第5話 王国の獅子

 黒々とした重厚な両開きの扉の内側で、絞られた間接照明の明かりが室内を黄色く照らす。

 ここ王都ラクレアの空はとっくに陽が落ち、この場所からはさぞ美しい街の夜景が見下ろせる事だろう。眺めれば、だが。

 生憎とこの部屋の窓には暗赤色の分厚いビロードのカーテンが下げられて外など一切見えない。

 そもそもこの部屋の主人に夜景を愛でる心などあるのかは知れない。


 黒檀こくたんの大きな執務机に陣取る二十歳ほどの人物は、クッションの効いた執務用安楽椅子の革張りの背凭れに体重を預け、長い両脚を組んだ。


 一般兵とはややデザインが異なり、刺繍や金モールなどで華やかさが加味された紺色の軍服を身にまとっている。

 その真正面では同じ紺色でも通常仕様の軍服を着た壮年男性が直立し、額の汗を頻繁にハンカチで拭いながら報告を行っていた。生え際が後退を始めているのは遺伝によるものかそれとも日頃のストレスか。


「……というわけで、今回は何とかローランド卿が収拾を付けて下さいましたが、同様の衝突はまた起きるかと思われます。我ら上層部としてもこれ以上大きな被害が出ないように策を講じてはおりますが……」


 と、後ろの毛先が肩に届くか届かないかの金髪を揺らして脚を組みかえ、椅子に腰かけた青年が傲然と顎を上げ皮肉気に口の片端を持ち上げる。

 その様は覇気に満ち、さながら頭髪は獅子の金のたてがみのようだ。


「全く、またちみちみと領土侵犯などしてきおって。アルフォのゴミ虫共は私の神経を逆撫でしかしないな。ハーシェル大佐よ、国境沿いの臣民は戦々恐々としていると言うに、綻びだらけの平和の維持になど何の意味がある? 連中の仕業だとわかり切っているにもかかわらず、毎度毎度確たる証拠がないだと? いつからこの国の国境警備兵達は木偶の坊になった?」

「お、恐れながら、不確かな証拠で糾弾すれば侵攻の口実を与えてしまい、こちらが不利となります。細くとも同盟を維持するべきかと」

「ふっ同盟、か。同盟など最早机上の空論以上に無意味だろうに。寛容なフリなどさっさと止めていっそこちらから攻めようではないか」

「オーリ殿下! 滅多な事を仰るのはお控え下さい! 殿下の御言葉一つで即時開戦の火種となりかねないのです!」

「もうとっくに足元は燃えているではないか。躍起になって踏み消そうとするより、禍根かこんなきよう徹底的に塵灰にしておいた方が得策だと思うが?」

「それは……っ」


 大佐が黙りこんだのに追い打ちをかけるように、ラクレア王国王位継承権第一位の王子――オーリ・ラクレアは冷笑した。


 冷ややかに細められた瞳は紫がかった青。

 ウィンストン兄弟の瞳とは色味が少し異なるが、遠目で見る分には余り違いはわからないだろう青瞳だ。


「私直々に陛下に奏上するとしようか。遅かれ早かれあのいけすかない国とは一戦交えるつもりだったのだからな」


 彼は黒い革の手袋を掛けた自らの右手をじっと見つめ握り締めた。


「いざとなれば私の手で敵の全軍をほふってやろうとも」

「殿下……」

「もう良い、下がれ」

「ははっ!」


 その都度緊張しか強いられない報告を終え退室したハーシェル大佐は、毛足の長い赤絨毯の上を数歩歩いて立ち止まり、自国の王子の執務室を振り返った。

 大佐自身、国境の町や村を奇襲し略奪を働いた上に火をかけるという隣国の姑息な蛮行には憤りを感じている。しかも実行犯共は狡猾にも賊を装っていてアルフォの軍属だという証拠を掴ませないのだ。

 唯一の上官、最高指揮官でもあるオーリの言葉には同意できる部分も多い。


「あのご様子では、殿下も相当ご立腹ですね」


 オーリは、表面上は皮肉気とは言え笑みが出て冷静そうに見えていたが、その実自国をコケにされて大層憤慨しているのだろうと大佐は感じていた。だから常以上に言動が好戦的だったのだと。


「魔法使いでもない殿下が、彼の手で敵の大軍をどうこうできるわけもないのだが……しかし、大言壮語をなさるお方ではない」


 よってどうこうしたいのなら、彼の取る手段はやはり戦争しか浮かばない。


 彼が感情に任せて早まった行動を起こさないかと大佐は懸念している。

 達観し冷静なようで、オーリはまだ若いのだ。

 血気盛んな頃の自分を振り返って重ねる大佐は、人の未熟さ、青さというものをよく理解していた。


 ただそれは決して間違った見解ではなかったが、オーリの先の言葉の意味の半分を彼は理解していなかった。


 とは言え大佐が機微に疎いわけではなく、本当にオーリを理解している人間が少ないだけなのだが。

 大佐はまだおさまらない額の汗を拭う。


「何にせよ、開戦は目前というわけでしょうね」


 そうなれば兵士が、民が、何人死ぬか。

 自然と眉根が深く寄った。

 入軍して以来、大なり小なり隣国との戦場を何度も経験している大佐は戦場の過酷さを知っている。

 それは若くして初陣を終えているオーリもそうだったが、彼は生来の戦好きと称されるほどに苛烈な性格の持ち主だ。

 十代前半の初陣では、死体に慣れたベテラン兵士でも吐き気を催すような酷たらしい場面を見ても、淡々として死者の識別札の回収と遺体の埋葬、必要ならば収容の指示を眉ひとつ動かさずに出していたという。

 剣にしろ銃にしろ巧みな腕を備え、戦場での判断も冷静かつ冷酷。今や戦場の申し子とまで言われる。

 軍にいながら争いを好まない自分とは心の構造が根本からして違うのだと、大佐は慄きさえ感じていた。

 味方であるが故に心強いのは否めない。

 ただ、一部ではその冷酷な性格が理由で未だに立太子されていないのだと囁かれてもいるのだが。


「偉大なるラクレアに幸あれ」


 大佐は気休めの言葉で自らを慰め疲れた表情で溜息をつくと、程良く照明の効いた長い廊下を再び歩き出した。


 年配の部下が去った室内でしばらく無言で考えを巡らせていたオーリは、壁に掛けられたセピア色の大きな近隣地図の一国、隣国アルフォを底冷えするような眼差しで見据えていた。


「必ずやあの代償を支払わせてやる」


 その声はくらく低く、揺らめく眼光は切っ先のように鋭い。

 彼の心を深くから侵食する黒い復讐の炎のくすぶりが見え隠れしていた。






「はああッ? 夏休み王都に遊びに行くだあ!? まさか男とか!?」


 ウィンストン一家の夕食時間。

 昼間のニコラスとの会話で考えを改めたクレアが素直に王都行きの話をすると、その席上でブライアンが仰天の素っ頓狂な声を上げた。因みに彼は夕方自主トレから帰って来ていた。


「あのねえ。どうしてそうなるわけ? 一人でよ!」

「一人……家出か!」

「なわけないでしょ!」

「あらクレアちゃんたら王都にお出かけするの? 泊まる所はセキュリティーのしっかりしたホテルじゃないと駄目よ。じゃないとおばさん心配で夜も眠れなくなっちゃうわ」

「あ、そこはニック兄様がいい場所を知っているそうなので、そこに泊まろうかと。観光案内もしてもらう予定なんですよ」

「まあ、それなら安心ね。どうせならニコラスだけじゃなくブライアンもクレアちゃんの観光が終わる頃に一緒に帰ってきたらどう? それまでは王都に残ってたら? 三人で王都を回ってもいいんじゃないかしら?」


 母親シシーからの提案にブライアンは目を見開いた。言われるまで思い付きもしなかったような反応だ。加えて、それはとても魅力的な提案だとでも言うように目を輝かせた。


「そんなの駄目ですよ!」


 クレアは反射的に訴えていた。

 え、と傷付いたような顔になるのはブライアンだ。


「二人共に帰郷が遅れたら、おば様達が寂しいじゃないですか」

「「クレアちゃん……!」」

「な、何だそんな理由……」


 ウィンストン夫妻は感動し、ブライアンはほっと胸を撫で下ろした。ニコラスは穏やかに見守っている。


「いいのよ、おばさん達に遠慮なんてしないでブライアンにも王都観光案内させてやって?」

「え、でも……」


 ここで伯爵があたかもワインで酔ったように口を挟んだ。


「クレアちゃん、どうせならうちのせがれのどっちかをもらってやってくれないかい?」

「おじ様!?」

「は!? ちょっ親父何言って!? しかももらってやってくれって、普通は逆だろ」

「僕ならいつでも大歓迎だよ」

「兄貴もふざけるなっ!」

「それはとてもいいわね! おばさんクレアちゃんと友達母子おやこやってみたいわ! うふふ、道歩いてて、お姉さんですか? いいえ義母ははで~すって言いたいわ」


 びっくりして目を剥くクレアとブライアンを尻目に今度は夫人のシシーまでが、ふわふわした笑みと声でより話をややこしくした。


「お袋も妄想に走ってるんじゃないっ!」


 ブライアンが厳しく突っ込んだが、シシーはどこ吹く風だ。


「ねっクレアちゃん、どうかしら?」


 胸の前で両手を柔らかに合わせて問いかけてくる。

 彼らの両親からの希望は学校の友人から言われる言葉とは重さが違う。

 クレアは初めて二人のどちらかと結婚する想像をした。

 結婚するならまずは恋人になって手を繋いだり、キスをしたり、時には甘い囁きで名前を呼ばれたりしてその先だって……。


「――っ」


 思考が凍結した。

 いや違う、沸騰かもしれない。

 どちらとの想像だったのか、青い瞳が甘く蕩けるのを思ったら心臓が大きく跳ねた。


(やだ、どうしよう、あたし、変っ!)


 おかしな感覚に耐え切れず、だからそれ以上を考えるのを中断する。突き詰めて考えてはいけない気がしたのだ。


「ええと、き、機会があれば……?」


 しどろもどろとまではいかないが、期待の目を向けてくるシシーへとクレアは控えめかつ曖昧な笑みを浮かべた。






 次の日の早朝、ウィンストン兄弟はウィーズを発ち彼らの学業へと戻っていった。

 二人とは夏期休暇までは会えない。

 昨日の食卓では伯爵達が本気か冗談かはさておき、話題は植物の話へとシフトしたのでクレアとしては助かったものだった。

 しかしクレアもブライアンもシシーも植物にはそこまで明るくなく、伯爵とニコラス二人の談義を静かに聞いていた。

 王都観光を一緒にするかは別として、ブライアンも帰郷を遅らせてクレアとニコラスと同じ列車で帰る話になった。

 王都で三人で食事をするのを想像すればクレアの心は弾んだ。

 それから、父親には王都行きを黙っていてほしいとも食卓の皆にお願いした。滞在しても精々数日だけの事で無用な心配をさせたくなかったのだ。


 クレアの周りではしばらくはいつも通りの日常が過ぎ、まもなく学生達の待ちに待った夏期休暇になる。

 その間ラクレア国内の人々は、隣国アルフォとの情勢がよりきな臭さを増していると噂した。実際に国境沿いの住人達は内陸へと避難してきているらしく、王国軍も国境配備の人数を増強していると各種新聞もそう報じていた。

 ウィンストン兄弟は二人共に王都にいるとは言え、やはり離れているのはクレアも心配だった。


(けどそれも結局は杞憂だったわね)


 夏期休暇に入り、列車を乗り継いで長時間揺られてクレアはようやく王都ラクレアに到着した。

 早朝にウィーズの町を出たのに今はもう夕方だ。

 列車を降り駅舎を出たすぐの所に立っていたニコラスへとクレアは歩き寄る。列車の到着時刻を知らせていたのだ。

 声をかける前に向こうもクレアに気付いて歩いてきた。

 彼の少し後ろにはブライアンも。


「二人ともお待たせ。迎えに来てくれてありがとう」


 これから三人でやや早めの夕食を食べに行く予定でいた。行き先はニコラスお勧めの店だ。駅から歩いて行ける場所にあるという。最低限の物だけを詰めたクレアの大きくはないトランク鞄をさりげなくブライアンが持ってくれた。二泊の予定だがもっと長くなっても大丈夫なようには少し多めに着替えを入れてあるのでそこそこ重いのを、ブライアンは軽そうに提げている。お礼を言うクレアはそんな彼をほんのちょっとだけ見つめてしまった。

 とても美味しい夕食だった。リーズナブルなところも良かった。別に王都に来たからとクレアは贅沢をしたいわけではない。ニコラスは言わずともそこも承知していての店チョイスだったに違いない。

 三人で最寄りのバス停まで歩く。ニコラスが先を歩きブライアンはクレアの横を歩いた。ブライアンはバスには乗らないが学生寮の方向と同じらしい。

 前方でニコラスが立ち止まったのがわかった。きっとそこがバス停なのだろう。


「ブライアン。とりあえず明後日ね」

「ああ。油断して変な男に付いてったりするなよ?」

「行かないわよっ。あたしを何歳だと」

「だから注意しろって言ってんの」

「何よそれ。……ふふーん? そんなにあたしが心配なんだ?」

「当然だろ」

「えっ」


 即答にクレアはドキリとした。


「そっそれってあたしに先に恋人ができたらって意味の心配よね」

「先?」

「あたしに先越されたら悔しいんでしょ~?」


 急にブライアンは押し黙った。


「ブライアン?」

「……誰かに先越されたら悔しいのは確かだけどな」

「え、何?」

「いや、先とか後とかじゃなくて、俺は同時がいい」

「同時……って?」


 変な対抗心だなと疑問に思ったものの、ブライアンの眼差しが思いの外真剣で疑問は霧散した。


(ど、どうしてそんな顔するの?)


 クレアは直前までの自分の考えはもしかしたら大きく間違っていたのかもしれないなんて思った。彼に見つめられて、どうしてかそわそわする。どんどん心拍数が上がってこれ以上はどうしようと焦った気分になった。夏の夜風が涼しく感じるのは頬が熱いせいだろうか。

 しかしどうして熱いのだろう、と掘り下げて考えようとした矢先。


「おーい二人共通行の邪魔になってるよー?」

「「あああすいませんすいません!」」


 二人はバス停のニコラスからの声に我に返ってあたふたした。そんな二人にニコラスは苦笑を浮かべつつ小さな溜息をつく。

 

「全く、もどかしいなあ……」


 呟きは二人には届かない。

 その後、互いを見送るようにしてブライアンと別れ、クレアはニコラスと王都では当たり前に走っている乗り合いバスに乗って宿泊先へと向かった。ブライアンは例によって走って学生寮まで戻るそうだ。

 彼とは明後日まで会わない。何でも、筆記試験の結果が思わしくなく補習を食らってしまったらしかった。明後日はだからまだ帰郷もできないが、一足先に地元に帰るクレア達の見送りには来てくれるそうだ。その気遣いは有難いがその時間を勉学に充ててさっさとレポート提出も含まれるという彼の補習を終わらせればいいのにと、一緒に帰れず残念に思うクレアは少しだけブライアンが小憎たらしく感じた。

 そんな事をつらつらと考えている目には王都の夜景が流れる。田舎町のウィーズと違いとても明るい。人々の装いもお洒落で都会的だ。


「ここで降りるよ、クレア」

「あ、うん。でもここって……?」


 バスは王都中心部へと向かう緩やかな坂を上った。そうして辿り着いたバス停でクレアは面食らっていた。バスの中でも途中からまさかとは薄々思ったがその通りだった。


 降りた場所は、輝かんばかりに白く眩しい城門だった。


 オネエパティシエの制服の白さなど比ではない輝きに目が痛い。

 ニコラスの説明によれば、丘の天辺に建てられた大きな王城は、軍人や商人、研究者など多くの人間が出入り可能な外城と、許可のない人間は入れない内城からなるらしい。

 内城は王族の居城であり、王の血に連なる者達はその豪華絢爛と謳われる内城で暮らしている。

 庭園や温室、国賓を持て成す迎賓館までが備わる内城は結構な面積があり、その敷地の周囲を厚く高い生垣でぐるりと囲われている。

 生垣だけでは心許ないと思われがちだが、侵入者撃退用の魔法が施されているそうだ。


 そしてその生垣を挟んで外側に建つ白い建物群が外城だ。


 屋根付きの回廊で繋がれた一応の棟続きではあるが、大きく東西南北四つの棟に分かれている。

 防犯上外城の外側には門と連なる高い城壁がそびえ立ち、王城と外界の境を明確にしていた。こちらは物理面だけで魔法的な警備は敷かれていないらしい。

 クレア達がいるのはそんな外城の正門前だ。そこではいかつい屈強な門衛が左右二人ずつの計四人、門の両側に堂々立って不審者に目を光らせている。おそらくは昼夜交代制でずっと。


「実は大学の研究室と王室の植物園が研究提携していてさ、外城の一室を自由に使っていいって貸してもらってるんだよ。まあそうは言っても用がない限り普段は滅多に使わないから、クレアに使ってもらおうと思ってね。掃除もきちんとされているしベッドもシャワーもあるし鍵付きだし、この通り安心だろう?」


 ニコラスお勧めなら心配はないと、事前に宿の詳細を聞いておかなかったのをクレアは少し後悔した。庶民感覚からすれば外城とはいえ国の中心たる建物に泊まるなんて恐れ多い。気後れする。


「それはそうかもしれないけど、本当に部外者に貸しちゃっていいの?」

「二泊だけだし上には内緒だから大丈夫。部屋だってたまには誰かに使われないとね。有効活用有効活用」

「……ホント兄様はマイペース」


(ま、まあ見方を変えればお金も掛からないし警備面も安心だしで、総合的に見ても願ったりの宿泊場所よね。怒られたら怒られたでその時はその時よ)


 ここまで来てぐだぐだ言っても仕方がないしと、すぐにクレアも腹を括った。


「そんなに緊張しないで大丈夫だよ」

「あのね兄様、臆さない方が無理な話でしょ。でも、申し分ない場所だし有難く使わせてもらうね」

「よかった。じゃあ入ろうか」


 ニコラスの先導で門を通る際、顔パスなのか門衛は彼を見て「どうぞお通り下さい」と敬礼した。

 門衛達はその他の通行者には敬礼なんてしていない。むしろ一人一人の身分確認をきっちり行っている。

 ニコラスは顔パスだが同行者の身分確認は必要で、クレアはウィズランド領発行の学生証を提示する必要があった。


「兄様って何気に各所で信望厚いわよね」

「いや、今のはたぶん僕にじゃないよ」

「どういう意味……?」


 どう見てもニコラスへの敬礼だった。


「たぶん僕をオーリ王子殿下だと勘違いしているんじゃないかな。よく似ているらしくてね。特に王城に来ると頻繁に間違われるから正直あまりここには来たくないんだよね。面倒だからもういちいち訂正もしてないし。だから実を言うとクレアに貸す部屋もほとんど使ってなくてさ」


 後ろめたさの欠片もなく苦笑するニコラスに、クレアの頬が引きった。

 これだから天然は、と心の片隅に慄きと呆れ、感心すら生じる。


(一国の王子に間違われたまま気にしないで王城に出入りするなんて、兄様ってやっぱり大物……)


 正門から入って最初に見える建物が南の外城らしく、大きなロータリーを横切って中に入ると赤い絨毯の敷かれた広い玄関ホールだった。そこから南外城の背骨とも言える中央廊下に出ると、その左右には幾つもの扉と曲がり角があった。

 中央廊下は弧を描くようにカーブし、廊下それ自体が長いため突き当たりは見えない。外城は基本的にどこもこんな感じなので似ていてややこしいからと絨毯の色や柄で東西南北を区別できるようにしたという。

 廊下脇の各部屋には便宜的な理由からだろう、見るからに高そうで重厚な木の扉に部屋番号を銘打った金属プレートが取り付けられている。本当にどこかの高級ホテルのようだった。


(飾られてる壺や絵とかも高価そうだし、さすがは王城。……部屋だけでも数百はありそうだし、この巨大さは毎日居るだけでいい運動になるわね。働くだけで健康促進なんて、さすがは王城……!)


 日々新聞に写真掲載される国王のみならず、高官達に肥満体の人間が少ない理由はこれか、とクレアは密かに感動した。

 国のトップ達自らが政府指針の「長寿大国たれ!」を実践しているとは素晴らしい……などと、友人との話題にも上らないそんな渋い意見を巡らせながらしばらく進んでいくと、足を止めたニコラスから「ここだよ」とある部屋に入室を促された。

 クレアは、扉の向こうの予想以上に清潔で質の良い光景に言葉もなく目を見開く。

 外城外装の白よりも控えめで、昼間の反射も目に優しいオフホワイトを基調としたシンプルな壁や天井。床は柔らかなブルーグレー色の絨毯。その上には淡い青地に金の装飾模様が施され落ち着いた風情の調度がしつらえられている。


 じっくりと室内を目で追い言葉を発しないクレアに、ニコラスは表情を確かめるように屈んで微かに笑った。


「どう? 気に入った?」

「うん、とても。凄く素敵な部屋……」

「そう言うと思った。僕も初めて見た時はどうしようかと思ったよ。下手に植物を持ち込んで土でも零して汚したら、弁償できるか不安になったかな」

「あー確かに」


 え、そっち?と思わなくもなかったクレアだが、その感情も理解できたので頷いておく。ニコラスがここをほとんど使っていない大きな理由はそこかもしれないとも思った。

 彼から鍵を受け取ったクレアは、その真鍮しんちゅう製の鍵の優美で凝ったデザインにも感心した。鍵一つを取っても住む世界が違うのだと実感させられる。


「じゃああとは一人で平気だよね? 南棟の管理人にだけは話は通してあるから、何か必要があれば管理人に言うんだよ。部屋の内線で繋がっているから」

「うん。わかったわ。ありがとう兄様。今日は至れり尽くせりね。明日もよろしくお願いします」


 ニコラスとは明日王都歩きをする予定でいる。ここには観光したくて来たと思わせている手前、不審を抱かれないようクレアは観光しないわけにはいかないのだ。それでも朝からではなく寝坊したいと昼過ぎからにしてもらった。

 ここに迎えに来ると言って去っていくニコラスの背中をクレアは笑顔で見送った。


「ふう、夕食が早めに済んでよかった」


 クレアは早速と部屋に引っ込むとトランク鞄を開けて財布などを別の小さな手鞄に詰め込み始めた。今から大事な用があるのだ。


「夜は長いようで短いのよ。のんびりしている暇はないんだから」


 広げた荷物は帰ってきてから片付けようと決め、クレアは小さな鞄を持って立ち上がると、側のテーブルに王都の地図や乗り合いバスなどの時刻表を広げた。


 夜のこれから彼女が一人で出掛ける先、そこは王都の魔法機関だ。


 魔法機関の本拠地は空中に浮かぶ大きく高いタワーだが、王都も含めた王国各地の地上にきちんと支店と呼べる建物があるのだ。それらを一般的に人々は魔法機関と認識している。魔法の役所的な存在だ。

 クレアが前以て調べたところによれば、魔力測定は年中無休かつ昼夜も問わず受けられる。ウィンストン兄弟に知られずに受けるには夜間に行くのがベスト。明日の観光を昼過ぎからにしてもらったのも、夜遅くまで掛かった場合を考慮してだった。


「場所は把握済みだから、ここからどうやって向かうかよね。とりあえずはバス停に兄様がいないのを確認しないと駄目だろうけど」


 支度していた間にとっくにバスが来て乗っていっている事を願うクレアだ。ここの誰かに夜の外出を咎められないといいとも願う。


 廊下に出て鍵をかけ、さあ行くぞと振り返った刹那だった。


 供を連れた一人の青年がクレアのすぐ前を横切った。


 彼女は一瞬ヒヤリとし、自身の緑瞳を大きく見開いた。


 何故なら、広い歩幅にやや長めの金髪をなびかせるその横顔は、ニコラスとよく似ていた。何かで戻って来た彼に見つかったかと思ったのだ。


 けれど、違う。


 決定的に。


 にわかに殺気を放つような険しい表情なんてニコラスはしない。

 しかも髪の毛だって彼よりも少し長い。

 危ぶみから転じたクレアの好奇心を孕んだ視線に気付いてか、相手が横目を向けてくる。


(あ、やっぱり別人。目の色が少し違う)


 音もないほんの僅かなときの視線と視線の邂逅。


 その瞬間だけ何故か相手の瞳から殺気がふっと息を潜め、どこか困惑と不可思議そうな色が滲み出た。

 けれど違和を感じたクレアが瞬く間に、すぐさま視線を前に戻し歩き去って行く。

 クレアの方も不躾ぶしつけに見つめているわけにもいかなかったので目線を外した。


(……びっくりだわ)


 本当にニコラスにとても良く似ていた。

 そしてここは外城とはいえ王城の一部。

 ニコラス本人も言っていたではないか、よく勘違いされる、と。

 以上を鑑みて答えを引き出せば、簡単に相手の正体がわかった。


「今のがきっと、オーリ王子殿下」


 小さく呟いたクレアはもう一度廊下の向こうに目をやったが、既に彼はどこかの角を曲がった後だった。

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