第6話 魔法機関にて

「――先の娘は、何者だ?」


 足を止めないままにオーリ・ラクレアは一人口の中で低く呟いた。


「おい、先の赤髪の娘が出てきた部屋は誰に宛がっている? あの娘本人か?」


 後ろに付き従う若い眼鏡の護衛兵士に問えば「すぐに調べて参ります」と気配が遠ざかった。

 艶のある鮮やかな赤毛が美しく、目立つ容姿の娘なのには違いない。

 だが、その緑色の瞳を見た瞬間、オーリは不覚にもハッとした。

 重ねてしまったのだ。


 今は亡き、唯一の友のそれを。


 笑い草だが、友とは年齢も親子程に異なる見ず知らずの少女にだ。


「殿下、先程の部屋ですが、管理人によれば登録上の使用者は――……」


 仕事が早いのか運よく管理人とでも出くわしたのか、程なく情報を得て追い付いて来た眼鏡の男性兵士から使用者の名前を聞けば、記憶にあるものだった。


 ニコラス・ウィンストン。


 彼とは一度だけ対面した記憶があるのを思い出す。

 数年前だったか、そっくりだからと周囲が連れて来たのだ。

 自分でも驚く程似ていたので記憶に残っていた。

 一応は秘かに血筋の近しい身内や先祖の誰かの落胤系統かも調べさせたが、全く関係はなかったので正真正銘他人の空似だ。


(そうか、彼はまだこの王都にいるのか)


 オーリは胸の中で独りち、両の眼を思案に細めた。


「あの赤毛の娘は彼の同郷の学生だそうです。外城とは言え王城に私用で知人を招き入れるなど褒められたものではありませんし、追い出しますか?」


 厳しい言葉を口にしつつ、その眼鏡の兵士は先に走って行って外城玄関扉を押し開いてオーリを通す。

 ロータリーへと出ると、まさに計算されたようなタイミングで王家の馬車が停車したところだった。


「そんな些事で目くじらを立てるな。放っておけ」


 鼻を鳴らすオーリは用意されていた馬車に乗り込むと、腕を組んで静かにまぶたを下ろした。

 因みに兵士は御者の隣席に上った。





 魔法機関のある一帯は学校地区だ。ニコラスの在籍する王立大学やブライアンの通う騎士学校もその界隈にある。

 幸い城門最寄りのバス停にニコラスは見当たらず、クレアは少し待った末に無事魔法機関方面行きのバスに乗れた。

 到着した通りを眺めれば、魔法機関はあっさり見つかった。

 魔法機関と書かれた看板は大きいが、城のような高い外壁はなく門らしい門もない。敷地の端だと思しき辺りに低い植え込みが並んであるだけだ。

 街路に接した幅広で高低差の小さい階段を数段上った先の、白い石材を使った四角い建物は外城とどこか統一性がある。


「良かった開いてた~」


 喜色を浮かべ安堵するクレアは正直本当に夜間でも開いているのか半信半疑だったのだ。

 中に入ると病院や役所のようなどこか硬質な雰囲気が漂ってはいるものの、受付に申請すると測定をすぐにしてもらえるようで、待ち時間を覚悟していたクレアとしては些か驚いたものだった。

 簡単な書類は書かされた。今は無人のロビーで待っているよう言われて待っていると、おそらくは担当者なのだろう白髪の老年男性から呼ばれ、弾かれるようにして椅子から腰を上げていた。彼の後ろに続く。


(まさかこんなに順調に事が運ぶとは思わなかった。無駄足にならなくて良かった)


「ほう、ローランドさんはウィーズからお越しですか。遠い所からおいでになったのですね」

「あ、はい。ええとその、地元だとどうしても近所の目が気になってしまって……」

「ああいえ申し訳ない。別に責めているわけではないのですよ。どうかお気になさらずに。毎日王国各地から様々な方が測定希望で来られますから。地元だと不都合のある方々も珍しくありませんので」

「そうなんですか?」

「ええ、中には今よりも遅い真夜中や丑三つ時にこっそりって方もそこそこいますよ」

「へえ、そうなんですか」


 クレアの呆れとも驚きともつかない反応に、バインダー上の記入書類に目を落としつつ測定室まで廊下を案内してくれている老人は、真面目かと思いきや存外茶目っけのある人のようで「人それぞれ事情がありますから」と肩越しににこやかに言った。彼のおかげでクレアの当初の緊張もだいぶ解けていた。


(人それぞれ……か)


 もしも魔力があっても、クレアは決して嬉しいとは感じないだろう。むしろ隠していたのかと誤解され父親共々罪に問われる不安の方が大きい。

 父親だけではない。共犯なのかとウィンストン家の皆まで疑われたらどうしたらいいだろう。それに、その時彼らは自分への態度をどう変えるだろうか。


「ああ着きました。この部屋で測定を行います」


 ベテランなのだろう職員に促され病院の検査室のような部屋に入ると、室内には大きな天球儀に似た球体が鎮座していた。

 大きいとは言ってもクレアの腰程までの高さで、悠々全体を見下ろせた。球面には星座図とはまた違った点と線が細かく刻まれている。


「これは魔力の属性や強さなどをわかりやすくするためのもので、頂点のセンサー部分に魔力ある者が触れれば、球の属性該当箇所が光ります。では球体の天辺に手を触れて下さい」

「は、はい」


(いよいよだ)


 再燃した緊張にごくりと生唾を飲み込んで、クレアは恐る恐る手を伸ばしてひんやりとした球体上部に触れる。

 生体を感知したのかそれとも魔力をか、測定器が微かな振動を伴って起動する。

 クレアは緊張の度合いをより一層強くした。





 予想通りなのか、はたまた予想外なのか、自分でもどっちと思って良いのか判然としないままに測定は終わった。


 無事に、何事もなく。


 魔法機関の入口を一人出たクレアは、どっと疲れたような心地で建物から伸びる階段の一番下の段に腰を下ろしていた。

 膝に両肘を突いて顎を乗せぼんやりと夜空を見上げる。

 空にはほんの薄くだが、確かに星が見えた。


(王都みたいな夜も明るい空でも見えるなんて、あの星達は一等星よね。一等星のようにあたし自身もはっきりして見えるなら、こんな風に悩まずに済むのにね)


 クレアは思わず溜息をついた。夕食時をとっくに過ぎた時間だからか通りを歩く人影は疎らだ。


 彼女はたった今もそこに別の景色を重ねる事かできる。この場所の過去の光景を。


 意味のない過去視を止め暫く疲れた心地で座っていると、一台の馬車がクレアの目の前の路上に停車した。魔法機関に用事があるに違いない。

 何気なく見ていると、御者席から短髪眼鏡の青年が降りた。紺色の軍服を着ているので軍属の人間なのだろう。

 青年は馬車扉を開けて閉まらないように押さえて待った。

 中からは誰か一人降りてきたが、その誰かよりもクレアは馬車の紋章の方が気になった。


 黄金の魔法杖を左手に持つ黒獅子の紋章。


(あれって王家の……ってことは、誰か王族が乗ってるの?)


 じっと紋章を見つめ、外城で遭遇したオーリ王子だろう人物を思い出していると、ふっと頭上に影が差した。街灯の光が遮られたのだろう。クレアが目を上げるのと、命令染みた声が降ってくるのはほぼ同時。


「貴様、邪魔だ」

「へ?」


 いつの間にやら目の前には眼鏡の兵士が立っていて、何故かクレアを睨み下ろしていた。


「聞こえなかったか? そこをどけ」

「え、あ、すみません?」


 自分が階段のド真ん中に座り込んでいたのを悟って慌てて立ち上がったクレアだったが、ふとよく考えれば階段の幅は車道並に広いので単に横を通ればいいだけではないかと不服に思う。


「……そっち通ればいいじゃない」


 で、ついつい小さくぼそりと呟いた。


「何だと不敬な! 貴様はこの燦然さんぜんたる太陽のようなお方に道の端を歩けと言うのか!?」

「いえいえ何でもございません。どうぞお通り下さい」


 力んだ愛想笑いを浮かべ素早く階段の端に寄ったが、角度が変わったおかげで眼鏡男の後ろの人物が見えた。


(ふん、太陽のようなお方ってどんな人よ)


 一体どれ程光り輝いているのか拝見してやろうと、少し意地悪な気持ちで目をやったクレアは、瞬間呆けた。


「ニック兄様?」

「はああ!? 重ねての無礼許せんぞ! 頭がおかしいのか貴様はッ! 誰が貴様などの兄様かッ! このお方はなあッ」


 噛みつかれそうな勢いで怒鳴られ汚らしく唾を飛ばされたクレアは嫌そうに身を引いたが、自らの誤りにも早々に気付いた。


(あ、ホントだ兄様じゃない。この人はさっきの――オーリ王子殿下だわ)


「フラウ、公道だ。少し黙れ」

「はっ申し訳ございませんオーリ殿下!」


 やたらと威風堂々とした金髪の青年の注意に、短髪眼鏡のフラウと言うらしい青年はビシッと背筋を正す。

 やはり彼はオーリ王子のようだ。


「ええとすみません。こちらの勘違いでした」


 クレアが謝罪に下げた頭を上げれば、王子オーリはクレアをじっと見据えて目を細めた。


「……外城にいた娘だな」

「えっ、さっきのを覚えていらして……?」


 完全スルーかと思っていただけに仰天していると、彼は歩み寄ってくるなりクレアの顎を掴んできた。


(……は?)


 じっくりと探るように目を覗き込まれるが、クレアは全くの予想外に唐突過ぎて失礼な奴だと怒るのも忘れポカンとした。クレアの方も釣り込まれるようにオーリの目を見つめる。これが戦上手で知られる男の眼差しなのか、と。

 決して動かない氷原のような、噂に違わず冷たい目だと思った。

 ややあって先に声を発したのはクレアの方だった。


「……ええと、何でしょう?」

「何故ここに居る? 魔法機関に何か用事か?」

「は、はいまあ」


(……って何なのよこの人。一国の王子だからってこれはちょっとないんじゃないの?)


 ようやく内心苛立ちを覚えつつも、クレアは何とか愛想笑いを浮かべてみせる。


(平常心平常心、王都で、しかも王族とのトラブルはご法度よ。落ち着けあたし)


 そうでなくとも今は特に誰かと喋る気分ではないのだ。


「娘、お前は魔女なのか?」


「――いいえ。今し方測定してもらったのですが、魔力なしでした」


 そうなのだ、測定の結果は「魔力なし」だった。


 よく知らない相手に正直に教えるクレアだが、内心では彼を無神経だと憤った。だから思ったよりも語気が荒くなってしまった。

 更には、自分は魔力なしだときっぱり口に出した事で、クレアの中で渦巻いていた疑問がせきを切って溢れ出てくる。

 だったら今だってできる過去視は一体何なのか。

 魔法ではないのか。


(あたしの頭が勝手に見せた幻覚? ここよりも病院に行った方がよかったとか?)


「ふん、そうか。功名心や名誉欲が過ぎて魔力測定に来た口か」


 王国の魔法使いは上手くすれば貴族にさえなれるのだ。自分に魔力がないのは何かの間違いではないのかと測りに来る者は少なくない。そういう者達は時に欲たかりと蔑まれる。

 ただ、オーリの声には蔑みや嘲りすら含蓄されず、道端の石くれをそれと断じる音しかなかった。魔力なしとわかって興味がすっかり失せたようだ。


(関わり合いになるよりはマシだけど、ムカつく。赤の他人に何でそこまで言われなきゃならないの?)


 内心で抗議するクレアはそれでも表面上の抗議は控えた……つもりだ。

 無意識に睨むように見つめていたという自覚はなかった。

 そんなクレアの忍耐と気の強さを窺わせる僅かな変化に、相手は微かに口角を上げた。面白い何かを見つけた時の表情だとはクレアが知る由もない。


(もーっ、さっさとその御手を離して下さらないかしらねっ!)


 これがブライアン相手だったら即刻キレて頭突きすら繰り出しているかもしれない。


(大体ね、あたしは名誉とかじゃなくて真実を知りたかっただけよ。どういうからくりか知りたいだけ)


 何かは判明するだろうと思っていた。

 しかし予想に反し、謎は謎のまま元の形を変えず持ち帰るだけになりそうだった。

 オーリは依然不遜な態度で見下ろしてくる。

 クレアの鮮やかな緑の瞳を。

 図太く生きてきたクレアはそれくらいではたじろいだりしないが、見つめ返しながら次第に困惑した。

 それはお付きらしい眼鏡兵士もそうらしく「で、殿下? このような愚民になど時間を費やすのは無駄ですよ?」と超絶失礼にも進言している。


(そっちだって魔法使いでもないくせにここに何の用よ。魔力なしの平民にイチャモン付けるくらい魔力なしな王子様は偉いってわけ? そんな訳知り顔でさ。あたしの何を知ってるってわけ? へん、知るわけないくせにねっ。仮にもし何か知ってるんだったらあなたの知ってることをさっさと――)


「――教えてよ」


「なに……?」


 不貞腐れた気分のクレアは思わず声に出していた。

 自分でも気付き驚いた面持ちになる。

 オーリの方は当然意味がわからず訝しげな声を出した。


 だが直後、金色の逆行時計陣が浮かび上がり、独りでに針が回り出す。


「え!? やばっ、そんなつもりないのにいーっ」


 顎を掴まれたまま動転している暇があったなら、クレアは無理にでも王子から離れるべきだった。


 しかし手遅れで、周囲の景色が激変した。


 クレアは恐れた。

 過去視を人間相手に発動させた経験はなく、相手や自分がどうなるのか予想できない。

 止めようとも治まらず、どうしようもなく状況の変化に流されるしかなかった。

 そして唐突に訪れた終点であり始点に、クレアは訝しむ。

 今までなら固定されていてもある程度空間内を自由に動き回れた周りの景色が、勝手に動いて流れていく。

 新たな現象にクレアは混乱した。


「――まるで誰かの視点で見ているみたい」


 見知らぬ豪奢な部屋で若い女性がこちらに笑いかけ、喜んだように視界が揺れた。

 しかし次には場面が転じ、見た事のある部屋に切り替わった。

 天球儀に似た魔力測定器が置かれている。


「ここってさっき入った魔法機関の……?」


 小さな手が視界に入り、誰かがその手を恭しく導くようにして球体の天辺に触れさせた。

 測定球を中心にして部屋中に光が溢れた。


 ――おおっ! これは測定限界、魔力の最高値ですぞ!

 ――しかしこれは公表してはなりません。オーリ殿下のお命を護るためにも絶対に内密にせねば。


 誰かの声が聞こえたが遠ざかり、次にはどこかの庭園風景になった。


 ――今日はどうしたんですか、オーリ殿下?


 こちらに話しかけて来る声に、視点が動いてその人を映し込む。

 この国の紺の軍服を纏った緑色の瞳をした妙齢の女性がクレアにも見えた。


「――!?」


 もしも目の前に鏡があったなら、クレアは自分が極限まで目を見開き息を呑んでいる姿を見ていただろう。


「かっ……母様っ!?」


 それはおそらくまだ若い頃のとは言え、クレアの母親その人に違いなかった。


「どうして母様が出てくるの……?」


 動揺と疑問に埋め尽くされるクレアの思考。

 しかし直後、肩に鈍い痛みを感じそれが呼び水となって周囲が金色に弾け、現実に引き戻された。


「お前……お前は今何をした!?」


 顎を掴んでいたオーリの手が肩に移動していて、そこをぎりりと軋んだ音がしそうな程に強く圧迫されている。


「痛っ……!」


 顔を歪めるクレアの痛みになど頓着せず、あたかも脅迫するように彼は凄み顔を近付ける。


「娘、答えろ! お前はたのか?」

「みた……?」

「で、殿下? 急にどうされたのです? いきなりボーッとして独り言を言い出したこの娘もどうしたんだって感じですが」


 最初は横柄だった眼鏡兵士フラウが今度は気が弱ったように慌てふためいていた。案外ハプニングに弱いのかもしれない。


(あたしが独り言? それって過去視の間の発言? そういえばブライアンと一緒の時も声がそのまま聞こえてたみたいだった)


 急に気が触れた人間みたいではないかと、クレアは気まずさと恥ずかしさに思わず俯いた。

 向こうも半ば我を忘れていたのか、ハッと気付いて手を離したオーリが冷たくも聞こえる低い声をフラウに向ける。


「フラウ、お前はたった今、何も視えなかったのか?」

「み、見えるとは一体何をです?」

「……そうか。ならいい。やはりあれは魔力なしには視えない類の陣か」

「は、はあ」


 難しい面持ちのオーリはクレアから目を離そうとしない。

 彼の言葉からクレアも察するものがあった。


(まさかこの人、逆行時計陣が見えてたの?)


 彼の発言からすればそうだろう。魔力なしには見えないのなら、なるほど確かにあの時ブライアンには見えなくても道理だ。


(でもそれってこのオーリ王子殿下も同じじゃないの?)


 世間で言われている通りなら、この王子にも魔力はない。


(でも、この人には視えていた。今の光景もこの人のよね。それはつまり……)


 導かれる解が脳裏を過ぎった矢先、


「娘、一緒に来てもらうぞ」

「は? え!?」


 咄嗟に拒否しようとしたクレアはしかし、自分を険しい眼差しでめ付けてくるオーリにたじろいだ。殺気に満ちている。

 クレアが不覚にも気圧されている間に彼は彼女の手を掴んだ。一度躊躇ためらいというか試すように触れてから変化がないのを確認して、次にはしっかりと握り締めて強引に引っ張った。

 フラウが「で、殿下?」と泡を食った顔で、しかし止められずにただ付いて来る。


「ちょっとあのっ何ですか!? 放して下さいっ!」


 そのままわけもわからず、クレアは本日二度目の魔法機関入口を潜る羽目になった。

 変な男に付いて行くなとのブライアンの声がふと耳の奥に甦ったが、面目なくももう手遅れだった。





 オーリは、王城を出てからここまで王都の各所に立ち寄り、そして自動車ではなく馬車で移動してきた。

 通常はほとんど自動車を使うが、今日に限っては馬車にした。

 時々彼はふと思い付いたようにそうする。

 公務に追われて分刻みに忙しい彼にしてはのんびりした行動だが、速いと見逃してしまうような路地の隙間から、人混みの奥から、建物の陰から注がれる自分を付け狙う視線を把握するには適しているからだ。

 しかし、今日は肩透かしもいい所で怪しい動きは見受けられなかった。徒労感しかないとんだ外れ日だ。間者や刺客の一人でも見つけたならば捕まえて拷問でもしてやったのに……とどこか残念な心地でいた。

 そんな矢先の出来事だったのだ。


 赤髪の少女から突如奇妙な金の魔法陣が展開されたのは。


 どうも自分にしか見えなかったらしい黄金の時計のような魔法陣は、彼女を中心にして何もない空間から現れると針が逆回転を始めた。

 初め新手の刺客かと身構えた部分もあった。

 だが目を瞠る先、顎先を掴んだままの少女は目の焦点の合わない様子でどこか別のものを見ているようだった。


 そして彼がそんな様子の人間を見るのは初めてではなかった。


(この娘は時の魔法使いか? 魔力なしだと言っていたが、もしそれが無難にやり過ごすための嘘だとすれば――)


 ――秘密を知られたかもしれない。


 何故なら、いつを視られたかわからない。


 彼の中に仕舞われている大事な大事な思い出と、生まれてこのかた培った鋭い嗅覚でそう直感した。


(ハッ、これはこれはとんでもない掘り出し物を見つけたものだな)


 少女の手を乱暴に引きながら、彼は吐き気にも似た苦々しさとどこか憐れみさえ抱いていた。


(幸か不幸か、私の思っている通りならこの娘は平穏には生きられん……――ははは、幸か不幸? 誰にとって?)


 魔法機関内へと引っ張った赤髪の少女は、身の危険でも感じているのか全身で抵抗を激しくして一度はオーリの手を振り払った。


「ちょっと何なの、いや何なんですか! いくら王子殿下でも常識と非常識の分別は付きますよね! って、ちょっ、このっ、また掴む!? やっ放せこの誘拐犯ーーーー!!」


 しかし彼は動じもせず、相手を逃がさないようしかと手首を捕まえ直してロビーを突っ切り、その際にしれっと機関の職員らに自らの来訪を告げた。

 うちの慌てた一人が追い付いて来るのを待たず足を動かす。

 フラウは先よりはいくらか落ち着いたのか、言いたい文句は多々ありそうだが口を慎みオーリに従っている。

 オーリは魔力測定室を通り過ぎ、廊下の奥の奥にある自分専用の部屋の前に到着すると、いつもならロビーで受け取るはずがすっかり忘れていた鍵をフラウに取ってくるよう命じた。フラウが応じて踵を返すも、急いで追い付いてきた老年の職員が「鍵ならここに」と手早く鍵を開けた。

 オーリは知らないが先程クレアに応対した老齢の職員だった。

 鍵を開け入室しようとすれば、苦々しい顔付きでオーリに手首を掴まれている少女がギョッとしたように叫ぶ。


「え、え、え、部屋!? 何何なになになんなの!? いやーっ何か入りたくないいいーッ! おじさん助けてえええーッ!」

「ふん、無駄な足掻きを」


 さして感情を動かさず言い放つオーリは、風呂に入れられたくない猫が爪を立てるように「入ってなるもんですかーっ」と扉口に手足を引っ掛け踏ん張る少女を、ついにはたわら担ぎで強引に連れ込んだ。


「いーーーーやーーーーっっ!! 放して下ろしてよッ人攫い誘拐犯変態節操なしの不埒男っ!!」


 両手両足で盛大にじたばたとされ、今までおよそ言われた経験のない散々な呼称に密かにこめかみに青筋を立てながら、オーリは無言で室内へと進んだ。

 彼は強引にどうしてここまでするのか。


 赤毛の少女の能力に確信を持っているからだ。


 少女と青年双方の素性を把握しているだけに老齢の職員はかなり戸惑った様子だったが、立場を弁えているが故に室内には入っては来ず廊下に立ったままだ。

 オーリ達に続いて鍵を受け取ったフラウが入室し扉を閉めれば、もう中からの音は聞こえなくなった。


「一体何がどうなっているのでしょうか……」


 職員の困惑しきりの声が廊下に小さく響く。

 オーリ王子が敵のスパイでもない婦女子に腕力で無体を強いるとは思えない。

 色恋に感情で走るようなタイプでもない。

 それとも、想定外の一目惚れでもしたのだろうか。

 彼だってもう二十歳。

 一国の王子としては妻がいてもおかしくない年齢だ。

 しかも若さと自信に溢れ行動力があるだけに一度決めたらそのまま自分の恋人に……つまりは手籠めにしそうだと職員はちょっと心配になった。相手の少女の方はどう見ても嫌がっていたのだし、この場合の無理強いは勝算がないのではと老婆心からの懸念もした。

 ただ、身分も権力もあるのでもしも彼が本気で望めば寵妃を一人囲うくらいはさもないだろう。

 しばしどうしたものかと思案していた男性だったが、フラウも居るのだし心配はないだろうと判断し一つ小さな息をつく。

 余程の非常識があればさすがに彼が止めるだろう。


「もう戦が恋人を卒業して頂く時期かもしれませんしね」


 男性は走ったせいで乱れた白髪を撫でつけると廊下を戻るのだった。






「あ……ッ」


 わけのわからないまま俵担ぎまでされ広い一室に連れ込まれたクレアは、五人は座れる大きなソファに放り出された。ぼいーんと地元では滅多にない高級感漂う強い弾力を味わって落っこちそうになり、焦ってソファのくねくねとした無駄に凝った装飾の背凭れにしがみ付く。

 じんじんする手首の袖をまくってみれば、くっきり赤く指の跡が付いていた。


(痛い痛いって思ってたら……。ああもうこれあざになるわよ! この男最低最悪!)


 顔をしかめつつ、放されて僅かに混乱の引いたクレアは毅然と顔を上げた。


「一体何の御用ですか?」


 自分を見下ろすのは仮にもこの国の王子だ。

 全てがとは言わないまでも、地位の高い一部の王侯貴族が横暴なのは今に始まった事ではない。


(ままままさか通りすがりのあたしを欲望のはけ口に!?)


 奇しくも白髪の職員と同じような危惧を頭に浮かべ、クレアは両腕を交差させて我が身を抱いた。


(本当は急所でも蹴っ飛ばしてやりたいけどっ)


 いざという時はやってやる、とクレアが決死の覚悟でちらと股間に目をやれば、男としての危険を察したのかもしれない、オーリはクレアの視線を視線で叩き落とすように不快げに眉根を狭めた。


「ふん、目は口ほどに……とはよく言うが、本当に雄弁だな」


(こんな暴挙に出られたんだから当然でしょ!)


「ご自分の胸によ~く手を当てて顧みて頂ければ、その理由もおわかりになりますよ~?」


 今更だが不敬を避けようとあくまで口調だけは慇懃なクレアに、彼は何を思ったのか咽の奥をくっと震わせて短く笑う。


(ムッカ~ッッ、何笑ってんのよ!)


 微塵も笑えないクレアはオーリを不穏に睨んではいたが、部屋の入口傍で微妙な顔付きで突っ立っているお付き短髪眼鏡へと矛先を変えた。


「ちょっとそこのあなた、フラウとか言う眼鏡! 王子殿下のお付きならこの愚行を止めるとかしてよ! さっきはド偉そうにしておいて何おろおろしてるのよ、このド役立たず!」

「ド偉そう!? ド役立たず!?」

「事実でしょ。さすがにこの国の王子様には暴言吐けないからあなたに言ってるの!」

「……つい先刻はめちゃくちゃ叫んでいたがな」


 オーリの台詞はきれいさっぱり聞こえなかったふりをした。

 そもそもこれ見よがしな発言自体が彼への暴言も同然なのだ。こういう部分でクレアはいい性格をしていたし、向こう見ずなところがあった。


「だってそうでしょ! 理由もなく嫌がる女子を連れ込むなんて犯罪よ犯罪! 拉致監禁でしょ!」

「そっ……!」


 咄嗟に「そんな事はない」と反論しようとしたのはフラウだが、そんな彼も二の句が継げずに口ごもってしまった。この状況はどう見てもその通り。然るべき所に訴えられればオーリの分が悪い。


 とは言え、クレアにとって第三者の助けが望めない現状は厳しい。


 老年の職員は自分は何も見なかったとでも言うように廊下に残った。きっととっくに姿を消しているだろう。


(無理に逃げようとしても、腕力に出られたら敵わないだろうし)


 現にこうやって連れて来られたのだ。オーリは軍に籍を置き練達者としても名高い。フラウだって相応の実力者に違いない。

 この広い部屋に入った時からどう脱出すべきか思案していたが、突破口を見出せず不安と苛立ちが募る。フラウに怒鳴ったのは半ば八つ当たりもあった。


(でもこれで仲裁に入ってくれたりしないかな。ううん入ってよ!)


 そんな期待を抱いていると、室内にハハハと嘲笑が上がる。

 勿論オーリだ。


「何を勘違いしているのかは知らんが肝は据わっているな。目の前の男からどう逃げ出そうかと考えて、唯一の突破口になり得そうなフラウに目を付けたか」

「ご理解頂けているのなら、帰してもらってもいいですか?」

「いや、ならん」


 傲然とクレアを見下ろすオーリは表情そのままに身を屈めた。

 さらりとした金髪が彼の耳横を滑り、クレアの鼻先に微かな風を起こす。


「よくも堂々と謀ってくれたものだ。娘、お前は――魔女だろう? それも隠れの」


 警戒心丸出しだったクレアの両の緑瞳が大きく瞠られた。


 全く知らない方向から冷水をぶっかけられた、そんなような心地だった。

 フラウも意外そうな面持ちで眼鏡の奥からまじまじとクレアを見つめる。


「先程は実に堂々とハッキリ否定していたが、嘘をつくのが得意と見える」

「嘘じゃありませんよ。あたしはついさっきここで魔力無しと測定されました。お疑いなら今からもう一度測定室に行きましょう」

「……本当に無かったのか?」

「ですから、信じられないならその目で確かめて下さい。隠れの魔女でもありませんから」


 やや苛立って返せば彼は思案する。クレアの主張を信じたのだろうか。


「ならお前は、失われた魔法使いなのかもしれんな」

「はい? 失われた魔法使い……?」


 オーリの発言に、クレアは本当に自分が苛立ち紛れにうっかり教えてくれと乞うたように、彼が本当に何かを明かしてくれるような気がした。

 急激にストンと意識が冷静の海へと沈んでいく。


「魔力測定に表れない類いの魔力の持ち主をそう呼ぶ」

「測定に出ない……」


 クレアは何となく両手を見つめてしまった。


「存在が稀で魔法機関の連中でもごくごく一部の者しか知らぬからな。無論公にもしておらぬ。する予定もないがな」


 彼が嘘をつく理由は思い当たらない。言っている内容は事実なのだろう。彼は案の定クレアの知らない魔法の秘密を知っているようだった。しかも重大な秘密なのではないだろうか。

 それをわざわざクレアに話すのは、逆行時計陣を見た彼がクレアの不可思議な力の何かを知っているからに他ならない。向こうも暴きたい何かがあるからクレアを強引に連れてきたと考えて妥当だろう。


(それにたぶん、この人は母様を知ってる)


 さっき視たものは彼の記憶でほぼ決まりだ。たとえその記憶を彼自身が覚えていようといなかろうと。

 クレアの方だってこの機を逃す手はない。


「あの、その失われた魔法使いは、時間に関わる魔法を使ったりしますか?」

「ああ。時間魔法の使い手も含まれるだろうな。とは言え魔法機関で周知されている時間魔法とは系統が異なるのだろうが」

「なるほど、だからこそ従来の測定方法では魔力を感知できないんですね。けれど魔法の一種なので魔法使いには魔法陣が見える、と」

「何だ、思ったよりも聡明なようだな」


 余計な一言は要らないとクレアは内心グーパンだ。


「ところで、随分詳しいんですね。知り合いに詳しい人でもいるんですか?」


 すると個人的な詮索が気に障ったのかオーリはむっつりと黙り込んだ。彼からじろりと睨まれてクレアは天敵に遭遇した小動物気分になった。ニコラスと似ていると感じたのは本当に最初だけで、今は少しも被らない。

 上昇する警戒感に身を縮めていると、暫しあってオーリは「そうだな」とゆっくりと口を開く。

 あたかも次に続く言葉を言葉にするのが躊躇われたかのようで、クレアは本日だけで冷たく酷薄なイメージの積み上がっていたこの王子の意外な様子に戸惑った。


「お前と同じく、時間魔法を使っていた魔女から聞いたのだ」

「えっ、時間魔法の魔女!? あのっもしかしてその人は――」

「――死んだがな。何年も前に」


 クレアはハッとして息を呑んだ。

 オーリの目には薄暗く攻撃的で、しかし反面誰かを懐かしむ色が滲んでいたからだ。

 魔女は死んだという。

 クレアの母親も既にこの世にいない。

 死亡しているレアな魔女が二人。


(この一致は、あたしの考える通りなら十中八九母様がその魔女よね。二人にはどんな関わりがあって、この人は母様の何を知っているの……?)


 疑問はあるが、ここでクレアはその魔女の素性を聞き出すのを諦めた。母親だとの確信はほしいが下手に関係者と知られて面倒事に発展するのは御免だった。

 今優先すべきは彼から得られる時間魔法の情報だ。


「仮に、あたしが失われた魔法使いなら、あたしはこの先どうなりますか?」


 クレアは複雑な感情が内包された紫がかった傲慢な青瞳をただただ黙って受け止める。

 そんなクレアを無感動に眺め、オーリは言葉を紡いだ。

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