第37話:悪役令嬢は邂逅する3
菓子店を出て、馬車は進む。
常に綺麗に保たれた王都中央区画とは違った、やや薄汚れた雑多な雰囲気に、私は目を輝かせた。
前世での欧州旅行で旅行客の少ない地域を訪れた時の思い出がよみがえる。
表の華やかさとはちょっと違った、薄汚れた熱のある空気。
この外側には下町、さらには貧民街もあるというが、そちらに赴くことは恐らくないだろう。
あと一区画ほど進むと、中央区画に戻るだろうという場所。
私がぼんやり馬車の窓から外を眺めていると、我が家の馬車を、一台の馬車が追い抜いて行った。
貴族の物と思しき紋章が見えたが、一瞬のことで、どこの家かは分からない。
馬車の外装から、さほど爵位が高い家の物とは思えない。
上級貴族の馬車を追い越すなど、本来なら処罰の対象にでもなりそうだが、気付かないほど急いでいたのか。
もっとも、中央区画近くとはいえ、ここは普段、上級貴族の馬車が走るような場所でもないのだから、気付かなくても仕方はないのかもしれない。
「ミレーネさんが一緒でなくてよかったですね。面倒ですもの」
お母様も、スルーなようだ。
その馬車は急いでいるのか、かなりの速度を出し、通行人たちはそれを慌てて避けている。
事故でも起きなければ良いが。
そう思った矢先、小さな人影がひとつ、馬車を避けたはずみに転んだようで、抱えていた籠を落とした。
地面に落ちた籠から、なにかが転がり出た。
馬車は、それに気付かずに走り去ってしまった。
平民は貴族の馬車に轢かれる方が悪い。
厳密には司法の手にゆだねられることになるが、不文律としてはだいだいそう。
平民の命は、かくも軽いのだ。
幸い、その人影は撥ねられたわけでもなさそうなので、悪くても捻挫程度だろう。
「お母様」
「面倒ですが、仕方ありませんね」
私の思いを察してくれたようで、お母様は速やかに馬車を止めさせた。
私は使用人が降りるのも待たずに、馬車から飛び降り、道に倒れている人影に駆け寄る。
その人影は、フードで顔は見えないが、その背丈とスカートを履いているところを見ると、少女のようだ。
「大丈夫ですか」
「は、はい……ひぃっ!!」
フードをかぶった人影は、少女の声で振り返ると、小さな悲鳴を上げた。
私の姿に驚いたのか。
突然の貴族は怖いだろうなあ。
「おおおおお許しをっ……」
「安心なさい。なにもしませんわ。それより、怪我はなくって」
私はなるべく優しく声を掛けた。
少女は、私の顔を見ないよう俯いたまま、ぶんぶんと頷く。
「大丈夫ですっ、ご心配をおかけして申し訳ありませんっ」
「貴女が謝る必要はなくってよ。悪いのはあの馬車、同じ貴族として恥ずかしいばかりですわ」
「い、いえ、そんなことは……」
「それより、落としてしまったものを拾いましょう。これは……パンですね」
「は、はいっ」
私は地面に転がったパンをひとつ拾い上げた。
焼き上げて、さほど時間がたっていないのか、パンはまだ温かく、ふんわりと匂いたった。
この香りは……。
マルチナさんに貰ったパンの香りだ。
マルチナさんは買った場所を頑なに漏らさなかったが、この辺りに店があるのだろうか。
「このパンはどちらで?」
「あ、はい。我が家で焼いているパンで、これからこの先のレストランにお届けに行く途中だったんですが……」
少女はパンを拾いながら、悲しそうな声でそう言った。
地面に転がってしまった四つのパンは、売り物にはならないだろう。
この先のレストランというと、以前第二王子殿下に連れられて行ったところかしら。
「よかったら、こちら、私が引き取りましょうか」
「え、そのようなことをして頂くわけには。それに落としてしまったものを買っていただくなど、恐れ多く」
「では、こうしましょう。籠の中のパンをひとつ譲ってくださらないかしら?対価はそうね……パン五つ分で。落ちてしまったパンも、ついでにこちらで処分しましょう。よろしいですか、お母様」
私は、背後に来ていたお母様に聞いてみた。
お母様は、やや面倒くさそうに頷いた。
「まあ、それくらいでしたら。それで構いませんわね、そこの娘」
「は、はいぃ」
蛇に睨まれた蛙のごとく怯える少女。
お母様、睨まないであげてください。
「ついでに、この先のレストランまで一緒に行きましょうか。パンの数が足らなかったら怒られるでしょう」
「それはそうですが、そこまでしていただかなくても」
「気にしないで」
「諦めて娘の気まぐれに付き合いなさい」
お母様、言い方。
しかし、こんなんでも貴族。
平民にも、やはり容赦ない。
「では、これはお母様に」
代金をフードの少女に押し付け、籠から取り出した綺麗なパンを、ハンカチにくるんでお母様い渡す。
残りの、地面に落ちたパンは軽く埃を払ってから、クラリッサに用意してもらった布巾に包む。
「どうするのですか、そんなもの」
「処分ですよ、処分」
渋い顔をするお母様に、私はにこりと微笑んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
歩いてもすぐの距離とはいえ、上級貴族がの平民を連れてこのこ歩くわけにもいかず、フードの少女は我が家の馬車に乗せることになった。
一生あり得ないだろう体験に、少女はきっとどなどなの気分だったろう。
緊張しすぎてがちがちに固まり、話しかけても返答はしどろもどろだ。
馬車の揺れに反応するように、フードからわずかに揺れる青い髪。
綺麗な輪郭と鼻筋。
なかなかの美少女なのかもしれない。
すぐに少女の目的地、レストランへ到着した。
私の予想通り、そこは第二王子殿下に連行された店のひとつ。
王家御用達な超高級店ではないものの、なかなか美味しい店だった記憶がある。
立地が王都中心区画の外れであるために、損をしているなあと思ったことも思い出した。
クラリッサと少女が降り、続いて私とお母様。
裏口に向かおうとする少女を呼び止め、堂々と正面の扉をくぐった。
レストランはまだ準備中のようで、灯の灯らないホールは寒々しい。
「ごきげんよう、どなたかおりますか」
私が声を掛けると、ホール奥の厨房からひとりの中年男性が出てきた。
確か店主だったかな、このひと
「なんだいこんな時間に。開店はまだ……ひぃっ、公爵家のお嬢さまではありませんかっ!?」
「ええ、以前はお世話になりました。開店前の忙しい時間に失礼します」
一度しか来た記憶はないが、よく私の顔覚えてたな!!
さすがは貴族も相手にする商売、抜かりない。
相手によっては、忘れてたとか言ったら、殺されかねないしな。
「とんでもございません。こちらこそ、お嬢様にご利用いただいて感謝の極みで……ところで、本日はこんな時間にどんな御用向きでしょうか。お食事でしたら、準備には少々お時間を頂かなくてはいけませんが」
「いえいえ、そのような無理を申し上げようというわけではありませんわ。さ、お入りなさい」
開店もしてないのに押しかけて飯食わせろという貴族がいるのか?
……いるのだろうなあ。
私は苦笑いを浮かべると、外に手招きした。
フードの少女が大きな籠を抱えて入ってきた。
「おう?パン屋の嬢ちゃんじゃねえか。お嬢様、この嬢ちゃんがなにかなさったのですか」
「いえその逆で。そこの通りでどこかの貴族の馬車に撥ねられそうになりまして。幸い怪我はありませんでしたが」
「ハンスさん、申し訳ありません。転んだはずみで籠を落としてしまって、そのときパンをこぼしてしまいました」
「幾つだい?」
「えっと……よっ……五つ」
「5個か。落としちまったもんは買い取れねえなぁ。まあ怪我がなくてよかったと諦めてくれ」
「ご安心を、落とした分は私が買い取りましたので」
「なにもそこまでして差し上げなくてもよろしいのでは」
「知らぬ他家とはいえ同じ貴族の不始末。貴族の名誉を挽回できる機会だと思いましたので」
「そうですか。それでしたら私どもはなんの問題もございませんがね。よかったな嬢ちゃん」
「はい」
店主のハンスさんが、少女に笑いかけると、少女もようやく安心したのか、嬉しそうな返事を返した。
「偶然とはいえ、お嬢様に助けていただいて運がいい。そういえば嬢ちゃんとお嬢様は、同い年だな。妙なご縁もあるものですなぁ。それにしても、やっぱ嬢ちゃんじゃあここまで来るのは少し危ないなか。テリーが早く良くなるといいのだがな」
「え、ええ、父もそれをとても気にしていました。」
「この子の父君がなにか?」
「いや、足を怪我したそうでして。それで代わりにこの嬢ちゃんが配達してくれているのですよ。嬢ちゃんとこのパンは絶品でして……ああ、お嬢様がお見えになった頃は、まだ仕入れてませんでしたね。近頃はそのパンに合わせた料理も用意しましたんで、この次の機会には是非ご利用頂ければと」
パン屋の怪我を心配しつつも、ちゃっかり営業するハンスさん。
「ええ、是非そうさせていただきますわ」
「あ、あのっ、私はこれで……」
フードの少女が申し訳なさそうに言葉を挟む。
「おおう、すまないすまない。いつも他にも配達があるって急いでたものな。お嬢様、私めも開店準備の途中だということを、すっかり忘れておりました」
「いえ、忙しい時間にお邪魔してしまいましたわね。では、いずれまた」
「帰りは馬車に気を付けるんだぞ、エリー」
「は、はい」
レストランの外に出ると、フードの少女は深く礼を述べて、もと来た道を駆けていった。
私たちはハンスさんに見送られ、馬車に乗り込んだ。
馬車の奥に座っていたお母様は慌てて何かを隠し、顔を逸らした。
馬車がゆっくりと走り出した。
「お母様、ミレーネ母様がご一緒でなくて、本当に良かったですわね」
「なんのことかしら」
私は、クラリッサに包んでもらった、落ちたパンの数が減っていたことを見逃さない。
言うまでもないが、私が包んだハンカチの中身は既にない。
「とても美味しいパンでしたでしょう、お母様」
「ええ、馬車の走る道に落ちたパンとはいえ、前線での食事と比べたら余程ましですわね」
……それは褒めているのですか?お母様。
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