第41話 私の話⑭ 全ては明らかに
その出会いは、単なる偶然の出来事なのでしょうか? それとも、運命と呼ばれるべきものなのでしょうか?
研修期間も終わって、2回目の勤務のことでした。
その企業はリバーサイドの高層マンションの上層部にあり、新鋭のゲーム会社ということでした。
もちろん、そんなことは知っていました。
小田切君がメインで所属している会社ですもの。ただ、ここへ清掃婦としてやってくるとは、正直な話し考えていなかったのです。小田切君が紹介してくれたのですから、前もって分かりそうなものですのに。そんなに簡単な推測も出来ないほど、疲れ切っていたのでしょうか。
その出会いは、再会と呼ばれるものでした。ギャラリーゲーム@コーポレーションの広くはない専務室で出会ったのは、高校生の時、一時期だけとはいえ恋人だった人物でした。
慌てました。とっさに業務用のマスクを口に当て、顔を隠してしまったのでした。働き始めたばかりだったため、化粧もろくに出来なかった自分が無性に恥ずかしかったのです。
彼にだけは見られたくない。
恋人であったのも、もう25年以上も昔の話だというのに、最後に残された女としての自尊心が、閉め切られた胸の中でそう叫んでいました。
分かっています。彼に相談すれば、この窮地も脱出出来るだろうことは……。そうしなければ彼の気が済まないであろうことは……。しかし、今さら人に頼ることを選択する強さもなかったのです。笑顔で「久しぶり」とは、どういうわけか、出来なかったのでした。
彼に会った瞬間に浮かんでいたのは、そんな爽やかなイメージではなく、もっと醜く、ひたすら自己中心的で、人として最低な考えだったのです。
私の人生を狂わした張本人への復讐が出来るとでも考えていたのでしょう。何とも愚かなことです。……ことですが、この思考の強力な流れを修正することが、出来なかったのです。
彼に償って貰おう。
あの時独りで背負った罪を、彼にも償って貰おう。
その考えは日に日に強さを増し、彼から渡されていた紙切れを眺める毎日が訪れました。残念ながら、主人のソファは処分してしまっていました。今の住家では、あのソファを置いておくスペースがなかったのです。
あのソファがないせいでしょうか。内へと向かうマイナスのパワーを、打ち消す気力が湧いて来なかったのです。
彼を怨むこの気落ちを、誰が理解してくれるというのでしょうか。理解者など、どこにもいません。それでも、我が子の行く末を考えると、余りにも無力だったのです。このままでは、普通の人生すら歩ませてあげられない。
あの子には、環境が、お金が必要だったのです。
これを選択したのは、ショウのため。そう思うことで罪悪感は和らぎました。酷い親です。親であるということを利用するなんて……。しかし、この時の私にとっては、どんなものよりも、ショウを育てるお金が必要だったのです。
内部のことは小田切君に訊けば分かりました。それ以前に、清掃業務のために知らされていたので、詳しく訊く必要もありませんでしたが。
彼の部屋には電子ロックの暗証番号さえ知っていれば誰でも入ることが可能で、×印のプレートがかかっている時だけは立ち入り禁止のサインである。最上階のフロアには基本的に彼以外はいないということも知りました。
彼に子どもがいなかったことも、抑止力を弱める要因でした。奥様には気の毒ではありますが、そこまで気は回らなかったのです。優秀な人物であるということで、嫉妬も感じていたのでしょう。彼に死なれてもやっていけるだろうという気持ちも強かったのです。
何もかもが味方してくれている。そう思っていました。
主人が死んで、ちょうど1年が経った頃でした。計画は、いとも簡単に成功してしまったのです。
その日、彼の会社は月に一度の定休日で、いつもよりも遅い時間に清掃に入ることになっていました。
この後に向かう企業もなかったので、人員は私を含めて最低限。彼のオフィスで行われていた打ち合わせが終わったところで、営業さんが使っていた会議室も空いたので、同僚にそちらは任せ、ひとりになることができました。
清掃婦の人間に彼は全く興味を示さず、時には部屋に居ることすら気づいていませんでした。そんな彼の飲みかけのコーヒーカップに睡眠薬を入れることは、容易いことでした。彼は何の疑いも持たずにそれを体内に流し込んでしまったのでした。
誰も近くにいないことを確かめると、ドアノブに×印のプレートをかけ、呆気なく眠りに落ちた彼をキャスター付きのイスごとベランダに運びました。最後の一口は、味も確かめずに一気に流し込むのを知っていましたので、大量に睡眠薬は入れておきました。経験上、この量であれば、一晩は身動きすらできないでしょう。
掃除道具と一緒に運び込んでいた滑車やロープを使い、何とか彼を手すりに持ち上げたのです。手すりの幅が広かったのは、幸いなことでした。彼をそこに横たえても、しっかりとした安定感がありました。
手すりの幅が十分であっても、近づいてくる台風の影響なのか、立地条件によるものなのか、吹き付ける風は厄介なものでした。
しかし、下手なトリックは何も用意していませんでした。こちら側に落ちるか、あちら側に落ちるか、私にもわかりません。
「突拍子もない奇跡を目の当たりにすれば、きっと、どんな罪も許せるよ」
何の話題だったのかは覚えていませんが、高校生の頃に彼とおしゃべりしている時に、ふと出た言葉。今でも、この言葉を信じている自分もいましたが、そんな都合の良いことが起こらないことも、この1年でずいぶん学びました。いえ、この1年だけでなく、高校生だった頃からずっと。
途中で体調不良の電話をし、早退したようにしなければいけませんでした。仲間に探しに来られては、具合が悪かったのです。電話をする時は、本当に最悪な気持ちでした。
そうですよね。
これから人を殺そうとしているのですもの。ベタつく汗を全身に感じていました。嘔吐感も全身から私を責め続けます。
15分ほどを観察を続け、彼が呼吸以外は微動だにしないことを確認すると、スリッパをそろえベランダに置き、睡眠薬入りのコーヒーカップを洗い、元の場所に戻す作業に移りました。
いつ転落してしまうか、ヒヤヒヤしていましたが、最後まで彼は動くことはありませんでした。
準備はそれだけでした。
後は、何食わぬ顔でいつものように家路につくだけでよかったのです。仕事仲間はすでに帰っていましたし、この会社の人は休みでほとんどいませんでした。誰かに会ったとしても、仕事帰りの清掃婦と見ない人はいないはずです。
そうでした。ひとつ、重要な物を彼の机の上に残していきました。
彼の遺書です。直筆で、彼の指紋だけが付着した紙切れ。これがなければ、この計画はそもそも動き出さなかったのです。
あなたの心は、誰かを殺したいと願っていますか。それとも、誰かに殺されたいと祈っていますか。
そのどちらでもない人は、幸せですよね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます