第11話 奇跡の再会

「オーリ殿下、もう一週間です。勝利しましたのにまだ留まるおつもりですか? どのみちあの深い谷では奇跡的に発見できても引き上げるまでには日数を要します。まだ敵の残党が潜んでいる危険もございますし。彼のおかげで敵の油断をまんまと誘いこの戦いに勝利できたのです。オーリ殿下は一日でも早く殿下自らの手で彼を含めた戦死者の魂を弔うべきかと」

「そうだな……」


 今は爆撃音も怒号も悲鳴もない荒野、ラクレアとアルフォ国境の戦場。


 ラクレアの美しい金の獅子、第一王子オーリ・ラクレアは、野外にある指揮官のための天幕で彼の前に跪くハーシェル大佐の意見に重々しく頷いた。


 彼の後ろ姿など特にニコラス・ウィンストンとそっくりだ。背格好だけではない。前を向いても二人は顔立ちもよく似ている。赤の他人だというのにつくづく人間とは不思議なものだとオーリは思う。

 ニコラスと初めて会った時、そして開戦直前、配下がオーリの影武者だと彼を連れてきた時に特にそう感じたものだった。ただ偶然にも似たのは容姿だけで性格は正反対と言えたが。


 事前に提案を受けていたのだろうが、ニコラスという男は直接対面してオーリの口から正式に影武者を命じた時、一切渋る素振りなく応じた。誰にもその極秘の役回りを明かせないのも重々承知していたと思う。


 王子からの命令に逆らえるわけもないという諦念染みた雰囲気でもなく、むしろ当人のオーリよりも冷静に見えた。大まかな説明をする間もその沈着さは崩れず、オーリには必要な作業を淡々とこなす機械を彷彿とさせたものだった。


 しかし、今ならわかる。


 彼が大事に大事に抱えていたものは彼自身を苛んでいた。


 耐えても堪えても出口が見えず、故にこそあっさりと命の賭けに臨んだのだろう。そして成功し勝利した暁に彼が望んだものは王命としての異国行きだった。それも何年か。外交官でも学者でも肩書きは何でもいいとも言っていた。


 周囲を優先する余り自分では逃げる事もかなわず、国家権力さえ利用する。愚かであり強かでもある男だ。それでいて優し過ぎる男だともオーリは思った。


 東南国境を貫くように走る大峡谷。


 その傍での双方最大戦力を投じての戦場では、ニコラスをオーリに仕立て上げ下手を打たせたように見せかけた。


 調子付いた敵国アルフォの兵士達はオーリの予想通りに首級たるオーリを追い詰めて討ち取らんと、峡谷の端へと大半の兵を進めた。

 そこへ本物のオーリ率いる大軍が現れ敵軍を挟み撃ちにしたのだ。それまでオーリ達は仕込んでいた大規模魔法などを駆使して潜んでいた。


 そこまでは良かった。


 しかし、崖の地盤はオーリ達の予想よりも大幅に脆弱だった。


 まるで逃げるように先頭を馬で駆けていた囮のニコラスと少数の兵士達、そして多くの敵国の兵士達が大きくずり落ちた地面共々底の見えない深い崖底へと転落して行ったのだ。


 オーリはその戦場にはいたが距離的に崖の端までは見えなかったので、生き残った囮隊の部下の一人――フラウから一部始終を聞き彼にしては存外動揺したのを覚えている。


 王都ではクレアとも会った眼鏡兵士フラウはオーリの側近の一人なので、敵に怪しまれないようニコラスに同行させていたのだ。


 加えて、崩落の場には何故かニコラスの弟も居合わせていたのだとも聞いた。


 挟み撃ちにされた挙句崖が崩れて多くの兵士が峡谷の深淵に消えた敵国軍の本隊は言うまでもなく大混乱に陥った。潰走する敵軍を壊滅させるのにオーリは大して苦労しなかった。

 本当ならニコラス達影武者隊は助かる手筈だった。崖のギリギリまで誘き寄せてから短距離テレポート魔法で自陣へと飛ぶように各個人には魔法具を持たせてもいたのだ。

 だが不慮の崩壊はおよそ半数の人員にそれを行使する暇を与えなかった。フラウは幸運だったと言える。

 今回の手柄の半分は彼らにあると言っていい。上層部のみが把握する軍の機密でもあるので影武者の件を大っぴらにはできないが、それでも彼らは多くを手にするはずだったのだ。


(ニコラス・ウィンストン、私の影武者になどなったばかりに、何とも気の毒な男だ。……あの赤毛の娘はどうしただろうか。既に訃報はウィーズにも届いているはず)


 ニコラスと親しい間柄の彼女は涙を流して悲しんだのだろうか。


(セレナと同じ目をした、あの娘は……)


 オーリは歳の離れた亡き友人を思い出す。彼女は王国軍人であり王国所属の魔法使いだった。


 反対に、ニコラスは一般人。

 王国軍人ではなかった青年を引き込んだのは最終的にはオーリ自身。


 目を閉じ悔恨にも似たものを胸中に抱く彼は、天幕から出て戦地の風に当たりながら葉巻を一本取り出して蒸かしながら、決戦前夜ニコラスと話をしたのを思い返した。


 乱暴な昼の風が金髪を乱していく。現在はすっかり晴れているが、昼夜問わず爆撃とそれの魔法防御を双方の野営地で暇なく繰り返していたせいで当時は空には黒煙が掛かっていた。


 そんな月の見えない夜空の下、荒野の陣地で天幕の建ち並ぶ合間での焚き火を前に腰を下ろしニコラスは一人物思いに耽っているようだった。

 この時も葉巻を吸おうと外に出てきたオーリはそんな彼を見掛けてふと話をしてみたくなったのだ。


 一応は顔を隠すように半面を付けていたニコラスはオーリから話し掛けられ最初こそ驚いていたが、すぐ慣れたようで緊張を解いた。それにはオーリの方が些か意外に思ったものだった。因みに葉巻を勧めたがあっさり笑顔で断られた。

 誰も彼もオーリの前では畏まって気を弛めない。一つでも失言すれば首を飛ばされると本気で思っているのだろう。彼は傲岸不遜だが決して理不尽な理由で命を奪ったためしなどないというのにだ。


 ニコラスはおそらくは心の整理も兼ねて誰かに聞いて欲しかっただけで、それがオーリでなくてもよかったに違いない。だが彼に話しかけたのは何の因果かオーリだった。


 二人で話して、最後にニコラスはオーリに頼み事をした。


『もしも僕が死んだら――』


 既に戦死者は何人も出ていたが、オーリは縁起でもないと話を遮った。しかしニコラスは今でなければおそらく誰にも話せないから聞いてほしいと強い目で譲らなかった。

 自分はたとえ鏡の中でもしないような表情に奇妙な心地で相対するオーリは仕方がなく聞くだけは聞こうと折れたという次第だ。思い返せば他者の意見に譲歩したのは久しぶりだった。


 ともかく、オーリはニコラスからある物を預かった。


『今朝、手違いで僕の所に届けられてしまって……。本来はブライアン、弟に行くはずだったんですけどね』


 そう言って彼が落としたり盗まれたりしないよう大事に仕舞っていたのだろう懐から出した小箱にあったのは、掌に乗るサイズの青い薔薇の髪飾りだった。


 小箱に一緒に入っていたらしい手紙もあったが、宛名を外包みに書いてあるからと書かなかったのか名前のないその封筒は開けられてはなさそうだった。


 それらを彼の弟に渡してほしいと言ってきたのだ。


 戦地に送られてきた物なのだが、不運にも運ぶ途中で外包みの一部が濡れたせいかウィンストンというラストネームしか読めなくなり、軍の郵便係がどうしましょうと上官に相談したところその相手はたまたまニコラスの影武者作戦を知る幕僚だった。しかもこれまた偶然にもこの戦地に従軍していたウィンストン姓はニコラスとブライアンしかいないとリストを見てわかり、結果としてまずはと兄の方に回ってきたらしい。そんなアクシデントのせいで日数を要してしまったようだ。


『弟に届けてもらおうとは思いましたが時間がなくて。明日は重要な日ですからね。もしもの時はこれが遺言です』


 実際ニコラスは入念な打ち合わせをしていたので郵便係の所に行っている暇はなかった。彼はどうせなら自分が持っているよりもオーリに託した方がベターと判断したらしい。作戦の危険度はニコラスの方が格段に高い。それ故の影武者でもあるのだ。


 託された以上、オーリは履行するつもりでいる。


(それにあの時は敢えて訂正を入れんかったが、言うなれば遺言ではなく遺品だろうに。まあな、何もなければ返すつもりでいたのだがそれもかなわん)


 ハッキリと詳細までを聞いたわけではないが、話の端々から推察するにニコラスは好いた相手と恋敵との間で葛藤していたらしい。どちらも大事だから苦しかった。


(お人好しめ。私なら邪魔な男など蹴散らして好きな女はものにするがな)


 回想したオーリはポケットに入れてある託された小箱の存在を改めて意識すると、天幕の外までわざわざ律儀にくっ付いてきていた部下を振り返る。


「ハーシェル大佐、ニコラス・ウィンストンの弟をここに連れてこい」


 ニコラスの弟はどうしてか後方支援ではなくこの前線にいたという。


 そして彼は囮隊の生還者の一人だ。


 負傷していなければオーリと同じくまだこの野営地にいるはずだ。負傷兵などの一部を除いてこの地に派兵された全軍は依然オーリに従い残っているのだから。

 幸いニコラスの弟に大きな怪我はなく、彼は戸惑った様子でオーリの天幕に連れてこられた。事情を聞けば彼は彼の上官から優れた腕を買われて後方支援から前線部隊の一つに組み入れられたそうだった。


 加えてあの日、出発直前のオーリを見て激励したいと集ってそれが何と兄だと気付き急ぎ罰を覚悟で囮隊に直談判して入れてもらったのだとか。


 兄弟の絆なのか、やや遠目だったにもかかわらずブライアンはあれは兄のニコラスだと初見で的確に見分けられたようだ。

 囮隊の方も下手に作戦が漏れるのを恐れてブライアンを受け入れた。気持ちを乱してはならないからと敢えてニコラスには教えずに。


 兄と見た目はさして似ていないブライアンは終始緊張を隠せないようだったが、兄の遺品だと渡した小箱の中身を見て手紙の内容を確かめるとショックを隠せないようだった。オーリにはそこまで重要な物品には見えなかったが彼には違うのだろう。


 彼はだいぶ悄然としていたが、勝手をした行動は不問にすると告げてやればそこは胸を撫で下ろしたようだった。それから深々と頭を下げて静かに天幕を出て行った。


 ブライアンが出て行ってからオーリはふと気付く。


「手違いで兄の方に届いた物だと言い忘れてしまったな」


 しかし彼は追いかけてまで告げる程の律儀さや親切心は持ち合わせていなかった。そもそも本来の宛名主に渡ったのだから何も問題はないだろうと、すぐにこの件は彼の頭から消えた。





 その後王都に帰還し大通りを華々しく凱旋したオーリ王子達王国軍は集まった沢山の民から大歓声を浴びた。後方支援に当たっていた騎士学生達の姿もあった。


 ただ、そこにブライアンの姿はなかった。


 勝利に喜び沸く王都だが、特に立役者のオーリ王子への声援は凄まじいものがあった。

 この勝利も彼の策略によるところが大きいとされている。キレ者王子がいればラクレアは安泰だと皆は口々に讃えた。

 向こうからちょっかいを出してきたアルフォ国をコテンパンに叩きのめして退けたので、当面は大人しくなり心配は要らないだろう。これまでの分も合わせてたっぷり賠償もさせてやるとラクレア国の高官達は躍起だ。

 アルフォに対するオーリの最終目標はもっと苛烈なものだとしても今はこれが最善の落着だろう。

 凱旋から暫く王都では家族と再会した兵士や騎士学生が感動の涙を流して喜び合う姿がそこかしこで目撃されていた。

 国内各地でも帰郷を許された兵士が王都と似たような光景を繰り広げていた。


 そんな頃、嫡男を失ったウィンストン家はまだまだ悲しみの渦中にあった。


 オネエパティシエケーキの店も窓にはカーテンが引かれ、休業の看板が入口に提げられている。ニコラス好きの彼いや彼女も相当のショックを受けているのだろうと町の人々は同情を禁じ得ない。


「クレア、伯爵夫人の様子はどう?」

「まだベッドの上だけど、少しずつ食欲も戻ってきてるみたいだから、もう少ししたらきっと普通に生活できるようになるわ」


 終結から半月余り。こんな時だからこそきっちり通う学校の休み時間、クレアは机回りに集まる級友達からの心配そうな顔に小さな感謝の笑みを浮かべてみせた。領主一家の異変はこの地に暮らす領民たる彼女達も気になるところらしく、クレアは主に毎日シシーとブライアンについてを訊かれる。勿論話せる範囲でしか話しはしないけれど。


「そっかそれなら少し安心よね。ブライアン君が早く戻ってきてくれれば伯爵夫人ももっと気力を取り戻せるわよね」

「うん、そう思う」

「……本当に、まだ帰ってきてないのよね?」

「ないわ。たぶん近いうち帰ってくるとは思うんだけど」


 近いうちとは言ったものの、実のところブライアンがいつ帰ってくるのかは皆目わからない。

 騎士学生に犠牲は出なかったとは噂で聞いたが連絡もないのだ。とっくに帰郷している学生もいると聞くが、ブライアンは事後処理に駆り出されていて忙しいのかもしれない。


(だからって電話や手紙の一つも寄越さないなんて薄情な奴。大体、せめて一度くらいは顔を見せに帰ってきなさいよね。今のおば様にはそれが一番効く薬なんだから)


「そう言えば聞いた? 昨日の夜、北の森の方が不気味に光ってたって話」

「北の森が? 知らないわ」


 クレアが首を振れば問いかけた友人とは別の友人がパンと両手を合わせる。


「聞いた聞いた。朝出かける前にうちのお祖父ちゃんが言ってたわそれ。だから森には近付くなーって脅かされたのよね。子供じゃないんだからっての」


 聞いた子、知らなかった子と分かれたが、そんな現象は誰もが初めて聞いたので、恐れと好奇心からか森の魔女が何かしたのだという方向に話は転がった。

 途中からは自分も見た聞いたというクラスの男子達までがその話題に加わって賑やかになる。

 クレアは級友達の意見をただ黙って聞いていた。

 そのうち開始のチャイムが鳴って机から友人達が離れて行く。

 クレアはノートなどの準備を広げながら教室の窓の外へと思いを馳せた。

 森の怪奇現象には大して興味がなかった。

 実際魔女がいて何かをしたのだとしても、関係ない。

 クレアは一度拒絶されたので関わるつもりもなかった。


 そんなどうでもいい事よりももっともっと重要なのはブライアンだ。


 ニコラスがいなくなって、クレアの心にも穴が開いている。ブライアンと話をする事で何かしら慰めになるかとも思うのだ。

 彼と面と向かって話をしたい。声を聞きたい。仲直りだってしたい。


(ブライアンの無事な姿をこの目で見たい。触れて確かめたい。彼は確かにここに生きているんだって。ブライアン……会いたいよ。早く帰ってきてよバカ……)


 うっかり感情的になりかけたが、魔法学概論の老教師が入ってきたのでクレアは何とか頭を切り替えたのだった。

 何事もなく学校を終えた帰り道。

 町中を出て屋敷への長閑な道を歩くクレアは暮れなずむ空を見上げる。


「今日は綺麗な夕焼けになりそうだわ」


 雲がゆっくりと進み遠くの山の稜線に行き当たる。果てがない空は稜線のずっとずっと向こうにも続いていて東南国境の空とも一続き。


(戦場でブライアンは何を感じてた? ニック兄様は最後に何を思ってどんな景色を見ていたの? ここからじゃあたしには想像もできない――)


「……っ」


 見上げていたら滲んでしまった涙を手の甲で拭い、泣き止めと深呼吸する。

 先日と言ってもつい数日前、ニコラスの遺品を手にウィンストンの屋敷を訪れた軍関係者からはニコラスが戦場にいた理由を愛国心が彼を志願させたのだとそう言われた。

 クレアも屋敷の誰も一度もそんな意思を彼から聞いたためしはなかったので、強制的に連れて行ったのではと勘繰るのも無理もない。それは顔色を見ればクレアだけではなかったようだが、証拠も確証もないのでついぞ誰も口にはできなかった。


(オーリ殿下、指揮官の彼は絶対に兄様のいた本当の理由を知っているはずよ。真実を隠すつもりなら、今度会ったら今度はあたしの確固たる意思で過去を視てやるんだから!)


 谷が深過ぎて早期には捜索困難なため回収不可能とされた遺体のないニコラスの死。その死に未だ納得がいかない、実感が湧かない。けれどどう感じようと過去は変わらないのだ。彼がもういないのだと思うと胸が痛くて更に涙が溢れた。

 屋敷まではあと少しだ。目を赤くして帰れば屋敷の皆に暗い顔をさせてしまうだろう。させないためにも気持ちを落ち着けようと努める。頬を揉んで軽く叩いてどうにか顔を整える。

 ニコラスはひょいっとどこからか姿を現しそうだとクレアは本気でまだ思う。


「ホント、幽霊でも会いたいってあたしも思うなあ」


 老執事の言葉を借りながらも鞄を持ち直せば気分も幾らか立て直せた気がして再び歩き出す。


「――クレア」


 背後からよく知った誰かに呼ばれた。


(え……?)


 なのにクレアは一瞬誰だかわからなくなってしまった。

 と言うのも、ブライアンとニコラスの声は兄弟だけあって似ていたが、それでも違いはある。だからこそ聞き間違ったのかと思った。

 ブライアンとニコラスの声を。


(何で……? ――あり得ないわ)


 ブライアンの声しかもう聞けないはずなのに。

 クレアは振り向けなかった。

 本当に幽霊が出たなどと思ったわけではない。ゾンビだったら怖いと思ったわけでもない。いや、一ミリくらいは思ってしまったがそこは最早どうでもいい。


「クレア、遅くなってごめん。帰って来たよ。ただいま」


 唇が震える。また目の奥が痛くなる。半信半疑でゆっくりと振り返った潤んだ目に夕刻に向かう風に靡く金髪が映った。人魚の姫にでもなったみたいにすっかり言葉を失って瞠目するクレアは、本当に幽霊でも見ているのかと思った。


 彼――ニコラスは弟ブライアンと同じ色の瞳で、弟と作り方のよく似た笑みを浮かべた。


「ニック、兄様……?」

「うん、とても心配させたよね」

「――っ、生、きて……たのね兄様……。生きて、た。うん、ニック兄様だわ。生きてたのね、ああ本当に兄様だわ、良かった、本当に良かったわ、生きてたんだ兄様!」


 ニコラスはどう見てもニコラスの姿で見慣れた彼っぽく微笑んだ。


「心配させて本当にごめんねクレア」

「ううん、そんなのいいのっ。良かった、良かったあぁ~っ。やっぱり知らせは間違いだったのね! 屋敷の皆も、あとまだ帰って来てないけどブライアンだって喜ぶわ! あたしも最高に嬉しいっ!」


 感極まって鞄を放り出して飛び付くクレアを、彼自身が以前言っていたように外ワークで意外と鍛えられていたらしいニコラスがしかと抱き止める。


「クレア、その事だけれど……大切な話もあるから早く家に帰ろう」

「ええっ勿論よ兄様!」


 その事、というのが何を指しているのか判然としなかったが、奇跡が起きたように興奮していてそれどころではなかったクレアは深く考えなかった。

 感動のクレアが満面の笑みを浮かべるのとは対照的に、ニコラスの微笑みには仄かな苦さと翳りが含まれていたのにはクレアはついぞ気付かなかったが。

 ウキウキとした足取りの彼女が一足先に屋敷に到着して駆け込んでいく。

 その背を一時見送るようにしてニコラスが俯く。


「済まないクレア……」


 彼はとても苦しげに呟き寄せた眉根の下で両の瞼をきつく閉じた。


 何故なら彼はよくよく知っているのだ。


 ――奇跡は起きない、と。


 ポツリと黄昏に伸びる長細い影が暫しの間項垂れていた。







「死んだのは、僕ではなくて、――ブライアンなんだ」


 宵の口のウィンストン家の伯爵の書斎。クレアや伯爵夫妻、屋敷の使用人達の集められたそこで生還したニコラスの口から話された真相は、一時狂喜に沸いた屋敷の面々を再び絶望の底に叩き落とすものだった。


 話を聞き終えたシシーは倒れこそしなかったが、蒼白な顔で使用人達に支えられて寝室に戻っていった。

 シシーが出て行った後も書斎に佇みまたは座る誰もが言葉を失くしていた。何がどうなってこうなっているのかわからない。


(ブライアン、が? え、なに、何で――死んだ?)


 先程ニコラスの話を聞いた瞬間、クレアにはまるで一切の音が耳鳴りになったようでもあった。ニコラスの姿を見つめながら世界が崩壊していくような混沌がクレアの胸の内を襲い、足元が抜け落ちて奈落の底すらないどこか永遠の暗闇に落ちて行く心地がした。

 今もクレアは頭を棒でガンガン殴られたようでいる。頭だけではない。心臓も。

 心も体も現在進行形でポロポロと欠けて崩れて行くみたいに痛かった。痛覚とは厳密には違う部分で押し潰されそうに苦しい。視界がぐらぐらして吐きそうだ。


「クレア……?」


 ニコラスが彼女の異変を逸早く悟り傍に来ようとする。


「にぃ、様……うそよ、ね……?」


(ブライアンが死んだなんて、そんなの嘘、絶対に嘘よっ。兄様は何でそんな酷い嘘を言うの? 兄弟喧嘩をしてるから? 言っていい嘘と悪い嘘があるじゃないっ)


 半ば問い詰めたくもなってクレアの方もニコラスへ詰め寄ろうとしたけれど、冷や汗が滲んで視界が暗くなって傾く。


(あ、れ? そういえば息が苦し、ぃ……)


「クレア!!」


 叫んだ声が聞こえたけれど、知らず過呼吸になっていたクレアはその必死な声が誰かを最早認識できなかった。


(ブライアン、どうしてよ……――――)


 床に倒れ込む寸前でニコラスが彼女を抱き止めた。気を失った目尻からは涙が伝っていた。


 クレアが気が付いた時には寝室のベッドの上だった。

 もうカーテンが下ろされているので空はすっかり暗いのだろう。


(ああ、あたし、おじ様の書斎で気を失っちゃったんだわ……。おば様だってきっと調子良くないのにあたしまで迷惑掛けてどうするのよ)


 はー、と自己嫌悪の溜息を落としていると、控えめに部屋の扉が開かれてニコラスと水差しを持ったメイドが入ってきた。


 二人はベッドに身を起こすクレアを見るとホッと安堵を顔に浮かべた。水差しを置くとメイドは一礼して出て行った。


「良かったよ目を覚まして。気分はどう?」


 ベッド脇に腰掛け水差しから水を注いだグラスを差し出してくれたニコラスの微笑には日常を感じた。クレアは彼の好意を素直に受け止ってグラスに口を付ける。咽が潤うと頭が冴えた。


「あの、倒れたりなんかして迷惑かけてごめんなさい」

「迷惑なんかじゃないよ。そんな風に言わないで」

「……うん、ありがとう兄様」

「まだ時間もそんなに遅くはないし、夜食に何か食べられそう?」

「もしかして、あれからまだそんなに経ってないの?」

「三時間くらいかな」


 ニコラスはクレアが動揺しないようにと努めてなのか優しい微笑を崩さない。


(気遣いはありがたい。だけど……こんなのまるで何もなかったみたいに感じる……)


「お腹は、まだ減ってないから何も要らないわ」


 ゆるゆると左右に首を振る動作でさりげなくクレアはニコラスから目を逸らした。八つ当たりなのはわかっていた。だからと言って悲しみにニコラスが涙を流して泣き叫べばいいわけでもない。

 更には、ニコラスを見たら現実を現実として受け止めなければならないのだと急かされ強いられている気持ちにもなってしまった。ブライアンの事は彼のせいではないのに。きっと彼は何でもない話でもしてクレアを元気付けてくれようとしているのだろう。

 まだ来たばかりだからか退室する気配もない。ぎゅっとグラスを握る指先に力が入る。


「心配してくれてありがとう兄様。でも……今は一人になりたい」


 ニコラスはほんの微かに息を詰めたけれど、徐に腰を上げた。


「ごめんそうだね。今は誰しも時間が必要な時だよね。ゆっくり休んでね、クレア」

「あ……」


 ニコラスに謝らせてしまったと気まずく思ったものの引き止めるのもできなくてコクリとだけ頷いた。言い方がもっとあった。

 部屋を出て行く背中を見送ってからぽすんとベッドに倒れ込む。


「あたし最低……自分の事だけし考えてなかった。兄様だって辛いはずなのに……もう、ホント最低よ……」


 妹分のクレアを少しでも慰めようと彼は気丈さの上に優しさを重ねてくれたのだ。そんな人を追い払ってしまった。

 誰もいなくなった部屋で一人になって、自己嫌悪に陥りながらクレアはまた泣いた。声を押し殺して泣いた。


(何よ何よ何よ、それもこれもブライアンのせいよ。勝手に死んじゃうなんて酷いじゃない。仲直りもしてないのに、ブライアンなんて絶交よ。天国にこっそり行ってド突いてやるんだから)


 顔を埋める枕を憎たらしげに両手で絞めてみたところで何一つ変わらないのはわかっている。


(髪飾りだって返してもらってないのに……)


 死んだのがブライアンなら、軍から遺品として返ってきた物はニコラスの物なのでブライアンの物はまだどこかに残されているはずだ。

 その中に髪飾りもあるといいとクレアは思う。


(せめて髪飾りだけでも手元に…………あああもうっそんな風に考える自分が嫌っ、それもこれもお馬鹿ブライアンのせいよっ、バカバカバカバカ……髪飾りじゃなくあなたに会いたいのに……。お願いだから持って帰ってきてあなたの手で付けてよっ)


 さよならもなくいなくなって憎らしい。でも悲しくて切ない。同じ文句を何百回といない相手にぶつけてみても疲れるだけだが止められなかった。泣きもしたので頭がボーッとしてきていつしかクレアは眠ってしまった。朝になって塩気でかさつく顔を洗いながらもまた涙が出てきたけれど、それも何度も流した。何日かそんな朝が続いた。


 ニコラスは自分達ウィンストン兄弟が戦場の近い場所にいた事や、戦場での情報の混乱が手違いの起こってしまった原因だろうと説明してくれた。

 加えて、騎士学校や軍は既に把握しているという。そのうち正式な通達が届くだろうとも言っていた。


 休学して暫くウィーズにいるというニコラスはクレアをいつも気にかけてくれる。彼の両親や屋敷の皆にも心を砕いてくれている。彼は昔からそんな風に優しい。けれどクレアは頑張って無理をしてくれているように見えていた。


 ニコラスだって苛酷な戦地で過ごして彼の性には合わない沢山の場面を経験して心労がなかったわけがないだろう。ブライアンの件だってある。なのに自分の心のケアよりもクレア達を優先してくれている。


(全く本当にできた男よね。でも無理をして兄様まで倒れたらどうするのよ)


 生還した彼とは実は戦場に関する踏み込んだ話はまだできていない。尋ねたい事は幾つもあるのに何となく躊躇してしまっていた。彼の方もその話題をどこか避けている節があったのも理由だ。


 ニコラスは一日の大半をよく書庫で園芸や農学関係、そして領地経営などの本を読んで過ごしている。どこか強迫観念とまではいかないまでも根を詰め過ぎている気がした。けれど没頭する事がニコラスなりの気持ちの整理の付け方なのかもしれないと思うと、一方的に心配だけを押し付けるのは躊躇われた。


 それでもある日の休日に気分転換にとウィーズの町中に買い物に行こうと誘ってみたらすんなり承諾してくれた。


 クレア的に町中には一つ気掛かりがあったのもある。


 それなりに回って歩いて必要な物は購入した帰り道、クレアはそろそろいいだろうと思い切ってとある要望を切り出した。


「ねえ兄様、一度ケーキさんの所に顔出しに行かない? 兄様の間違った知らせを聞いてからずっとお店も閉まったままなのよね。落ち込んで引きこもっててもしかしたらまだ生還したって知らないのかも。それにもし寝込んでなんていたら大変よね」


 ここ一月、クレア自身菓子店に用事がなかったのもありケーキの姿をずっと見ていない。

 通りすがりに変わらず閉店のプレートが掛かったままなのを眺めて気になってはいたが、親戚でも友人でもないので敢えて様子を見に行ったりはしていなかったのだ。

 知らないだけでもしかしたら開店の準備を始めているかもしれないが、その時はその時だ。むしろそうなら喜ばしい。

 そんなわけでニコラスの顔を見ればすぐに、或いはより元気になるだろうからと誘えば、彼は足を止めた。


「兄様どうかした? 顔色が悪いけど……」

「いや、昨日遅くまで起きていたせいかな。でもそうだね、一度顔を出しに行こうか。また美味しいケーキを作ってもらいたいしね」


 いつもの笑みを浮かべるニコラスにクレアは内心首を傾げた。


(何だろう。今の反応って兄様らしくないような……?)


 けれど再び歩き出したニコラスから「それなら善は急げだね」と促されクレアはその思考を気のせいだとして打ち切った。


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