からオーリは本気で問題とは考えていないようだ。


「作戦が成功し勝利した今となっては、最早機密でも何でもないであろう。まあ終戦直後は明かすのは得策ではないと思っていたが、大体にしてこうして似た者二人が立ち並んでしまえば、容易にそのような想像もつく」


 他方、叩かれたオーリ本人よりもフラウの方が余程クレアを殺したそうに睨んでいたが、クレアはビンタについては反省も後悔もしないつもりだ。


「兄様がこうして生きているから、ビンタだけで済ませたんですから。ここに来たのも兄様が本物かどうか確認するためみたいですけど、もう目的は達しましたよね。今すぐお帰り下さい」


 クレアはビシリと馬車が走って来た方向を指してやる。

 フラウがまたけしからんとか何とかがなり立て腰の武器に手をかけたが、オーリはそんな部下を腕を上げて制した。


「そうだな。最早留まる理由はない。帰るぞフラウ。喚いておらんでとっとと馬車に乗れ」

「殿下は人が好過ぎですよおっ!」


 フラウは嘆きつつも主人命令には素直に従った。去り際にもきっちりクレアを睨むのを忘れずに。

 一方のオーリは、彼も踵を返しながら何故だか片頬を吊り上げる。


「クレア・ローランド、お前に一つ忠告してやろう。そこの男――ニコラス・ウィンストンをゆめゆめ信じぬ事だ」

「は? 何なんですか失礼な」


 オーリはもうクレアの言葉など雑音とでも言うように背を向け答えない。

 彼が乗り込むやすぐに馬車は走り出していった。


「全くもう、相変わらず腹の立つ奴だわ。ニック兄様もあんな暴言は気にしないようにね」


 ニコラスと歩道に上がったクレアが遠ざかる馬車の後ろにべっと舌を出してから横のニコラスを見やると、彼はまだ馬車を見つめていた。

 その目には怒りか恐れかそのどちらもか、クレアには的確に察する事の難しい複雑そうなものが浮かんでいる。クレアは何となく目立たないようにハンカチを鞄に仕舞ってから改めてニコラスの顔を覗き込む。


「兄様、ニック兄様~。もう帰りましょ?」

「え、あ、そうだね」


 ハッと我に返ったらしい彼はいつもの微笑みをこの時ばかりは取り繕ったようだった。


(兄様とオーリ殿下って性格が真逆だし、実は合わなかったのかも)


 影武者をしたからと言って関係が良好とは限らない。

 髪飾りの件はオーリの登場で曖昧なまま終わったが、かえってそれで幸いだったとクレアは思う。あのまま続けていたならニコラスとの確執ができてしまっていた。

 屋敷までの帰り道、二人の空気はそれでもややぎこちなく、視線が合ったりもしない。

 クレアの方が彼の方を見なかったので当然だ。


「クレア、待って」


 けれど屋敷が見えてきた辺りで、ニコラスはクレアを引き留めるようにして手を掴んだ。


 この道は屋敷までの一本道で今は他に人影は見えない。屋敷からも気付かれない絶妙な位置だ。彼はたぶん人には聞かれたくない話をするつもりなのだ。

 クレアは内心の緊張を薄く表面に出して彼に向き直る。


「ごめんクレア、さっきは心ない言葉しか言えなくて。冷静さが欠如していたよ。兄として、ブライアンの気持ちを大切にしてくれてありがとうって言うべきだったのにね」


 面目ないとニコラスから深謝されクレアはあたふたとした。そんな謝罪を求めていたわけではないのだ。むしろ彼女の方が反射的に叩いてしまって結果ニコラスを傷付けたに違いなかった。


「やめて兄様、悪いのはあたしでしょ! 兄様に謝らせるなんてとんでもない。ブライアンに怒られちゃうわよ」

「……ブライアンは怒ったりしないよ」


 何故かニコラスは優しくも可笑しそうに苦笑する。


「そんなのわからないじゃない、兄様大好きブライアンだもの」

「ふふ、わかるよ」

「どうして?」

「ブライアンもクレアが特別大好きだから、かな」


 クレアは両目を見開いて怪訝にした。


「まあね、喧嘩をしようとブライアンがあたしを嫌ってはいなくて、家族兼友人として好かれているのはあたしもちゃーんとわかってるわよ。勿論兄様も同じだって事もね。何て光栄なんでしょう」


 自分で言って照れ臭くて少しおどけてみせると、ニコラスはうん、と頷いた。


「そこも同じなのは確かだよ。だけど僕が言いたいのはクレアは特別な女の子だって事」

「えっ!?」


 クレアはドキリというよりはギクリとして表情を硬くした。

 彼の目を見るにニコラスは切り上げてはくれなそうだ。だからこそ敢えてこんな場所で足を止めたのだろうから。

 クレアはこの先を聞きたくないと思った。

 聞いてしまえばニコラスとの関係が崩れる。

 お互い以前の状況、感情とは異なるのだとクレアは薄ら悟っていた。


「生憎、綺麗な花束も何もないけど、僕の気持ちだけは知っていてほしい」


 ニコラスは頬を緩めた。


「――僕はクレアが好きだよ。結婚するなら君としたい」


 クレアはじっとニコラスを見つめたまま暫く言葉が出てこなかった。

 言われてしまった。

 彼に言わせてはならなかった。自分の予感に半信半疑だったせいで予防線を張らなかったのを悔やんだ。


(兄様の気持ちを知らないフリをして、あたしはここを出て行くべきだったのに)


 何故ならクレアはニコラスに応えられない。


 それなのに彼はクレアとの未来を疑いもしていないような目で答えを待っている。

 しかしクレアは告げられた以上答えを言わなくてはならない。ニコラスのためにも。


「兄様、あたしは……――ごめんなさいっ! 兄様の気持ちには応えられない!」


 ぎゅっと拳を握り締めて真っ直ぐ顔を上げる。


「前の提案の時とは違うからこそ、余計に」


 ニコラスは思ってもみなかった言葉を聞いた人のように呆けていた。


「まだブライアンの葬儀が終わっていないのに不謹慎とか思って、遠慮しているの?」


 確かにブライアンの葬儀は延期されている。シシーが彼の死を認めようとしないためだ。伯爵家では彼女の気持ちを考慮してもうしばらくは見守ろうという風になった。

 ニコラスは問う眼差しを向けてくる。


「そうじゃない、あたしは兄様には相応しくないから」

「相応しくない? そんな言い方で自分を貶めるなんてクレアらしくないよ。身分を気にしているならそれこそ僕の方が本来は君に釣り合わない。セレナさんの出自は聞いて知っているんだ。でも、たとえクレアが世界で一番高貴なお姫様として僕の前に現れても、僕は変わらず君を好きになっただろうね」


 声から、眼差しから、ニコラスの愛は真摯なものだとわかる……と言うか真摯な告白ではないものを彼がしてくるわけもないのだ。クレアは故に受け取れない。


「違うの兄様。あたしは最低だから」


 クレアはごめんなさいと小さく呟く。


 これまでニコラスにも伯爵夫妻にも屋敷の皆にも友人にも誰にも微塵も気付かせなかった気持ちがある。


 あの日、ニコラスが生還した日から、クレアは醜い自分をひたすら隠してきた。


「……クレアが最低なら僕は何だろうね」

「え?」

「いや、君がどんなに悪女でも世界中から嫌われていても、僕は気にしない。僕の好きな人はクレア・ローランドだって堂々と叫ぶよ」

「あたしは兄様にそこまで想ってもらえる価値はないんだってば」


 ニコラスにだけは駄目なのだ。


「どうして?」

「あたしは最低女だから」

「何が最低なのか話してくれないとわからない。諦められない。このまま好きでいる」

「やめて、駄目なの! 兄様にだけはあたしを好きでいてもらったら駄目なの!」

「だからそれが何故かって訊いているんだよ!」


 必死な訴えにクレアは言葉に詰まった。だが言うべきなのだろう。ニコラスに引き下がってもらうためにも。彼にはそれが残酷な告白だとしても。


「どうして生きてるが兄様なのって、思ったからよ」

「え……?」

「最初は兄様の訃報でその時も本気で悲しんだわ。だけど、その後、本当はブライアンが死んだって聞かされて、あの時あたし、あたしはっ……――どうして兄様なのって、兄様じゃなくブライアンが生きてたら良かったのにって、本気でそう思ったの!」


 ニコラスは激しい衝撃を受けたように呆然として突っ立った。


「ね? ホント最低でしょ。だからあたしは兄様には応えられない。ごめんなさい」


 ニコラスは投げやりにも似た短い嘆息を吐き出した。


「これだけは正直に答えて。クレアは、ブライアンが好きなんだね?」


 告白してきた兄の前で弟を好きだと認めるのはとても酷だ。

 しかしクレアはこくりと頷いた。嘘はつけない。最低であるが故に誠実でなければならなかった。


「そっか……はは」


 ニコラスはやけに弱く笑う。失恋したせいなのかその他の理由なのかクレアにはわからない。

 尚も彼は弱々しく笑声を上げて肩を震わせる。


「本当にごめんなさい兄様。あたし、近いうちウィーズを離れようと思う。それまでは気まずいだろうけど……」

「ここを離れる? 僕に気を遣ってるならやめてくれ」

「違うわ。前から考えてたの。あたしは魔女みたいだし、だからオーリ殿下に王都に来いって言われる前に行ってやるのも手かなって」

「…………そ、う。クレアの気持ちはわかったよ。この続きは、また後で話したい。いいかな」

「うん……、時間はあたしも欲しいから、後で……」


 やはり告白を断られた気まずさやショックがあるのか、彼は歯切れ悪く頷いて俯くと「帰ろうか」と一人先に歩き出す。


 風がやや強く吹いた。


 まるで唐突に取り残されたようにまだその場に佇むクレアは、小さくなる落ち込んだ背中へと心で語りかける。


(兄様はどうして怒らないの? 軽蔑しないの? 罵らないの? あたしは嫌われて目も合わせてもらえなくも文句は言えない事を考えたのよ)


「クレア……?」


 少し歩いてしまってから付いて来ないのに気付いたのだろう。立ち止まって呼ぶニコラスの柔らかな声がする。


「……っ、どうして、兄様は……」


 声にならない声で呟く。今日も目に痛いくらいに空は青くて、クレアの視界は青にぼやけた。

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