第39話 俺の話⑬ バイバイ

 早朝のシャワーは初めてだった。しばらく体にまとわりついていた不快な細胞を擦り落とし、その後洗面所で薄っすらと生えたヒゲをカミソリで丁寧に削り取った。もともと、剃るほどのヒゲも生えてはいなかったけど、何となく儀式として必要に思えたのだ。それからざらつく歯を磨き、髪型を整えた。

 熱を出して寝込んでいた期間も入れると、ほぼ2週間ぶりの学校だ。

 やつれた顔だけはどうにもならなかったけど、その表情は穏やかだった。窓辺のアイツにささやかな決意表明を告げてから、全ての準備を整えて部屋を出た。

 両親は俺に付き合って2日間ほど飲まず食わずだったようで、俺の気配に動き出す様子はなかった。まぁ、起きてこないように細心の注意を払ってはいたけど。

 芹菜との関係の中で、一番大きく変わったのは、親への心情だった。

 俺のことが気になって仕方がない母親。嫌われるのを恐れず進言することの偉大さを知った。

 常に無言で俺のやることを遠くから見ていた父親。それが無関心などではなく、見えない心で包んでくれていたのだと知った。

 だからこそ、今まで穏やかに暮らせていたのだということも……。

 静かに玄関のドアを開け、大きな声で呼びかけていた。「いってきます。心配かけてごめん」ってね。帰ったら、ちゃんと話そうな。


 エレベーターは音を立てずに速やかに地上へ降ろしてくれた。薄暗いホールを抜け、晴れ渡った空を見上げながら久しぶりの大地を踏みしめていた。大きく息を吸い込み、決意を胸に歩き出そうとした時だった。

 微かな違和感にバッと振り向いた。

「な……」

 言葉にならなかった。

「ビックリしちゃった。足音が聞こえたから竜平君だったらいいのになぁって思ってたら、本当に竜平君だったんだもの。すごくイキイキした顔してたし、気づいてくれなかったら、どうしようかと思ってたんだ」

 芹菜は互いの気持ちを初めて知った時の台詞を、敢えて引用したみたいだった。彼女の表情も、憑き物が落ちたみたいに晴れやかに見えた。

「いつから?」

 少し考え込んで、やっぱりあの時の一言を引用していた。

「昨夜から……。どうしても話しておかないといけないことがあったからここまでは来たんだけど、ここから先に進めなくて……。メッセージ送っても返事がなかったから……」

 一瞬微笑んで、芹菜はおずおずと話してくれた。反射的に鞄を漁り、ケータイを取り出した。

「ごめん。バッテリーが切れてる」

 バツが悪そうに答えていた。そういや、しばらく充電した記憶がない。今朝も始発に乗ろうと急いでいたから、確認すらしてなかった。

「そっか」

 そこで、芹菜の言葉は途切れてしまった。

 俺も、そうだった。

 モジモジとした感じで、互いに言おうと思っていたことを口から吐き出すタイミングを探ってたんだ。

「「あの」」

 って2人して声をそろえるのって、特別なことじゃないんだね。俺たちはバツが悪そうに笑い合って、もう1回「「あの」」を重ねたんだ。

 俺はそれでも構わず話し続けた。胸に溜まった決意を伝えたかったから。

「芹菜に見て欲しい物があるんだ」

 彼女の目の前に足を進めると、スッと掌を差し出した。でも、その手には何も乗っていない。

「ん?」

 芹菜は首を傾げながら不思議そうにその掌を見つめていた。

「見て欲しいのは、この掌そのものなんだ」

 微笑みながら、彼女が見やすいように手を顔の高さまで上げていた。

「俺の掌の真ん中辺りに線が入ってるでしょ。中指の下の方」

 もう一方の手でその線を指しながら説明した。

「あ、うん。途中で切れて重なってるやつね」

 大きく見開いた瞳で彼女は問題の線を確認すると、鞄の中から手相の本を取り出したんだ。

「ここ、読んでみて」

 付箋紙を貼っておいたページを開き、芹菜に手渡した。芹菜は若干戸惑いながらも読み始めた。

「えーっと。運命線が切れている時期に何か変化が起こるが、それが良い方向に向くことを示しています。変化が転機となって、運がさらに開けることを意味するものです」

 それを読み終わると、芹菜は俺の顔に視線を上げた。疑問符が浮かんでいる表情だ。

「運命線がこの生命線の隣の頭脳線と交わる所は30歳を表すんだ。俺の運命線が切れてるのはそれよりも下の方でしょ。だいたい、今くらいの年齢。俺たちの問題はきっと、良い転機を表してるんだと思うんだ」

 これが、俺の出した結論だ。

「だから……。2人で育てよう。難しいとは思う。きっとこれからも俺は芹菜を傷つけてしまうと思う。でも、どんなに俺の心に不安が生まれても、行き着くところは、芹菜を好きだということだけなんだ。芹菜という存在そのものが必要なんだよ」

 彼女は別れを言いに来たのかもしれない。すでに彼女の心は俺から離れてしまっているのかもしれない。それでも構わなかった。

 胸に溜め込んでいるだけでは、何の変化も起こらないのだもの。もっと素直に感情を出していかなければならないのだもの。

 芹菜の顔は泣き笑いだった。とても複雑な、そんな表情だった。そう、肯定とも否定とも取れるもの。

「ダメ……かな?」

 勢い込んで話した後の気まずさで、引きつった顔だったと思う。

「あのね……。1%の確率だったの」

 今度は、芹菜が決心したように話し始めた。俺への返事は一時保留。ホッとしたような、首を絞められるような感じで問いかけた。

「何が?」

 すると、芹菜は思いっきり頭を下げた。

「ごめんなさいっ!」

 腰を90度に曲げ、芹菜は謝った。

 その行為に、その場にしゃがみ込んでしまった。拒絶されることも予想はしていた。でも、いざそうされると、悲しみよりも虚無感が襲い掛かるものなんだね。

「そうだよな。あんなに酷いこと言っちゃったんだもんね。そうだよな。虫が良過ぎるよな」

 涙はなかった。どこかでこれが用意されていると思っていたから。

「あ、ごめん。そうじゃないの。竜平君の言葉はすごく嬉しいの。謝ったのは別のこと」

「え?」

 俺の反応に芹菜は困ったように言葉を連射した。その言葉に、冷静に対応出来るはずがない。

「薬局の妊娠検査薬で確かめたって言ったでしょ? その正確さが99%だったの。それを信じてたの。本当よ。でも、あのね。昨日、アレがきたの」

 その真実に、口をパクパクと動かす他なかった。アレとはつまり生理のことで、生理が来たということはつまり、妊娠などしていなかったということだ。

 そのことにようやく思考がたどり着くと、その場に寝転んでいた。両手を広げ、大の字で。そして、ただただ涙を流しながら笑っていた。

「俺たちって、ダメダメだなぁ。あんなに悩んで決心したのに……。すれ違いばっかりだぁ」

 何とも情けない声だった。でも、見上げた空のように、胸の中はスッキリとしたものになっていた。残念なような、ホッとしたような。

 でも、後悔なんてものはなかった。

「そうだね」

 芹菜の声は困ったように曇っていたけど、どこか嬉しそうでもあった。多分、この時の俺たちの心境って、似通ってたんだろうね。

「でもさ。もうこれ以上すれ違うこともないよ。もう、一生分すれ違ったんだから、後はずっと仲良くやれるよ。この掌の転機って、もっと前に起こってたんだよきっと。アイツを見たことか、ジョゼフさんに出会ったことか、芹菜と付き合うようになったことか、芹菜とキスしたことか、芹菜と繋がったことか、それとももっと他のことなのかは分からないけど、これから良い方向に向かっていくんだ。これからはきっと、楽しいことしか待ってないよ」

 寝転んだまま芹菜の目を見つめていた。

「そうだね」

 彼女の瞳は柔らかくて、湿っていて、歓喜を静かに含んでいた。

 視線がピタリと同じ波長になった途端、2人で笑い合った。ただただ無邪気に笑い合った。それから、掌を差し出したんだ。

 芹菜はその手を握り締め、彼女に手伝ってもらいながら起き上がった。

「改めて……、好きだよ。これからも、一緒にいて欲しいんだけど、どうかな?」

 芹菜は少し考える素振りをして、こう訊いてきた。

「いつから?」

 あの時よりも髪の毛は随分と長くなっていた。それが海から吹き抜ける風を受けて揺れていた。

「去年の体育祭の時。先生の手伝いで看板を創っただろ。その時」

 一字一句間違えないように、あの日の台詞を再現していた。そう言えば、俺の髪もだいぶ伸びていた。知らぬ間に、時間は僕らに成長を与えてくれていた。

「だったら、僕の勝ちだね」

 ニッコリ微笑みながら芹菜が抱きついてきた。だから、俺もしっかりと彼女を抱きしめた。


 視界は2人から遠ざかり、スッと上昇を始めて俺たちを見下ろす。そして、遠くから「カット」って誰かが叫んで、俺たちの物語はカメラから切り離される。

 きっと、これから楽しい未来が待っているはずさ。だから、心配しないで大丈夫。

 ここで、俺たちとはバイバイ。

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