第7話 忍び寄る戦禍の気配

「どうもしない。これまで通りに暮らしてもらうが?」

「へ? あ、あたし解放してもらえるんですか?」

「当然だろう」


 クレアとしては全く信じられないが、オーリが冗談を言ったようには見えない。


「あの、あたし、念のため言っておきますと、魔女なのを故意に隠していたわけじゃありませんから。一旦帰すだけって意味なら、いっそここで捕まります。なので家族とか周りの人達は巻き込まないで下さい」

「魔力無しとしか出ない者をどう追及して捕まえろと? どうこうしようがない」

「でも事実時間魔法は使えるわけですし……」

「魔法機関の上層部でもまだその存在は伏せるとしている。私も機関の方針には賛成の立場だ。だがその力を他の誰にも知られるな。貴重な時の魔法を使えると知られれば、冗談抜きに平穏には生きられんぞ」

「どうしてあなたは黙っていてくれるんですか? 魔力を測定できなくてもレアな魔法使いは有用じゃないんですか?」

「……」

「あ、交換条件ですか?」

「交換条件?」


 過去視は幻覚なのかもしれないとの疑念は彼と話すうちに消えていた。人の過去を覗くと本人視点でものが視えるのは新発見だった。

 クレアはオーリを慎重に見据える。彼女は確かに視た。公式発表とは異なる彼の秘密――オーリ・ラクレアの真実を。


 過去視の中で、魔力の最高値、と興奮した誰かの声が耳に甦る。


「あなたはあたしの、あたしはあなたの……オーリ殿下の魔法の秘密を知ってしまったから――」


 刹那、圧迫に息ができなくなった。


 視界が反転して天井が見える。


(――ッ、何す……ッ!)


 殺意に特化したような凄絶な無表情がクレアを上から見下ろしていた。

 その内包されたどろどろとした暗く根深い怒りの気配に、クレアは毒にでも中てられたように全身が凍りつく。

 圧迫されている彼の黒手袋越しの掌から、ドス黒い何かが染み出してこちらまで蝕みそうな錯覚を覚え知らず身震いした。

 首を押さえ付けられて、このまま咽が潰されてしまうのではないかと慄いた。

 鍛えられた太い腕一本でソファに押し倒されていたクレアは、ようやく苦しさに気付いたように空気を求めて喘いだ。両手を首にやって相手の紺の軍服の上から指を食い込ませたが、ビクともしない。腕を外せなければじきに酸欠になるのは目に見えている。


(殺される……ッ!)


「でっ殿下それ以上は駄目です!」


 劇の一幕に見入ってしまったようになっていた眼鏡兵士が、夢から醒めたように身じろぎ今まで以上に焦った声を上げる。

 細く空気の通り道ができるくらいにはオーリが力を緩めた。

 その筋道が唯一のよすがのようにクレアは無理にでも大きく息を吸い込む。ひゅうっとした喘鳴ぜんめい染みた空気の音が自分でも聞こえた。


「お前はやはり私の過去を視たか。それも最大の秘密を」


 目の前の男は罪悪の意識さえないのか微塵も表情を変えず顔を近付け「他言すれば命はない」とそのくせ睦言のように耳元で囁く。

 子供の頃の小さな悪意ではなく、生まれて初めて屈した圧倒的な脅威。

 その力量差に加えて煉獄の劫火さえ永遠に凍らせるような低い声音に本能が竦み上がった。

 耳朶に掛かる吐息にもぞわりと肌が粟立つ。


 秘密には秘密である相応の理由がある。


 腕力的にはそこらの令嬢と変わらず、何らかの魔法での反撃もなくただただ全身を強張らせているクレアの様子にこれ以上の脅しは不要と思ったのか、オーリは飽きた玩具を放置するように手を離した。

 その、片方だけ黒手袋の手を。

 咽元を押さえて咳き込むクレアを無感動に見下ろし、念のため更なる釘だけは刺しておく。


「忠告だ、知り得た全ては墓まで持って行け。無理に人の秘密を暴くとは、最悪の結末を招きかねんと、よくよく肝に銘じておけ」


 絡まれてこんな場所まで連れて来られた挙句、不可抗力で視たものを一方的に責められる不条理さに我慢できなくなったクレアは身分も立場も忘れて激高した。


「何様なのよ! 別に無理に暴いたつもりはないわ! こっちだってあなたの事情なんてこれっぽっちも興味はないし、一ミリだって視たくもなかったんだから!」

「ほう? そうか」


 オーリは向こう見ずにも自分に立て付く相手をどこか面白そうに見やった。


「ききき貴様ななな何と不敬なーーーーっ!」


 まだ咽を押さえ呼吸を整えながら猛抗議するクレアは、真っ赤な顔で自分を指差ししてのフラウの怒りになど僅かも動じないが、オーリのせいで背中にはじっとりと嫌な汗を掻いていた。


 解放を口にしようと、オーリはその腹の中ではやはりクレアの利用を考えているのかもしれない。


 何しろ彼は王子だ。

 自らの勢力基盤強化のために有用な魔法使いを自陣に引き込むやり方は古今東西前例には事欠かない。

 時間に関わる魔法使いは希少。

 クレアも母親のように国に重用される反面監視もされ、もうどうにもならない不調を来すまで使い倒されるかもしれない。

 人なのに、道具として扱われる。

 手酷い結末を迎えた魔法使いは世界中のどこの歴史を見ても枚挙に暇がなかった。


(ああでも暴言と無礼のオンパレードしちゃったし、その前に問答無用で投獄されるかもっ)


 気が立っているクレアには構わずオーリはぐるりとテーブルを回ると悠然とクレアの向かいの大きなソファに腰を下ろした。腕と脚をそれぞれ組んで相変わらずの不遜フェイスを保つ。


「不敬は赦してやる。だからさっさと帰れ。ただし、再度言うが時間魔法は人前で不用意に使うな。この国内情勢で注目されてもいい事はない」

「使ったら、やっぱり投獄ですか?」


 クレアは少しの皮肉と怖いもの見たさからそう尋ねていた。


「投獄? まさか。――――死ぬぞ?」


 端的で鋭く、最も物騒な言葉が、妙な静けさを引きずって室内にこだました。


「これははったりや誇張ではない。実際に敵国のスパイに殺される危険がある」


 クレアは我知らず息を呑む。


「隣国アルフォのような敵国からすれば、時間魔法の使い手のような脅威になる魔法使いは、自国に取り込めなければ消しておきたいだろうからな。私とて相手の立場なら迷わずそうする」


 自分が暗殺されるかもしれないなどと言葉に出されればやはり心は穏やかではいられない。

 しかしクレアに生じた戦慄などどうでもいいように、オーリは至って思いやりなど欠片もない目で彼女を見ている。

 彼にとっては脅しでも何でもなく、単にもし公になれば高い確率でそうなると告げているに過ぎないのだ。戦場を知り魔法を知り、人間や人間の営む国の暗部を知る者の出した率直な見解。

 クレアはこの時初めて頭では知っていたようでいてその実ほとんど知らない世界の現実へと、薄ら寒さを感じた。


「あと言っておくが、帰れとは言ったが野放しにしてやるという意味ではない。お前の処遇は追って決めて連絡する。死にたくなければそれまでは絶対に黙っていろ、とそういう意味だ」


(処遇……。あたしは厄介な男から目を付けられたってわけね)


「それは家族にも、ですよね?」

「当然だ。巻き込みたいのか?」


 そんなわけはなかった。元々バレないように王都にまで来て測定したのもそのためだ。


「話は以上だ。とっとと帰れ。フラウ、娘をロビーまで送ってやれ」

「了解しましたっ」


(とっととですって。はんっ、何なのよ無理やり連れてきておいて! ホンットいけ好かない男!)


 命じられ「貴様呆けてないでさっさと来い」と居丈高に言うや虎の威を借る狐よろしく肩をそびやかすようにして部屋を出て行くフラウ。オーリは最早興が失せたようにフラウにもクレアにも一瞥すらくれず腰かけていたソファで寛ぎ出している。そんな態度にカチンときたクレアは青筋を立てるや感情的に勢いよくソファから立ち上がった。


「ああ忘れていた、娘、名は?」


 ぞんざいな問い掛けにクレアの青筋が増えたが、何とかギリギリ文句は堪えた。


「クレア・ローランド!」

「……ローランド。ふむ、念のため身分証の確認もさせてもらおうか。こちらだけ身バレしているのも些か不公平だろう?」


(はああ!? あなたと違って嘘ついたりしないわよ! 身バレしたくないなら変装もしないで出歩かないでよね!)


 内心のみならず表面でもキレそうになったものの二度目はいかんと我慢して学生証をテーブルに置く。

 オーリはさらりと学生証を確認すると素っ気なく返して寄越した。

 クレアは不本意ながらも一礼だけはして退室した。そのまま「遅いぞ」と文句の煩いフラウに先導されて魔法機関を後にする。帰りのバスに飛び乗って王城最寄りのバス停で降りると、部屋に戻って寝る支度を整えた。


「はあ、人心地ついた……」


 清潔なベッドに潜って自然と出た溜息に、クレアはようやく自らの気が休まったのを自覚した。





 とりあえず秘密裏に魔力検査を受けると言う目的が達されたので、翌日の王都観光は全力で楽しんだ。

 ニコラスお勧めの店を回ったり屋敷の皆や地元の友人達にお土産を買ったりして楽しかったが、頭の片隅では警戒すべき相手のいるこの街に呑気にまだ留まっている自分を苦く思ってもいて、金髪男性を目にする度に背筋に緊張を強いられた。

 無論宿泊先の外城では、借りた一室にいつ兵士達が自分を捕まえに乗り込んでくるかと落ち着かなかった。

 滞在最終日の三日目はブライアンが見送りに来てくれる予定だったが、昨日同様迎えに来てくれたニコラスから彼は来られないようだと教えられた。

 騎士学校側で急遽まだ残っていた学生達への臨時訓練が決まったのだという。


「騎士学生は忙しいのね。会いたかったな」


 外城の部屋を引き払ってニコラスと王都を歩きながらクレアは残念至極な気分になっていた。

 彼女の浮かない顔を横目で窺っていたニコラスがピタッと歩みを止める。因みにクレアのトランク鞄は今度はニコラスが持ってくれていた。彼の荷物鞄はない。彼はいつも体一つで帰郷する。荷物があっても財布とか列車で読む本くらいだった。


「それなら、僕達がブライアンに見送られに行こうか」

「はい?」

「ふふっ、学校に押しかけちゃおう」

「ええっ!?」


 何とも大胆な発想だ。クレアに反対する理由はなかった。

 そうして二人でブライアンを至急だと言って校門に呼び出してもらって彼を驚かせてから、本当に校門の所で見送ってもらった。ブライアンの顔を見られてとりあえずはよしとしたクレアは、予定通りその日のうちにニコラスとウィーズ方面行きの列車に乗り込んだのだった。

 車窓から遠ざかる王都に、安堵とそして相反する不安が胸の内には生まれていて、クレアは今回の王都来訪を半分満足と、もう半分は後悔で締め括った。






 王都から帰っておよそ一月、クレアはまだギリギリ夏期休暇期間だった。

 予想外にもオーリ王子からは何の音沙汰もない。かえって怖い。

 嵐の前の静けさのようでどこかクレアの胸の内を掻き立てた。


 彼との約束通り、クレアは秘密を誰にも打ち明けていない。


(王都に軟禁とかならなくて本当に良かったけど、ここまで何も連絡がないとさすがにねえ……)


 嫌でも気になってくる。

 かと言ってこちらから出向く気はない。


(あんな横暴な男、会わなくて済むならそれがベストだし、何ならこの先一生会わなくていいんだけど、たぶんそうはいかないよねえ)


 ウィンストン邸の庭先のベンチに一人腰かけ、クレアは自身の膝の上に頬杖をついて渋面を作った。

 あの時は無難にやり過ごしたい頭で一杯で結局母親との関係を何も訊かなかったが、聞いておけばよかったと今更ながらに思う。

 王子たる彼が王宮にも出入りしていた母親と面識があっても何らおかしくはないのだ。


(訊いたら教えてくれ……ないよねー。素直には答えてくれないわ。いっそこっそり視る? いや無理か。あたしの力を知ってるからこそ過去視は警戒されてるだろうし、きっと土下座で頼んだところでもう一度はさせてくれないだろうなあ)


 クレアはけれど、実際に誰かの過去を覗くつもりはなかった。

 それはとても好奇心に満ちた世界への入り口で、同時にとても恐ろしいものだと思うのだ。如何なる過去も暴けるその力は秘密さえ秘密ではなくなる脅威そのもの。

 感情までは視えなくとも、誰だって自分だけの記憶にズカズカ土足で踏み込まれたくはないだろう。

 ただその反面、過去視魔法は必要な情報を引き出す点では大いに役に立つとは思う。

 おそらくそれ故に母親は重用されていたのだろうとも。


 ただし、母親が担っていたのは個人の秘密の暴露ではなく魔法の復元だった。


 クレアは、今日までの間に意を決して母親の遺品を過去視し少しだけ事実を暴いていた。因みに使ったのは母親が仕事で使用していた筆記具だ。視えたのはほとんど仕事中の光景で、紙に古代魔法の情報を書き留めている場面。

 世界に現存する魔法の種類は少ない。比較的簡単な呪文や魔法陣などに始まる汎用魔法ですら。相伝が途切れたり数多の魔法書が消失したせいで多くが時の彼方に忘れ去られてしまっている。

 だからこそ母親の時間魔法はとても有用だった。

 過去を現在に持ち帰って来られる特別な魔法使いなのだから。

 一般魔法化するしないは別として母親の功績により復元した魔法は少なくない。


(ホントはお父さんから詳しく聞ければ一番なのよね)


 しかしまだクレア自身魔法についての話題を出す踏ん切りが付かないし、父親は最近特に忙しいそうで余計な時間を取らせるのは無理そうというか気が引けた。


 屋敷の方から使用人が廊下を駆ける足音が聞こえる。


 今朝から屋敷内はバタバタと慌ただしく、クレアも落ち着かなくて気分転換に庭に出ていたのだが、そろそろ部屋に戻ろうかとベンチから腰を上げた。


 この屋敷も無関係ではいられない、クレアの父親の多忙の理由。


 それはここの所とみに隣国アルフォとの戦争の気運が高まっているせいだ。


 ただし屋敷の慌ただしさは戦争に備えての動きではない。

 隣国と国境を接する辺境のウィーズではあるが、隣国アルフォとはほとんど正反対と言っていい国境地帯にある。つまりはアルフォとは異なる国と接しているのだ。そちらの国とはラクレア国王は姻戚関係でもあり今のところ関係良好なので戦争の心配はないと言って良い。

 庭を歩くクレアの目にかげりが差した。


 もうじき終わるこの夏期休暇、ブライアンは結局ウィーズには帰って来なかった。


 戦争になれば騎士学校生も兵站へいたん部隊に所属し前線との連絡係の他、武器や食料の補給などの後方支援を行う方針らしいのだ。その訓練等のために補習を終えたにもかかわらずブライアンは学校に残っていた。


 加えて、彼が国境部隊に駆り出されると知らせが入ったのはつい一週間程前。


 その知らせと共にブライアンの一時帰郷の旨も記されていた。

 幸い戦端は未だ開かれてはいないが、それもあと半月後はわからない。

 学校側は戦場へ赴く前に一度家族と会う機会を学生達に与えたというわけだった。

 氏名欄が白紙の退学届を持たせて。

 部隊に組み込まれた戦場にあっては敵前逃亡など許されない。

 有事において士気を下げ乱すような生半可な気持ちの者の選別も兼ね、退学も視野に入れての帰郷なのだという。

 兵士としてまだまだ半人前の学生へのせめてもの温情だ。

 その学校の方針故に今日にも明日にもブライアンが帰って来る。


 学生に実戦経験を積ませようと言う意図も確かにあるだろうが、裏を返せば人材育成が急務なくらいにアルフォ国は強敵という意味でもある。


 大切な幼馴染みの帰郷。本来なら心躍るはずなのに、クレアの胸の内は全く弾まない。


(だってきっとブライアンは、退学なんてしない)






 今日にも明日にもと思っていたまさに今日という日の夜、ブライアンは何と兄のニコラスと共に帰ってきた。

 ニコラスも一度は帰郷したが大学から何用かで呼び出されまた王都に行っていたのだ。彼も結局地元にはたった数日居ただけだった。


 ウィンストン家はいつもと違う夏が続いていた。


 二人が帰ってきたと玄関ホールに集まってきた伯爵夫妻を初めとした屋敷の皆と二人はお帰りただいまを繰り返した。勿論クレアもその一人だ。

 しばらくしてその場は解散となり、各々持ち場や部屋に戻ったのだが、思いもかけず皆が揃ったこの瞬間がとても貴重で、世界に一つしかない宝物みたいで、嬉しいはずなのにクレアは何故だか胸が痛んだ。


 それはきっと伯爵夫妻もそうだったに違いない。


 ブライアンは退学などせず、戦場へ行く。


 帰って来た彼の目を一目見た瞬間に、クレアは自分の予想通りだと確信した。


 そんなクレアの気も知らないブライアンは、彼の両親と話すべき話があるようで三人で伯爵の部屋へと向かったようだった。

 一方、何となく自室に戻る気になれなかったクレアは、クッションを抱いてニコラスと共に広い居間で長椅子に凭れていた。寛ぐのとはちょっと違う。気分は沈んだままだったから。

 ニコラスもクレアと同じように部屋に戻る気分ではなかったからこそ、彼もここに居るのかもしれない。

 かと言って会話らしい会話をしていたわけでもなく、長椅子に一人分の間を開けてクレアの横に座っているニコラスは読書をしている。

 まあ気分はどうであれ、柔らかな照明で満たされた居間は気の置けない相手との団欒と呼べる優しい空気が流れていた。

 ブライアンへの従軍も自分の魔法もオーリ王子の件も考えても考えても何も変わらない。一人でいたら落ち込むだけだろうクレアにとって有難い慰めのような時間だった。


「ねえニック兄様」


 膝の上のクッションを肘置きにして頬杖を突いて口を開いたクレアは、呼び掛けておいてニコラスに目をやらない。


「兄様はブライアンを思い留まらせようと思ってるの?」


 一瞬「うん?」とキョトンとしてクレアの方を見たニコラスは、読書の中断を余儀なくされた唐突な問いかけを耳奥で追いかけたのか、ややあって会話に応じた。


「んー……まあ、そこは説得できたら良かったとは思う」

「え、じゃあ」

「ああ、列車の中で説得してみたものの、見事に失敗。決心は固いみたいだ。あ、因みに同じ列車になったのは偶然だよ。騎士学校の方針と弟の帰郷予定は耳に入っていたから、顔を見ておこうかと思って駅に行ったらホームに居たからビックリした。さすがに列車が被るとは思っていなかったからね」

「へえ、凄い兄弟シンクロ。考える事も似るのかもね」

「あははそうかもね。ここ最近は特にそれぞれ忙しくて王都に居ても弟とは会えていなかったから良かったかな。でも説得はできなかったけど……」


 肩を竦めて嘆息するニコラスに、クレアは少し俯いた。


「ブライアンって時々すごく頑固だもんね」

「クレアがそれ言う?」

「ちょっと兄様それどういう意味ですかあ~?」


 くすくすと笑われてクレアは半眼になった。

 自分もそこまで頑固だろうかと内心憮然としていたクレアは、改めてニコラスの穏やかな表情を見やって軽く息をつく。


「今回の帰郷は、兄様的には充電の意味合いもあるんでしょ?」


 ゆっくり瞬いた彼は少しはにかんだ。


「さすがはクレア。僕をよくわかってる。やっぱり我が家は落ち着くよ」


 読んでいた本を膝に置いて背凭れに体重を預けたニコラスがのんびりと欠伸をする。

 彫像のような綺麗な顔をしている彼の人間臭い部分にクレアはくすりとした。


「変わりない皆の顔を見ると心からホッとできるね。何しろ王都は華やかだけれど世知辛いから心が枯れそうでさ。故郷の潤いは格別格別」


 大学での専攻のせいか潤いなどと植物にでもなったような茶化した物言いに思わず頬が緩む。


「兄様でも世知辛いんだ、王都って」

「うんもうね、激辛だよ」

「何それ激辛って……」


 クレアもニコラスもくすくすと笑い合う。


「それに心が枯れそうって、兄様ならモテモテじゃないの?」

「別に恋愛的な意味じゃあ……って、うーんまあいいか。モテモテって研究室に缶詰めか試験場で土いじりか郊外でフィールドワークしかしていない僕が? いつも土で汚れてるし、女の子なんて寄って来ないよ」

「そ、そうなんだ」


 かなり予想外だった答えにクレアは慰めるべきか研究熱心だと褒めるべきか悩んだ。

 ニコラスは膝の上の本に片肘で頬杖を突いてクレアの方を見つめてくる。


「まあ、全然関係ない娘にモテたって仕方がないんだけれどね」

「関係ないって……変な言い方」


 クレアは困惑気に眉根を寄せる。興味がないとか好きでもないとか言うのならまだわかり易い表現だが、関係ないという分け方は微妙だ。


(それって関係なくない地元の皆にはチャンスがあるって意味? そんな朗報、彼女達が聞いたら泣いて喜ぶわ~)


 ゆくゆくは家を継ぐニコラスは伴侶には地元の女性を視野に入れているのかもしれない。


(そうなら、あたしは絶対的に相応しくないから、皆は一安心だしね)


 将来、クレアはここには留まらない。


(それがいつになるのかはわからないけど……)


 この地を離れる想像をして心が漠然とした不安に染まりそうになった矢先、ニコラスが苦笑のような息遣いの後にいつも通りの落ち着いた声音で言った。苦笑したのはきっとクレアが妙に辛気臭い顔をしていたからかもしれない。


「クレア、仮にアルフォとの戦端が開かれても、ブライアンは後方支援担当だろうから前線の正規の軍人達ほど危険には遭遇しないと思う。それに、この国には優秀な指揮官がいる。だからブライアンを心配し過ぎて心を痛めたりしないでほしい。あの子はきっと無事に帰るよ。そうしたら思い切り抱きしめてあげてほしい」

「兄様……」


 クレアがニコラスをよく知るように、向こうだってお見通しなのだ。

 心が温かくなる。彼が帰ってきた理由の一つはこうして実は結構動揺しているクレアや家族、屋敷の皆を励ましてくれるためでもあったと、これはクレアの自惚れや勝手な思い込みではなく真実そうなのだと確信できる。

 彼は自分だって弟をとても心配だろうに、クレアが年下の女の子だからなのかこんな気遣いをしてくれる懐の深さを持っている。


「そうよ、ブライアンみたいなのはピンピンして帰って来るに決まってる。兄様ありがと!」


 全部とは言わないまでも落ち込んでいた気分が浮上して、クレアは赤髪を揺らしてにっかと破顔した。


 ただ、ニコラスの様子に何か小さな引っ掛かりを覚えもした。


 それが何かは判然としなかったが……。


 僅かなもやもやを胸にするも、ニコラスは彼こそクレアの様子にどこか安堵したような顔をして柔和な笑みを湛えたまま彼女を変わらずじっと見つめた。その意味あり気な視線に気を取られ直前までの違和感が霧散する。


「ええと何か顔に付いてる?」

「うーん書いてある、かな。ブライアンのことだけじゃなく、何か悩みがあるんじゃない? この前王都に行ってからさ」

「えっ!」


 驚いて、クレアは長椅子の上で体ごとニコラスの方を向く。


「本当は僕を頼って相談してくれるまで待とうかなっても思っていたけれど、どうやらそんな悠長な時間はなさそうだから。話せるならだけど、聞くよ」


 確かに、何があるとも知れないこの緊張の時勢では如何に気長な人間だろうと時間を有効に使おうとするだろう。


(ブライアンもニック兄様も、鋭いんだからなあ。それともあたしがわかり易いの? それか両方?)


「……何でわかったの?」

「長年クレアを見ているんだ。それくらいわかるさ」

「うむむむさすがは幼馴染みよね」

「ふふふさすがは幼馴染みだろう?」


(長年、かあ。ホントこの兄弟には敵わない……)


「まあ、どんな人でも察してあげられるわけじゃないけれど。……そのつもりもないし」

「そうなの?」

「そうだよ」


 彼の普段とどこか違う物言いにクレアが戸惑っていると彼はにこりとしてみせた。そしてクレアの言葉を待っている。


 ――あたしは魔女です。


 それだけできっとニコラスはクレアの不安を理解する。


(だけど、オーリ殿下には他言するなと言われてるし、折角実家に帰って来て羽を伸ばしてるのにあたしの事情で煩わせたくない。何より巻き込めない)


「ごめん兄様。今は話せない」


 ニコラスは一拍、彼の方でも感情の落とし所を探して落とし込むように間を置いてから「わかった」と静かに頷いた。そんな彼は膝の上の本を脇に置いてクレアとの開いていたスペースを詰めてきた。

 クレアの顔を覗き込み、人差し指で眉間をちょんと押してくる。


「ごめんね、気に病ませるつもりはなかったんだ」

「えっあっ違うの誤解しないで。いつか支障なく話せるかもしれなくて、その時に兄様に理解してもらえたらとても安心できると思うけど、でもそれまでは迷惑をかけるのは嫌だしなあって思って……」

「迷惑って」


 ニコラスはちょっと窘めるような目付きになった。


「クレアの悩みを迷惑なんて思わないよ」


 やや叱るような声の割に本気で気を悪くした様子もないニコラスは、抱えていたクッションを放り出すようにして慌てて弁解したクレアの頭をポンポンと優しく撫でてくる。ちょっとラフな感じのあったブライアンの掌とはまた違う撫でられ方だった。彼より丁寧と言っていい。とは言えクレアにはどちらも慣れたスキンシップだ。


「ほら、もう困った顔しないの」


 温かさで心を解してくれるような優しい声音に感動のようなものが込み上げる。


「でないと~……こうしちゃうよ!」

「えっ!?」


 隣からのどこか笑うような声と共に、彼が好んで使うさわやかな香水の香りが強くなる。気付けば肩を借りられていた。ニコラスに横から寄り掛かられている。

 彼がこんな風に甘えるようにしてくるのは珍しく、クレアは何だか変に焦ってこくこくと頷いた。


「しない、しないから、とりあえず落ち着いて兄様」

「僕は落ち着いているよ?」


 ふふっと小さく笑われての返しに、クレアは閉口するしかない。いつになく近くで響く良く知る声が甘い、気がする。


(ああもうあたしの馬鹿。らしくない真似までさせて、優しい兄様をこんなに心配させてどうするの)


 家族にも言うなとのオーリからの口止めは、ある側面から見れば正しい。

 しかしともかく事実は事実なのだ。クレアが現実的にここで暮らしている以上何も知らないままの周囲を最悪の状況で巻き込む可能性は捨てきれない。そうなったら後悔し切れない。オーリの出方にもよるだろうがいつかは告げなければならないのだ。


(考えてみれば、相談するなら兄様が一番適してるのかもしれない)


 ブライアンには出兵準備に集中してほしいし、息子を心配する伯爵夫妻にも余計な心労を掛けたくはない。今まさに外国との折衝に忙しいだろう父親は論外だ。消去法から言ってもニコラスしかいなかった。


(知らない方が危険なケースだってあるわ。まずはニック兄様に知ってもらって意見を仰ぐのもありよね)


 クレアは寄り掛かられたままに意を決した。


「兄様、あたしね、あたし……――魔女なの」

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