コンソメの匂いに誘われて、わおん。


 辺りを見回しながら歩いていると、明かりの漏れる部屋がある。

 迷わず部屋に入ると使用人の食事場のようだ。

 ふわりと漂う美味しそうなコンソメの香りに、ぐうと、お腹が鳴る。



「コホン、お客様」

「わあっ!?」

「驚かせてしまい申し訳ございません」



 どうやら厨房の方から話しているようだ。

 真っ暗で姿が全く見えない。

 近付こうとすると、「どうか! このままで」と声の主。

 諸事情により姿を見せる事が出来ないと言う。

 残念ではあるが、不法侵入しておいて我儘は言えない。



「先程は突然のご来客に驚いてみっともなく逃げてしまいましたことお許しください」

「い!いえ! 私こそ勝手に入って追い掛けたりして、すみません……」

わたくしはこの御邸の執事を務めております、シュウ・ナウザーと申します」

「あっ、あの、私はヒューガ・アオイと申します。文字にすると、こう……書くんですけど……」



 アオイは植物で編まれたにはあまりにも美しい紺色のポシェットから、紙とガラスの万年筆を取り出し、厨房に向けて〈向日葵〉と書いて見せた。



「ほう、それはヒマワリですな」

「はい! なので、あの、向日葵畑を見付けて嬉しくなってしまって……私の方こそみっともなく……」

「ほっほっほ、ご自分が沢山居るのですからそれは嬉しくなってしまいますな」



 想像していたよりもよっぽどまともに話が出来る相手で、アオイは己の行動を振り返り少し恥ずかしくなった。

 さて、と執事のナウザーは話始める。

 このようなものでお恥ずかしいのですがと言われ、みるとテーブルには小さなパンとスープ、炒めた野菜が美しいお皿に盛り付けてある。

 コンソメの美味しそうな香りはこれだったのかと余計に腹が鳴る。



「良いんですか!? ありがとうございます、お腹ペコペコだったんです!」



 食事をしようと場所を探していたが、結局そんな暇もなかった。

 アオイは森を一人でさ迷っていたわりに、食事の作法はまるで貴族だと言うように美しく綺麗だ。

 出された食事をぺろりと直ぐに食べ終わると、ナウザーはまた「さて」と切り出す。



「湯浴みの準備も整っておりますので是非」

「え、そんなことまで……していただいて……」

「しかしながら姿をお見せすることが出来ない故、大変失礼かとは思いますが、ご自身でお部屋の方にお願い致します」

「失礼なことなんて! とんでもない、有難うございます」

「この部屋を出てすぐ右に、正面突き当たりに御座います」

「かしこまりました」



 相手をとくに疑うこともなく、ナウザーの考えも知らず、呑気に食事もお風呂も戴くアオイ。

 だって今までもそうやっていつも誰かに親切にしてもらった。

 ありがとうと言われることも多いが、自分がやった事なんて少しも大したことなくて、此処まで生きてこられているのも今まで出逢った人達のお陰。

 父は「笑って生きていたいなら、苦しくても辛くても苛々しても笑っていなさい」と言っていた。

 広い世界の中では、その言葉が身に沁みる。



「──ふぅ、」



 猫脚のゆったりしたバスタブ。

 温かい湯と思い出に浸って、ちゃぷちゃぷとお湯の表面を手でいったりきたり。



「もしもし、お客様」


 

 すると扉越しに優しい女の人の声。



「はい! 何でしょう」

「私はメイド長のボーダ・コニーと申します。私も諸事情により姿をお見せすることは出来ません。そして誠に勝手ではございますが、お召し物が少々汚れておりましたのでお洗濯させていただきました。代わりのお召し物をご用意致しましたので、そちらをお召し下さい。明日の昼には乾いているかと思います。ですので今晩は遅いですし、どうぞお泊まり下さい。お部屋もご用意しております。ここを出て、最初のホールに戻り、左手一番手前のお部屋です」

「………ハ、ハイ。有難うございます」



 あまりにも流れるように喋るので、アオイは『ハイ』としか言えない。



「途中、二階へ続く階段がございますがどうか上がらないように。危ないですから」

「分かり、ました」



 とってもイミシンで気になるけれど、底が抜ける的な本気の危ないだったら怖いので好奇心は一旦置いておこうと思ったアオイ。

 言われた通りに階段は素通りし、案内された部屋へと向かう。

 つらつらと喋るから間違えないか心配だったが、用意された部屋は電気が付けられていたので直ぐに分かった。


 深く、濃い木の色で、落ち着いた雰囲気の部屋は広いし、家具やライトもシンプルだが高価そうなものばかり。

 ベッドはふかふか、テーブルには飲み水も準備され、用意されたこの寝間着も肌触りがとても良い。

 突然来たというのに姿も見せず何故ここまで完璧に用意が出来るのか。

 普通ならもう少しバタついても良さそうなのに、不思議でたまらない。

 不思議でたまらないのだが、ぼふんとベッドに横になると睡魔が襲う。

(だって、お腹は満たされたし、湯に浸かって身体はぽかぽかだし……、ふかふかだし……)




 アオーーーンと、遠吠えのような声が聴こえたきがした。

 外は薄ら明るく頭も覚醒していない。

 これが夢なのか現実かも分からない。

 次に起きたときは、こんこんと扉をノックする音だった。



「お客様、朝でございます」

「ん……」



(あれ、遠吠え……は、夢……?)



「まだお休みでしょうか?」

「すみません、起きてます。おはようございます」



 しばしばする目を擦りながら、まだ重力に負けそうな身体をなんとか起こした。

 起こしに来たのはコニーのようだ。

 昨日と変わらず優しい声で、昨晩のテーブルに朝食を用意したという。

 部屋には着替えも準備したというから、見ると確かに昨日は無かったはずの服。

 寝ている間に用意したのだろうが、己の寝相は大丈夫だっただろうかと少々不安になりながらも、指示通り着替えてまた美味しい食事を戴く。

 表情でも食事を堪能するアオイに、「本当はもっとおもてなしをしたいのですけれど……」とまたどこで話しているのやらナウザーの声。



「いえいえ、十分過ぎるほど美味しいです!」

「そう言っていただけると嬉しゅうございます」



 謙遜こそしているが、しかし本当に美味しいのだ。

 このサンドイッチ、パンは丁度良く焼かれ、中のたまごもふわふわ。

 用意されていたという紅茶も全く渋くない。

 おかしい。

 起きてここに来るまで、着替えて顔を洗い何やかんやして三十分は掛かった筈だ。

 なのにこの朝食は、つい今さっき出来ましたという程。

 でも使用人の姿は誰一人として見えないのだ。

(分かったわ! ニンジャ、ニンジャなのね!?)

 なんて考えながらも、またペロリと綺麗に戴いた。



「ご馳走さまでした」

「はい、昨日のお洋服がお部屋の方にご用意できておりますので、」

──「何だ。誰と喋っている」

「だ、旦那様……!」



 低い、響く声。

 空気が、ピーンと張りつめたのが分かる。



「誰も居りません」

「じゃあこの臭いは何だ。人間の臭いだ。私の鼻を誤魔化せるとでも?」

「い、いえ、滅相も御座いません。ですがしかし、少々お待ち……」

「またお前達は迷いこんだ人間に飲み食いさせたのか?」

「ですが今回は……!」



 どす、どす、どす、

 すごい足音だ。

 「ふんっ」という鼻息は、何かが飛んでいきそうな程大きい。



「あれほど言ったであろう。この邸に、もう、誰も、入れるなと」

「しかし!」

「ええい、五月蝿い!」



 どおっと、邸が揺れる程の唸り声。

(あれれ、これは……、なんですか? 私、ここに居てはイケナイ? あれ、あれれー?)



 どす、どす、どす、

 此方に近付くほど大きくなる足音。

 どっくん、ばっくん、

 心臓の鼓動も共に激しくなる。



「旦那様! まだっ、セッティングが……! 完璧な出会いのシーンが……!」

「は? お前は何を言っているんだ」



 ナウザーは焦ったように引き留めている。

 だがその足音は止まらない。

(た、確かに、主にご挨拶しておりませんでした……あれよあれよといい気になって……私から言うべきでした。挨拶させて!と。もう遅いけど……!!)


 国境付近である邸の場所から考えると、恐らく辺境伯なのだろう。

 アオイが知る限りの辺境伯は、体力はあるし頭も良い人が多かった。

 思えば見ず知らずの奴が入り込んでいるのだからただでは済まなそうだ。

(あぁ。終わりです。私も、そしてこの物語も……)


 きっとほんの五秒程だろう。

 アオイの頭の中はすでに数年単位の未来まで話を広げていた。


 そして、


 ぬうっと出てきたのは、


 なんと、


 なんとも、大きな、



「な、若い、女……!? だと……?」



 なんとも大きな犬ではないか。

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