第3話 十六歳のバースデー

 学校を出て馬車がギリギリすれ違える石の敷かれた町道を歩くクレアは、放課後一人で町の図書館に通っている。馬ではなく燃料によって走る自動車は既にあったが、王都ならともかくこんな片田舎にはまだまだ浸透していない。


 彼女が図書館に通うわけ、それはこっそり魔法の勉強をするためだ。


 魔法学ならどこの学校でも基礎的な教科に組み込まれているが、クレアにはそれでは足りない。


 そもそも、クレアに限らずこの町の学生のような魔力の無い人間がどうして魔法理論を学ぶのか?


 答えは簡単、ラクレア王国では魔法使いではなくとも、魔法の知識を活用した助言者や専門家として様々な行事や計画立案、研究調査に携われるからだ。


 国家試験は超難関と言われるものの、実際その職に就く者は極一握りだが確実にいる。


 ――クレアの父親のように。


 故に魔法に関する事案を扱う外交官として国を跨いで仕事をしている。国家間での魔法関連の折衝を任されるケースも珍しくなく、そう言う場にはクレアの父親のような普通の人間で、尚且つ魔法に詳しい者が派遣されるのが慣例だった。

 下手に自国の魔法使いを遣わして、他国に寝返られたり拘束されたり連れ去られてしまうのを避けるためだ。

 一時代前までは国家の集まりの陰でそういう後ろ暗い事件も起きていたという。


 魔法外交官の娘がこっそり魔法の勉強をするなど、周りからすれば首を傾げられるかもしれないが、クレアは魔法学概論など教養として一般人が受ける魔法の講義以外、父親から魔法に関する一切の勉強を禁止されていたのだから仕方がない。


 母親の件もあって、父親は一人娘が必要以上に魔法に関わる事を酷く嫌っているのだ。


 それもあり、日常が魔法と近い王都を出たのかもしれない。

 クレアがちょっとでも魔法の話をすると父親は悲しげな顔をするから、そんな顔をさせたくなくて余計に魔法の話をする機会もなくなった。


(魔法の呪文を唱えたってペンの一つも浮かせられない魔力無しなんだから心配は要らないのに、ホント心配性よね)


 クレアに魔力はない。

 この国では生まれた子供の魔力の有無を調べる義務があり、国内中の子供は生後半年から一年ほどの間に国家が運営する機関で魔力の簡易検査を受ける。


 そこで魔力無し、一般人と判定されたのだから間違いない。


 魔力保持者の大半は魔法一族と言われる古い家系やそれに連なる家の出で、貴族も少なくない。

 クレアの母親もその手の貴族の生まれだ。

 一方、父親はしがない商人の息子で爵位とは全く縁がないんだとか。考えてみれば魔法外交官まで己の頭脳一つでのし上がった凄い男なのだ。

 だからと言うか何と言うかクレアの正直なところは、父親に倣い魔法知識を研鑽けんさんするくらい、いいじゃないかと思っている。


 反発と憧れを胸に、いつしかクレアは一人で学び始めた。


 父親を悲しませたくはないがクレアにも譲りたくないものがある。


(あたしは魔法を知りたい。魔法が何なのかを。今はまだ何も言えないけど、お父さんにいつか、きちんと言いたい。あたしは魔法が好きだって)


 ずっと小さい時から興味があった。

 それこそ母親が生きていた頃から密かに心の中で育まれた思いだ。


 ――きっと本来、この世界は素晴らしい魔法で満ち満ちているはずだから。


 朝の夕の空を見上げる時、星屑を探す時、揺れる野の花を見つめる時、川のせせらぎ、キラキラした光の反射、髪を浚う風、小鳥の囀り、大地の息吹を感じる時、クレアはそんな風に思うのだ。


 優れた魔法は、大量破壊魔法なんかじゃない。


 もっと心が痺れ震えわくわくするものだ。


 それはきっと失われた時の彼方に眠っている。


「ふふふふ、よっし今日も張り切って行くわよ!」


 歩いて到着した木造の小さな図書館の前で、クレアは欲望のままにんまりと唇を吊り上げた。





 過去の書物にはどこかに過去の魔法の手掛かりが眠っている。


 クレアはいつもその思いを胸に書物を紐解く。

 今はもう忘れ去られている魔法の多くには現代で役立つものが多々あるに違いなく、そして砂の中から遺跡を発掘するにも似た、史料を読み解いて魔法を再発見再構築する試みは世界各地で行われている。


 しかしながらどこもあまり芳しい成果は挙がっていない。


 昔の魔法使い達は一子相伝や口承で魔法を子孫へと残していたが、その唯一の後継者が死んだり、口承なので記録しておらず、あまつさえ記憶が薄れるなどして消えてしまった魔法がとても多いのだ。


 それでも残された魔法記述は決して皆無ではない。だからこそ探すのだ。


 今日も図書館で古書を開いて自分なりに当時の魔法陣の予測を立てるなどして有意義に放課後を過ごしたクレアは、閉館時間まで滞在すると帰路に就いた。

 夕刻の空はまだ明るく、夏の始まりを感じさせる爽やかさと生ぬるさが同居した風が通り過ぎていく。

 馬車が何とかすれ違える幅の石畳の通りは自分同様家路を急ぐ人影が行き交い、共にディナーでもするのか腕を組んだ若いカップルの姿も視界に入った。


「あの二人はきっと恋人同士よね。はあ……恋愛って一体何だろ」


 ふと、昼間の級友達との会話が甦る。

 恋とか愛とかは関係なく、ニコラスもブライアンも二人共大好きで大切だ。

 彼らだってクレアを大事に思ってくれているはずだ。


 その証拠に今年も二人はもうじきこの町に帰って来るだろう。


 ニコラスはウィンストン家の長男として幼少時より全寮制の寄宿学校に入り、今はそこを飛び級で卒業して王都にある王立大学の院生をやっている。

 弟のブライアンもブライアンでクレアの十四の誕生日のすぐ後に、こちらも王都の全寮制騎士学校に編入していた。

 普段二人は学校の正規の休暇以外では滅多に帰って来ない。

 けれど例外があった。

 二人はこの時期わざわざ休日を申請して帰って来るのだ。


 クレアのために。


 それぞれからは、昨年同様今年もクレアの誕生日に戻るという知らせが届いていた。


(二人共ホント優しいんだから。昔あたしがぼっちケーキ食べてたのが余程ショッキングだったのね)


 正直自分が王都に行けたらと思わなくもない。

 大事な学業時間を削ってくれる二人にクレアは申し訳なさと心からの感謝を抱いている。

 それでも二人を思い出したら待ち遠しくて足取りも軽くなり、思わずふふっと小さな笑みが零れた。


(久しぶりに会えるんだ。楽しみ!)


 揺れる赤薔薇色の髪は今日も艶やかに光を散らし、ウィンストン家の屋敷に向かう道すがら、クレアは終始上機嫌で鼻歌まで歌うのだった。





 とうとう待ちに待ったクレアの誕生日当日。


 木材と蜂蜜色の石材を巧く組み合わせて造られたウィンストン家の邸宅は、いつになくピカピカになる。

 丹念に磨かれたシャンデリアのガラスや屋敷内の窓。

 絨毯や調度は貴族のレベルから見ると高価でも華美でもないが、品の良い物を設えてあるので掃除をすれば一級品と見紛うばかり。

 もちろん普段から掃除はしているが、この日だけは皆余計に張り切って仕事に取り掛かるのが昨年からの取り決めとなっていた。

 クレアもこの日だけは寄り道はせず学校から戻るや、皆を手伝って広い玄関ホールの床に敷かれた白大理石を入念にモップ掛けした。

 この小さな町の貴族屋敷では一応の身分差はあれど、主人一家だって使用人と一緒に仕事をする。


(王都では考えられない光景よね)


 そういう部分も含め、だからこそクレアはこの家が大好きだ。

 皆で掃除と飾り付けを終えて準備万端になった夜。


「おめでとうクレア」

「ありがとうニック兄様」


 大学の関係で遅れるかもしれないと前もって連絡は入っていたものの、ニコラスは何とか晩餐には間に合った。

 彼は伯爵夫妻と共に白いテーブルクロスを掛けられた円卓に着き、コックが腕によりをかけた料理や街の例の焼き菓子店に注文したケーキを前に、クレアへと微笑む。


「うっイケメン光が眩しいわ。兄様ったらまた更にモテレベルを上げたわね?」

「ええ、何それ?」


 ハッキリ言って久しぶりに会ったニコラスは優しい兄のままだが、その輝くような美貌と優雅さは確実に増していた。

 金髪は少し襟足部分を伸ばしたのか、ラクレア国の今時を行っている。


「これに白衣ってまさにラスボス級ね。学校の皆なんてイチコロよ」


 予定の列車に間に合わない、と大学を余程急いで出て来たらしく、彼はここへの帰宅時は薄手の上着の下に白衣を重ねていた。


「ラスボス……? もう着替えたけど白衣がどうかしたの?」

「白衣の天使は男性だけの萌えポイントじゃないのよ。プラスで眼鏡なんか掛けたら女子にも十分需要があるのよ。兄様は眼鏡掛けないの?」

「いや別に視力落ちてないし。本当に何の話? 医療関係?」


 会う度に素敵になっていく貴公子幼馴染みに、クレアは自慢の兄を持った妹の気持ちとはこういうものかもしれないと思う。

 社交界にひと度出れば注目の的のニコラスはけれど、必要以上にはそういった場に出ない。

 地位の向上や領地の拡大を望まず現状維持を良しとする伯爵に似て、のんびりしている彼らしかった。

 大学院での専攻も植物学と、庭いじり好きな父親と方向性もそっくりだ。


「ふふっクレアは相変わらずだね」

「ほほほお褒めにあずかり光栄です」


 気の置けない二人の会話を伯爵夫妻も周囲に控えた使用人達も表情穏やかに見守っている。

 誕生日の贈り物はあらかじめ断っていた。


 クレアにとってはこの場を設けてくれる気持ちこそが贈り物。


 それだけで十分なのだ。






「おじさんは来られなくて残念だったね」

「うん。でも急に外せない仕事が入ったって言うし、仕方がないわ。電話で声だけでも聞けて良かったって思わなきゃね」


 クレアの父親は帰ると言っていた。今年は彼自らプレゼントを持って。

 けれどドタキャンは珍しくない。

 プレゼントはおそらく後日届けられるだろう。これまでと同じく。

 今年の中身はきっと装飾品だ。

 昔から四年ごとに、クレアは護身魔法のかけられた首飾りを贈られる。有効期限は四年程だそうなので前回は十二歳、その前は八歳にもらった。魔法の込められた綺麗な宝石の首飾りで、宝石としての価値もある。更にはその都度デザインは異なるが使われる石は全てエメラルドだった。


 護身用なので常に身に着けないと意味がなく、父親からもそうするように言われていたので、現在もしているクレア的にはファッションとしてのアクセサリーだとは余り認識していない。


 御守りに近かった。


 父親の今日の不在の詳細は知らないが、どうも外交に関わる危急の案件が発生したらしい。

 もしも隣国アルフォとの関係悪化が加速したのなら事は深刻だ。


「お父さんが居ないのはもう慣れっこだし、平気平気」


 折角の晩餐なのに皆に気を遣わせては申し訳ないと、場の空気が俄かに沈む前にクレアは努めて明るく振る舞った。


「クレア、無理して慣れっこだなんて言わないで? 寂しさに慣れたら駄目だよ」


 それでも隣の席のニコラスが真面目な顔で窘めてくれるから、クレアは思いやりに慰められた。


「おじさんの代わりにはなれないけど、クレアが少しでも寂しさを忘れていられるなら、王都から僕がいつでも電話を掛けるよ。何なら誕生日じゃない日おめでとうって毎日掛けるけど、いいかな?」

「それはなしで!!」

「え、どうして?」


 キョトンとするニコラスにクレアは頭を抱えたい衝動に駆られた。

 昔から、彼には悪気なく冗談みたいな思い付きを実行する癖がある。

 ある意味兄貴は最凶だ、とはブライアンがいつだったか言っていた言葉だ。


「ニック兄様は相変わらず突飛よね」

「突飛? どこら辺が?」

「いやもう何でもない。とにかく兄様の優しさは身に沁みてよくわかったから、だから――ありがとう」


 クレアがようやく心から笑むとニコラスも安堵したように破顔した。

 空気も和み、皆に祝ってもらったクレアの十六の誕生会はつつがなく終わった。


(ブライアンは結局間に合わなかったなあ)


 クレアの隣の席のもう一つは終始空いたままだった。


 幸福感と満腹感、そして少しだけ我が儘な残念の気持ちを抱え自室への階段を上る。

 部屋は屋敷の三階にある。

 父親の不在は別として、今年余計に寂しさを感じるのはブライアンがいないからだろう。

 彼はまだ帰ってさえいない。

 成績に関わる模擬試合を終えてから帰るという話だったが、きっと予定がずれ込んでしまったのだ。

 予定の列車に乗れなければ明日の列車になるか、もしかしたら今年は帰って来られないかもしれない。

 優先すべきは学業なのだし責める気持ちは全くないが、どうしても気分が落ち込んでしまうクレアだ。


「せっかくこの髪飾り付けたのに」


 自室の鏡台前に腰を落ち着けた彼女は、青い薔薇の髪飾りに手を添えて眉尻を下げた。


 伯爵夫人のシシーと彼女の知人のお茶会に同行する時、友人の誕生会に招待された時、何か少しでも特別な日、クレアはいつもこれを付ける。


「まあでも会える機会は今日だけじゃないんだしね」


 直近だと夏の長期休暇がある。

 その時はきっと帰って来るだろう。

 鏡の中の髪飾りを付けた自分を見つめ、落ち込むなと声を掛けた。

 気持ちの整理を付けて本日の役目は終わりと頭から外し、アクセサリーを入れる小箱に仕舞う前に、クレアは改めて手の中のそれを見下ろした。


「これをもらった時ってば……」


 ケーキ店前での騒動を思い出し、くすりと一人笑ってしまった。

 どうしてか彼を思い出せば心がほかほかと温かくなる。同時に少し引っ掻いたみたいにも。

 結局、どう自分を慰めようと早く会いたいものは早く会いたいのだとクレアは認める。ブライアンとは姉弟きょうだいみたいなものなのだ。ただし兄妹きょうだいではない。


「ホントに、一体どんな顔して選んでくれたのかな。見てみたかったかも」


 その時の彼を想像するだけで、愛しい、と思った。

 こんな風に既にあった親愛を意識するのは初めてで、クレアは少し照れ臭い気がした。

 刹那、エメラルドの首飾りからピシリと音がして宝石にヒビが入ったのがわかった。


 砕け散りはしなかったが、本当なら今日新しい物になって古い物は宝石箱に眠るはずだったのが壊れてしまった。新しい物が届くまであと少しの付き合いだとクレア自身でも思っていた矢先だった。


 しかし彼女はそれに驚いている暇はなかった。

 心臓がドクンと大きく跳ねる。


「え……?」


 何故なら、自分を中心に黄金に輝く円時計が現れたのだ。


 床と平行な平面上に展開し、Ⅰ~ⅩⅡまでの数字一つ、時計の針一つ取っても、デザインは蔓バラのような複雑な曲線が絡まり合った緻密なものだ。

 そしてそれはクレアの知識の範疇はんちゅうでは「魔法陣」と呼ぶに値するものだった。


「なっ……にこれ!?」


 呆然として見ていることしか出来ず、その間に黄金の燐光を放つ秒針が音もなく逆回転し始める。

 次いで長針、最後に短針の順で時計が逆の時を刻み出し、息を呑む間もなく部屋の景色が上昇を始めた。

 まるで周囲の景色がグラスから溢れる水になり、その水を逆立ちして見ているような、奇妙な光景だった。


「な……に!? 何何何っ……!?」


 上昇が速まり、思わず息も出来ない錯覚に襲われ声にならない悲鳴と共にぎゅっと目を瞑った。


 ――この世で一番尊くて恐ろしい魔法は何だと思う?

 ――それはね……。


 抱きしめられるように母親の声が聞こえた気がして、クレアはハッと目を見開いた。


「……え?」


 その瞬間、気付けば自室からどこかの店の中へと周囲が変化していた。

 不思議と恐怖はなかったが、極度の困惑にしばし呆然としていたせいか、周りの音が耳に入ってきているのに気付くのが遅れ、その気付きにビクリと驚いてしまった。


「わっ? えっとこれ、現実なの?」


 クレアの目に映る窓の外には道を行き交う人々がいて、店内にも幾人かのお客がいて品物を選んでいる。


「ここって、町の雑貨屋よね」


 クレアもたまに買い物をする店だ。


「まさかテレポート?」


 魔法ならそんな物理的概念を無視した芸当も可能だろうが、残念ながらクレアに心得はない。

 自分に悪戯や嫌がらせで魔法を行使しそうな魔法使いの親戚達とは母親亡き現在ではもう絶縁も同然なのでその線はない。

 時間帯だって異なる。直前までは夜だったのに、周囲は何故か昼だ。

 息を呑んだクレアがどうしたもんかと途方に暮れて立ち尽くしていると、一人の新たなお客が店に入ってきた。


「は!?」


 クレアはこの上ない驚きに目を見開いて素っ頓狂な声を上げた。


 入ってきたのは何とブライアンだったのだ。


 何故彼がここに……という疑問は全く浮かばなかった。

 浮かんだのは……。


「え、ど、どうして小さいの……!?」


 数年巻き戻したような姿にクレアは卒倒寸前だ。

 他人の空似ではない。

 紛れもなく本人だ。


 過去のブライアンとは言えクレアが見間違うはずがないのだ。


 彼はクレアに気付かないまま、どこか恥ずかしそうに来慣れない店内を壁に沿って見て回っている。主に女性客がターゲットの店なので居心地が悪くて当然だろう。

 何かを探しているのか天井から吊り下げられた種別の案内プレートと交互に棚の品を眺めながらこちらへと近付いて来る。


(わっ、どうしよ見つかる!)


 クレアは慌てた。


(だだだけどこれって何? もしかしてあたし過去に飛ばされたの?)


 しかし時に関わる魔法は極めて高度な魔法だ。数も少ない。


(それ以前に体ごと過去に行ける魔法なんてあったっけ?)


 混乱しつつクレアは自分の居る場所が髪留めなどのヘアアクセサリーのコーナーだと気付いた。

 そしてふと見つけた物に再度の驚きを禁じ得なかった。


 ――青い薔薇の髪飾り。


 クレアが今手に持つそれと同じ物がすぐ目と鼻の先に置いてある。


(もしかしてこれって量産品? ……でもこのお店って店主やその道のプロが作った一点ものだってのが売りだったはずだけど)


 すぐ傍に気配を感じ、クレアはハッとして振り返った。


「あ――…」


 ブライアンと目が合った。

 彼はよく知った青色の瞳で真っ直ぐにこちらを見つめている。

 クレアは大いに焦り動揺して肩を硬直させたが、ブライアンは彼女を見ても何の反応も見せなかった。

 どころかどんどんこちらへと距離を詰めてくる。

 逃げ道を探すように左右を見てわたわたするクレアにお構いなしに、やや手前で立ち止まって瞳をきらりと輝かせたかと思うと、彼は躊躇なくクレアの正面に迫って来た。


「あの、ブライア――」


 クレアの声が引きったように途切れた。


 すり抜けたのだ、ブライアンが、彼の体が。


(違う……違うわ。すり抜けたのはあたしの方)


 ぶつかりもせず背後に進んだブライアンを振り返れば、彼は例の髪飾りを手にとってめつすがめつしているではないか。その顔には年相応の照れのようなものと品定めしている人間特有の真剣さと迷いの色が見て取れた。

 青薔薇を手に他の品と見比べるブライアンの、結構な時間を費やし迷っている様を見かねたのか、店主のスキンヘッドの男性が寄って来た。


「お客さん、どうしました?」

「あ、おっちゃん。いやさーこれなんだけど、女子が喜ぶと思う?」

「お? これはこれは伯爵様んとこの下の坊っちゃんじゃないか。何だいカノジョにかい? ああ、少し紫にも近い青だから赤髪に付けたらキレイに見えるだろうよ」

「だっ!? はっ!? べべっ別に赤髪だなんて言ってないだろ。それにカノジョとかじゃないしっ」

「ハハハそうかい? だがまあこれは赤い髪にならぴったり似合う品だよ。まあ気に入らないなら他のを探してもいいがな?」

「いっいや、これにする!」

「毎度あり~」


 そうしてどこか嬉しそうな満足顔で会計を済ませると彼は店から出て行った。

 結局店主もクレアの存在に意識を向けることはなかった。

 しばらくそのまま無言で佇んでいたクレアは、徐に手の中の髪飾りに目を落とす。


「――これって、本当に過去にあった出来事なんだわ」


 目の前に広がっている光景はブライアンが髪飾りを買った時そのものなのだ。


 でも何故この場面を見ているのかと考えて、直感する。


「もしかしてさっきあたしが見たいって思ったから……?」


 すると正解とでも言うように周囲が上端から黄金の粒子に変わっていく。

 視界一杯に金色の粒子が溢れ、眩しくて目を開けていられなくなった。

 そして、光が去って視力と意識が追い付いた時には、自分は変わらず部屋の鏡台前に座っていた。

 鏡の中の自分が目を丸くする。


「戻った……?」


 これは、魔法だろうか。

 いや、魔法以外の何物でもないだろうと、そう思う。


「でも、あたしには魔力がないはず」


 試しに棚から蝋燭ろうそくを取り出して、巷に知られている数少ない着火の汎用魔法呪文を唱えてみる。


「あー、こほん。――炎よほむらよ我が魔力を糧にその姿をここに現せ」


 これは魔法使いならほぼ誰でも魔法陣もなしに唱えれば使える魔法だ。


 しかしいくら待っても部屋の中は依然としてしーんと静まり返ったまま、蝋燭には何の変化も起きなかった。


「そ、そうよね、燃えるわけないか」


 やはり魔力はゼロらしい。


「いきなり魔法使いになるわけないよねー。それにこの首飾りも何でだか壊れたし、もしかして今日のあたしの運勢ってば散々じゃない? むしろ御守り的な首飾りが壊れたんだし、不吉? お父さんから新しいの早く届くといいけど」


 元気を出そうと半分冗談交じりに笑いつつ首飾りは外して仕舞った。そうしてまた鏡台の自分を覗き込む。今の幻覚は何なのだと不安を感じていると、コンコンコンと部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。





 やや急いたようなノック音に、さほど遅い時間ではないが誰だろうとクレアが部屋の扉を開けると、そこにいたのは腰のベルトできちんと締めた黒い軍服のような服を着た久しぶりの相手。

 少し息を切らしているので走って来たのだろうか。


「ブライアン!?」


 見た瞬間、クレアは視界が明るく鮮やかに華やいだように感じた。


「晩餐に間に合わなくて悪い。さっき着いたんだけど駅からここまで馬車が捕まらなくて、大きい荷物は駅に預けて走って来た」

「ええっずっと走って来たの!? 駅って確かこの町の端っこだったわよね。結構距離あるのにそんな無茶して大丈夫なの?」

「ああ全然平気平気、学校じゃもっと走るし普通だって」


(絶対普通じゃないっ)


 この屋敷はその駅とは反対側の町の端に位置しているのだ。しかもここは隣家との間隔もゆったりした田舎なので人口規模では小さな町でも土地の規模では大きい。運動が割と得意なクレアが走っても最終で降りてこの時間に屋敷までは辿り着けない。

 クレアの中にある騎士学校への印象がやや筋肉バカに傾いた。

 彼女が称賛と呆れ半々という複雑な心境でいると、黒髪の少年ブライアンは予想外の行動に出た。


「とにかくごめん!」


 彼は何と頭を下げ真摯しんしに謝罪してきたのだ。

 まさか謝られるとは思いもしなかったクレアは面食らいながらも何とか横に首を振る。


「あっ謝らないでよ。こうやってわざわざ挨拶しに顔出してくれたからチャラよ」


(それにしても、あのブライアンが素直に、ホント素直に謝った……! 騎士学校って凄い所ね!)


 直前までの不可解な出来事を後回しにしてしまうくらい、クレアの衝撃は大きかった。


「そ、それにその前に言うことがあるんじゃない?」

「言うこと?」


 当惑するブライアンへ、クレアはちょっと文句を言いたくなった。けれど我慢する。

 これは自分から言うしかなさそうだ。


「――おかえりなさい、ブライアン」


 ああ、と彼はここに来てやっと合点がいったような顔をした。


「ただいま、クレア」


 久しぶりの彼の声には少し照れの色も滲んでいた。


「あ、そうだこれやるよ」


 ここでブライアンが差し出したのは、綺麗に包装された箱だ。


「えっ何で、プレゼントは用意しないでって言ったじゃない」

「違う。これは土産だよ。王都の菓子店のやつ。時間なくてお勧めポップ付いたやつ買ったけど、人気店らしいからそこそこ味はいけると思う」

「お土産……いいの?」

「ああ、クレア甘い物大好きだろ」

「……ありがと」


 素直に受け取るクレアは、お菓子の箱とブライアンとを交互に見る。


「手土産なんてあなたも大人になったわよね。ケチ臭さが抜けたって言うか何と言うか」

「……喧嘩売ってるのかよ」


(ふふっ、これどこのお店だろ。王都って美味しいお店いっぱいあるし)


 箱を手に、クレアがそれに捺されているだろう店のスタンプを確認しようと考えた時、金色の時計魔法陣が出現し逆回転を始めた。


(あ――……)


 周囲が再び一気に水底に沈むように、視界が一変する。


 見知らぬ店の中、美味しそうでカラフルな幾種類もの菓子が整然と木枠のガラスケースに入れられている。店内中央の平台に目立つように平積みされているのはクレアがもらった箱と全く同じ物だった。


(――まっまたこれ!?)


 周囲をぐるりと見回せば壁に店名の文字列が見える。


「ダニー&シェリー……?」


 店の奥と会計カウンターにそれぞれエプロン姿の男女がいる。きっと切り盛りしている二人の名を冠した店だろうとクレアは直感した。そういう命名方法は然して珍しくない。

 放心気味に見ていると、入口から今と変わらないブライアンが入って来て……。


「――そう、その店で買ったんだよ。よくわかったな……って箱に印字してあったか」

「えっ?」


 映像の中のブライアンは喋っていない。

 じゃあどこから……とキョロキョロ周囲を見回した刹那、瞬間的に金の燐光が炸裂して視界が現実に戻っていた。

 瞬きを繰り返すと目の前に立つブライアンは不思議そうに眉を寄せた。

 どうやら自分は不思議な光景下で判明した店の名を、意識だけではなく声にまで出していたらしい。

 そしてその声がブライアンにはしっかりと聞こえていたようだ。


「ボーッとして、どうかしたのか?」


(ボーッと? あたしが?)


「えっとあの、あなたは今変な景色が見えたりしなかった? たとえば金色の魔法陣とかこれを買ったお店の風景とか」

「何だそりゃ?」


 逆に不可解そうに問われ、クレアは怖気付いて言葉の続きを諦めた。

 急に変な事を言い出したようにしか見えないだろうからだ。


「何でもない何でもない。たっ立ち話も何だし入ったら? 走って来たんだし休憩必要でしょ?」


 誤魔化し笑いを貼り付けるクレアは扉口から避けて促した。


「あ、いや、それは何と言うかだな……」

「もしかして長旅で疲れててもう休みたい? だったら無理言っちゃ駄目よね」

「いや別に疲れはないけど、夜だしな……」

「夜だとどうかするの? まだそんなに遅くないし全然寝る時間じゃないから平気よ? 時間を遠慮してるなら気にしなくていいわよ。あッそれとももしかして夕食まだだった!? お腹空いてるなら引き留めてごめん!」

「いや、適当に買って列車の中で食べてきたから」

「そ? なら騎士学校は就寝時間が早いの? だからもうそっちが眠くなる時間とか?」

「いや、そうじゃなくて……」


 どうにも歯切れの悪いブライアンにクレアは業を煮やして、腕を掴むと部屋の中に引っ張り込んだ。


「ちょっ!?」

「もう、何か知らないけどとっとと座って」


 部屋のソファに強引にブライアンを押し込むと、見下ろす形のクレアはふうと息をついた。


「久しぶりに顔を見ておじ様小おば様も凄く喜んでくれたでしょ。ニック兄様も」

「あー……ええと、実はまだ他の皆には会ってない」

「はあっ? ちょっとブライアンあなた何してんのよ。あたしのとこじゃなくてまずは先に行くべき場所があるでしょ!」


 思わず責めると、彼はどことなく拗ねたような仏頂面で小さく呟く。


「んなに怒んなよ。せっかく一番に顔見に来たってのに」

「へ?」


 一番に。


 クレアは呆れと腹立ちが薄れていくのを感じた。

 彼はクレアを一番に考えてくれたのだ。

 クレア自身が思っている以上に、きっとクレアを大事な友人としてくれている。


「それは、うんまあ、ありがと」


 こそばゆくてクレアは向かいに着席すると頷くように返していた。にやけそうになる口元を両手で揉むようにして押さえる。


(今って初夏なのに真夏みたいにやけに暑いわよね。しかも冬の休暇以来のブライアンはまた一段と背が伸びて逞しくなった気がするし)


 見ない間の変化を感じるならニコラスもそうだったけれど、優雅さが表立っている王子様キャラのニコラスは、弟と違って逞しさと言う観点からの変化は受けなかった。そもそも学問を専攻する彼は鍛え方も標準だろう。


 ブライアンは騎士学校という一流の武人養成所の授業内容に鍛えられ、今や立ち姿だけでもなるほど騎士の卵だと思わせる。


 もう見た目だって少年というよりは青年に近い。


 クレアが確実に成長している相手を勝手な感想と共に眺めていると、当のブライアンはやや居心地の悪そうな顔になった。


「……クレア、顔合わせて早々筋肉具合を観察すんのやめろって」

「あ、ごめんごめん、つい。でもまあバレたついでにちょっと上腕とか触ってもいい?」

「…………」


 彼の上腕を指先でつついてみたくなったクレアは、淑女らしからぬ言動で困らせた。

 日々クレアは魔法に関する事柄に興味が湧く。

 男女の魔法使いの違いについてもよく考える。

 体つきの違いが魔法に差異を生むのか否か、クレアは自分なりに突きつめてみたいなんても思う。なので魔法が使えずとも自分とは異なる男性であるブライアンの肉体は、学術的には当然興味の対象なのだ。


「自分にないものを求めるのは探究者の性よね」


 真剣極まる眼差しで独り言をぶつぶつ呟く幼馴染みを、何だか呆れたように見るブライアンはボソリと一言。


「ホント恥じらいも遠慮もないよな……」


 拒否されなかったので近付いて隣に腰かけ、感心しきりに筋肉を堪能したクレアはハタと気付く。


「あ、ごめんそうだお茶か何か淹れる?」

「……いらねー」


 今更だからか、若干投げやりにブライアンが言った。


「お前さ、兄貴とか他の奴にもこんな風にしてんの?」

「まさか。痴女かって正気を疑われるような真似他の人にするわけないでしょ。それに失礼じゃない」

「……俺はいいのかよ」

「え? うーん、今更でしょ」

「……そうかよ、ああそうかよ」


 何がどう転がったらこんな可笑しな気安い関係になれるのだろうかと、この時ブライアンが深く自問自答したことをクレアは知らない。

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