第百三世 死蝋削り

 地下の構造は思ったより複雑なものでは無く、時々通路の脇にドアの無い小部屋があったものの物置のようになっているだけで先は無く、時々何かに躓きながら通路を進むとやがて一番奥にある部屋の扉の前へと辿り着いた。

 もう何度も会っている筈なのに状況が違うせいか緊張で胸の鼓動が激しくなってきた……静かな地下では生唾を飲み込む音すら響く気がする、いつまでもこうしている訳にはいかないと覚悟を決めると扉に手を伸ばし、数度手の甲をぶつけた。


「……マスター?」


 ああ良かった……待ち望んでいた彼女の声を聞いた瞬間安心感が全身を包み込み、肩に張っていた力が抜けるのを感じる。


「いや、俺だよフィル」


「……エッ? ちょ、ちょっと待っていてくだサイ!」


 部屋の奥から何やら焦った声と共に急いで何かを片付けるかのようなドタバタとした音が響き、やがて静かになったかと思うと部屋の扉が僅かに開いて部屋の主が扉の隙間から顔を覗かせた。


「に、人間サン……? どうしてここガ……鍵がかかっていた筈でハ?」


灰飾かいりさんに鍵を借りて来たんだ、それより……あの火の事聞いたよ、体の調子はどう?」


「……アア、なるほど……そこは寒いでショウ、こちらへどうぞ?」


 預かった鍵を懐から取り出して揺らして見せるとどうやら納得して貰えたようだ、扉の隙間から離れたフィルを追いかけるように扉を開き体を部屋の中へと滑り込ませた。

 部屋の中はここまでに見た他の物置部屋とそう変わらない広さの小さな石造りの部屋だった、四隅には吊り下げられたランタンの中で火が揺らめき部屋中に敷き詰められた毛布には血のような黒ずんだシミも見える……お世辞にも清潔的とは言えないその部屋の中で彼女は裸足のまま滑らかな生地で出来たローブを羽織り、椅子にも座らず部屋の隅の暗がりに腰をおろしていた。


「体、良くなったんデスね……良かった」


「お陰様でね、もうすっかり良くなったよ」


 フィルの近くに行こうとするが靴で毛布を踏むのを躊躇い靴を脱ぐ事にした、厚めの毛布のお陰で石の床の冷たさは殆ど感じない。

 彼女のすぐ近くまで移動し腰をおろすとローブで少し顔を隠されてしまった、目隠しのせいでぼんやりとした輪郭しか見えないがその様子から見るに再生はまだ間に合っていないようだ。


「ア……その布、マスターが?」


「うん、暗い通路もお陰でここまで辿り着けたよ……ぼんやりとしか見えないけど」


 一瞬躊躇うような様子を見せたがゆっくりとローブから顔を出したフィルが俺の顔を覗き込むように近付いてきた、彼女のいる位置も体の形も分かるがサーモグラフィで見ているかのようで細かい所までは分からない、だがどうやら安心してもらえたようだ。

 視界を確かめるように目の前で手を振る彼女にこちらも手を振って答えると、ようやく彼女の雰囲気が少し和らいだ。


「フィル、今回の事は本当に……」


 ごめん、そう言おうとした口が寸前で止まってしまった。

 俺は皆に謝罪しようと思っているが、でもそれは本当に正しいのだろうか? 勿論無茶をした事については謝るべきだ、それは間違いない。

 息を吐き出しながら自分の考えをまとめる、今真っ先に彼女に伝えたい気持ち……それは――。


「……ありがとうフィル、君のお陰で俺は今こうして生きていられる」


 俺の言葉を受けてフィルの背筋が少し伸び、少し顔を逸らすと手で口元を覆い体を震わせ始めた。


「い、え……ぐすっ……本当に無事で良かった……デス」


 何度も目元を拭う彼女を見ている内に自然と笑みが浮かんでいた、フィルが落ち着くのを待ってから俺が目覚めてからの事や様々な事を話した、時には身振り手振りを加えながらおどけて話すとこっちが嬉しくなるくらい彼女はケラケラと笑ってくれ、その過程でやはり頭突きはやりすぎだと叱られたのでそこで初めて謝った。


「そういえば……あの日からずっとここに?」


「ハイ、体が崩れ出したのが分かったので急いでここに……溶けた皮膚や肉が張り付くので服も着れませんからネ。必要な物はマスターが……そうデス、お薬ありがとうございまシタ! お陰で再生速度も上がって昨日ようやく喋れるようになりまシタ、体も殆ど出来上がっているのでもうすぐ外に出られますヨ」


「それは良かった、早く戻って来てくれないとフィルの料理が恋しくて発作を起こしそうだったんだ」


「ふふっ……ハイ! また美味しい料理、沢山作りますネ!」


 満面の笑顔を浮かべるフィルに笑顔で返し、何ともなしに部屋を見回す……殆ど何も無い部屋だ、ここで過ごすとなれば色々と不都合が出るのではないだろうか?


「フィル、何かして欲しい事とか……欲しい物とか無い? 俺に出来る事なら何でもするよ」


「して欲しい事……デスか」


 普段であればすぐに何もないと言う遠慮がちな彼女が珍しく少し考え込んでいるという事は何かあるのだろう、更に力強く頷いて見せるとおずおずといった様子で言葉を切り出した。


「デハ……そこの机の引き出しに入っているものを取り出してもらえマスか?」


「いいけど、机……?」


 そんなものあっただろうか? 不思議に思いながらも部屋を見回すと……あった、木箱に隠れて見えづらいが小さな机と椅子が部屋の隅に置いてある。

 立ち上がり机の近くまで移動して引き出しを引っ張ると何の抵抗も無く開いた引き出しの中に一本のナイフが入っていた、他には何も無いようなのでそれを取り出しランタンの明かりに照らしてみると古い物には見えないが刃の部分に白く固まった油のようなものが付着している。


「ナイフしか無いけど……これ?」


「ハイ、それです」


 こんなもの、何に使うのだろう……? 首を傾げながらもナイフを握ったまま引き出しを戻して再びフィルの近くに腰掛けナイフを差し出す、が彼女は手を振ってそれを拒み代わりに自らの片腕を伸ばしてこちらに差し出した。


「えっと……?」


「ワタシの腕、触ってみてもらえマスか?」


「え……触っても平気なの?」


「ハイ、その方が分かると思うのデ」


 ナイフを持ったままフィルの考えが読めずオロオロしてしまう、言われるがままにナイフを握っていない方の手を差し出された腕に伸ばし指先から肩の方へとゆっくりと触っていく……ひんやりとしているが手触りの良い肌だ、これで何が分かると言うのだろうか?


「……ん? これは……?」


 フィルの腕をなぞっていた手のひらに違和感を感じその箇所へと手を戻す、何かツルツルとしたものがこびりついているかのような感覚だ。


「それは、死蝋デス」


「しろう……?」


「ハイ、ワタシ達アンデッドが腐敗と再生を繰り返す事はご存じデスよね? その中でもワタシのようにネクロマンサー……つまりはマスターからの寵愛を受けているアンデッドは腐敗から再生する際の副産物として肉体が徐々に蝋化して死蝋という貴重な素材を作り出すんデス、ですがワタシからすれば見栄えも悪いし動きにくくなるしで良い事が無く……デスのでそのナイフで死蝋を削り取って欲しいんデス」


「で、でもこんなのでやったら肉ごと削っちゃうんじゃ……?」


「それで構いませんヨ?その程度の傷であれバすぐに再生しますし、いつもはマスターにしてもらうのですが、マスターも普通に肉ごと削ぎ落してマスしね」


 何でもない事のように話すフィルに呆気にとられてしまった、ナイフで……これを? 何でもすると言った手前断る訳にはいかないが、さすがにこれは想定外だ。


「つまり……こういう事?」


 ナイフを持つ手をフィルの腕の上で浮かし刃の部分のみを前後に動かしてみせる、それを見た彼女が大きく頷く。


「そうデス、上手いじゃないデスか! 時々固い部分があるのでその時は背の部分で叩くと砕けて取りやすくなりますヨ、全然痛くないので私の事は気にしないで大丈夫デス」


 そうは言っても包丁すら大して使えない俺に出来るのだろうか?……だが、それがフィルからのお願いだと言うのであればやらない訳にはいかないだろう。

 深呼吸しナイフを持つ手が震えないようしっかりと掴み、少し斜めに構えた刃で髭を剃るように蝋の部分を擦る……すると貼り付いてはいるが思っていたよりも死蝋はあっさりと崩れ、ポロポロと床に落ちた。


「……い、痛くない?」


「全然デスよ! マスターより上手かもしれまセン、ふふっ!」


 とうとう鼻歌まで歌い出してしまった、本当に平気なようだ。

 そこからは同じ作業の繰り返しだった、空いた手で腕全体をまさぐり気になった部分を見つけては蝋をこそぎ落とす、そしてまた蝋が無いか探す……次第に気がつけば俺の中にちょっと楽しいかもしれないという感情が生まれていた。


「……何だか、ちょっと変な感じがしマス」


「え、やっぱり痛かった?」


「イエ、そうではなく……なんというか、くすぐったいような……なんでしょう、よく分からないデス……」


 逆の腕も終わろうかという辺りでフィルがぼそりと呟いた、そういえば少し前から鼻歌も止まっている。


「痛くないならいいけど……よし、腕はこれで終わりかな……ちなみに蝋化したのって腕だけ?」


「……イエ」


 正直少し物足りないとすら思っていた俺の目の前で、フィルは立ち上がると両手でローブの腰辺りに結ばれていた紐を解いて左右に開き、奥に隠されていた肉体を露わにした……胸や腰辺りに布が巻かれているとはいえ殆ど裸に近いその姿に思わず目が吸い込まれてしまう。


「えっ……!」


「普段は手首や腕だけなんデスけど……今回は全身を再生したせいか体にも蝋が現れて……」


 フィルのローブの端を掴む両手が僅かに震えている、やはり困っているとはいえ恥ずかしいのだろう……ここは俺も心臓の鼓動を早めている場合ではない、深呼吸を一つして再びフィルの方へと向き直る。


「……じゃあ、触って確かめるけど……いいかな?」


 顔を逸らしながらもフィルの顔が僅かに頷く、頭を切り替えろ……これは言うなれば医療行為なのだ、彼女の肉体をこんな状態にした原因は俺にもあるのだからそれを解消する義務があると言えるだろう。

 ナイフの刃についていた蝋を床の毛布で拭って綺麗にすると俺も立ち上がりフィルの首元へと手を伸ばす、指先が首に触れた瞬間彼女の体がびくりと跳ねたが少し撫でるように手を動かすと次第に落ち着いてくれたようだ。


「少しだけ首を曲げられるかな?……そう、少しそのままでお願いね」


 彼女の首が少しだけ曲げられそこにナイフを当て蝋を落とす……よし、なんとかやれそうだ。

 首を削り鎖骨に指を這わせ、胸の部分はフィルに下着を少しだけずらしてもらいながら慎重に削り、膝立ちになりながら下へ下へと蝋を削り落としていく……気がつけば彼女の足は内股になって擦り合わせており、声が漏れそうになっているのか指を噛んで耐えていた。


「ふっ……ん」


 そんな彼女の仕草に煽情的な感情を抱きながらも何とか腹部を削り終え腰の辺りを削る為に鼠径部を軽く掴むと、とうとう彼女が大きな声を上げた。


「アっ……!」


「ご、ごめん……痛かった?」


「い、イエそうではなく……気持ちイイというか、痺れるというカ……邪魔してしまいすみまセン……」


 彼女の表情は分からないが興奮している事は熱くなった体や浅く、早くなった呼吸からもよく分かる……全身から立ち上る芳醇な香りに飲まれないように頭を振って煩悩を飛ばし、今度は優しく腰の辺りを掴み腰回りの蝋を落としていく。


「……フィル、その……少し足を開いてくれるかな?」


 返事は無かったが少し間が空いた後で彼女の足がゆっくりと開いた、一層濃い匂いが鼻をつき内ももの辺りがしっとりと濡れている気がするがそれを指摘するような野暮な事はしない、これ以上彼女を羞恥に晒す訳にはいかないとナイフの角度を変えながら手早く蝋を落としていく――が、焦っていたのか途中で手元が狂い、彼女の内ももの一部を傷付けてしまった。


「――アッ!」


 その瞬間彼女の体は大きく二度三度と跳ね、ナイフを持つ俺の腕を両足で挟み込みその両腕は俺に力強く抱きついた。


「……フィ、フィル?」


 返事は無く耳元に彼女の短い吐息が断続的に当たる、挟み込まれた腕も痛みは無いが力が強く自分で抜け出せそうに無い……時折声を漏らし体を震わせる彼女が落ち着くのを待つしか無いようだ。




「……本当にすみまセン」


「い、いや大丈夫だよ! 俺がミスって切っちゃったんだしさ!」


 羞恥に耐えかねたのかローブですっぽりと顔を覆い、足だけをこちらへ投げ出したフィルが心底申し訳無さそうに謝罪の言葉を口にした。

 むしろ謝るべきはこっちなのだが……投げ出された足を膝に乗せ最後の仕上げである指先の蝋を取りながらそんな事を考える。


「……よし、これで終わりかな? どうかな、まだ動かしにくい所とかある?」


 俺の言葉を受けたフィルがゆっくりと顔を出して立ち上がり、確かめるように腕や足の動作を確認する。


「わ……凄いデス! 凄くスッキリしました!」


「それは良かった……それにしても、やっぱり全身ともなると凄い量の蝋だなぁ」


 途中から部屋にあった空の大きなズタ袋に蝋を詰めながらの作業だったがそれでも二袋程がいっぱいになってしまった……フィルが言うには貴重な素材らしいが、これだけを見ていると全くそんな気はしない。


「もし良ければ持って行っていいデスよ、墨白サンなら良い使い方も知っているでしょうシ」


「そう? じゃあ……ありがたく貰って行こうかな」


 袋の口を縛りポーチにしまうと脱いでいた靴を履く、集中しすぎて時間の感覚が無かったが……さすがに長居しすぎてしまった。


「あと数日もすれば全快しますカラ……一緒に七釘なぎさんの式典を見に行きましょうネ?」


「分かった、楽しみにしているよ……それじゃあまたね」


 フィルに背を向け扉のドアノブを掴むといつの間にか背後に立っていた彼女の手が服の裾を掴んでいた、不思議に思って振り向くと俯いたまま何やらモゴモゴと呟いたかと思うと意を決したように彼女の顔が俺の胸元に沈んだ。


「アノ……また料理とか、して欲しい事があれば何でもしまスから……良ければその、マタ……」


「っう、うん! その時はまた……ね?」


 甘い声で囁きながら全身を擦り付けられている気がするのはきっと気のせいだろう、名残惜しそうにフィルの手が離れたのを確認すると扉を開けて外に出た。

 地下のひんやりとした空気に当てられながらもまだ心臓が早鐘を打っている……さて、皆のところに戻らないと。


「……んっ」


 背後の閉ざされた扉から耳を掠めた蕩けるような声に俺は戻る足を速めた。

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