終章
第44話 僕の話⑯ 終着
「どけぇぇぇぇぇ!!」
叫びながら、見つめていた小さな点だった人影は次第に大きくなり、自分の死を回避しようともがく努力が出来なかった。ただ、その人が目の前にいることに驚くばかりだった。
そうだったのだ。すっかり容姿は変わってしまい、今まで気づかなかったけど、僕を見上げている彼女の顔には確かに面影があった。
そうか。清掃婦の中に紛れて気づかなかったから、意識に焼きついていなかったのか……。
そう、思ったりもした。
けど、違うのだ。彼女が初めてオフィスにやって来た時には、すでに気づいていた。20数年ぶりの再会だとしても、一目見てわかったというのに、どうやって接すればいいのか分からずに意図して事務的にしか接してこなかったのだ。
見ないことで、自分の心を保護していたのだ。
あるべき者を消してしまうという自己暗示は、隠された才能のひとつだったようだ。そうすることは簡単なことだった。何かが自分の心を傷つけようと襲いかかってきたら、芳文のことを思い出せば良かった。彼は、自分を戒めるためのスケープゴートだったのだ。だから、眠れぬ夜には彼が頭を支配していた。そうやって後悔に苛まれることで、新しい後悔を留めないようにしていたのだ。
ただ、あまりにも突然に現実離れした状況に放り込まれたせいで、僕は今、知らぬ間に償いをしているという歪な現実を生み出してしまっていたのだ。
自己防衛の忘却のせいで、彼女との過去自体を消してしまってはいたけど、ようやく彼女に償えるのだ。
思い出せて、良かった。
本当に、良かった。
しかし、どうして君まで一緒に死ななければならないのだい? 地球という凶器に向かって落ちていると思い込んでいたのに、よもや僕自身が凶器に選ばれていただなんて……。
君を殺すために、落ちていただなんて。
どうやら僕は……、いや、それ以上は考えないでおこう。せめて、償いが出来るのだというこの安らかな気持ちのまま、死へと堕ちよう。
悲しいかな。僕らは互いに罪深き人間だ。産まれるはずだった生命を消してしまった過去を、消すことは出来ないのだ。そのことに向き合うことをしなかった罪を消すことができないならば、一緒にあの世で、2人の子どもに謝りに行こう。僕らが殺してしまった生命を、抱きしめに行こう。それくらいしか償いができないのなら、それも仕方ない。
僕も君も死んでしまう。すでに消えてしまった命も確かに存在する。生と死、そんな決まり事があるからこそ、生きていることがすばらしいことなのだと思えるのだ。残された大切な人たちに出来る最後のことは、あなたは確かに生きているのだと訴えることだけかもしれない。後は、儚くもキラキラした未来を堪能してほしいと願うばかりだ。
この世で最も愛した人よ、幸せな人生であってくれ。君に出会えて、心の底から良かったと思っている。
もしかしたら、自分の死と向き合える時間があっただけ、僕は恵まれているのかもしれない。様々な管を繋がれ、目の前の人物が誰なのか分からなくなるまでベッドの上にいるよりも、どこからかはみ出した車に轢かれるよりも、わがままな銃撃で命を落とすのよりも、よっぽど幸せだ。少なくとも、自分が今から死ぬことを自覚できるのだから……。
何の変哲もない人生だったかもしれないけれど、生まれてきてよかった。それだけは誰にも否定させはしない。人として、この時代、この世界に生まれ落ちた幸運に感謝しよう。
なぜだか僕は、彼女の顔を見ながら笑っていた。上手く笑えているかわからないけど、そんな表情を確認した彼女の顔もまた、柔らかなものになっていた。
そうやって静かな世界は、大きな騒音を最後に消えてしまうかに思えた。
刹那。
彼女の目がギョッと見開かれた。
あと30メートルもすれば2人の距離はゼロになると思った矢先、僕の視界は真っ白に埋め尽くされた。
そうかと思ったら、白い世界は真っ黒に置き換わり、強烈な衝撃を受けると同時に、落下していたはずなのに浮遊感を覚える。
何が起こったのかもわからぬまま、急激にブレーキがかかり、一瞬だけ浮かび上がった体は、再び落下を始めていた。
意識は完全に通常のものに切り替わり、視界は閉ざされながらも落ちる速度は感じていた。
と、思った直後、再び全身に衝撃が突き抜けた。
「ああ……。死の瞬間がやってきた」
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