第38話 私の話⑬ 薄れる感情
悪いことは重なるものです。
病院の一室で横たわる我が子を前にまぶたはすでに腫れ上がり、この先に伸びる真っ暗な道程を想像しながら祈るばかりでした。安堵感など、どこにもありませんでした。
会社への負債は、貯えを切り崩すことで乗り切ることは十分に可能でした。手を尽くせば、会社を取り戻すことも可能だったのでしょうが、すでに私の心は負けていました。むしろ、これから先の生活を考えれば、不必要な物を売却する他なかったのですから、未練への区切りをつけられると思ったほどです。
主人の保険金も一応ありましたので、親子2人でなら何とか生活していけると思っていた矢先のことだったのです。
目の前にいる子どもの小さな体に、巨大な病魔が襲い掛かったのです。治療には莫大な費用が必要であっても、残されたのはこの子しかいないのです。そもそも、我が子を見殺しにしようと思う親がいるでしょうか? これからの生活費を投入することに、誰が反対出来るでしょうか?
しかし、その全てが終わった時、現実は重く肩に圧し掛かってきたのでした。
我が子の命を救う代わりに注ぎ込んだ金額は、手元に残っていた資金の全てに近いものだったのです。ささやかな暮らしすら奪い取られた。そんな感じでした。
働きに出ることすら、今の私には許されません。せめて、我が子が学校に普通に通えるほどに回復してくれなければ、家を空けることは出来なかったのです。それ以上に、がんばっている我が子の側にいてあげたかったのです。
行き着いた結論は、家を売却する以外ありませんでした。私が今、こうして頭を抱えて悩んでいるのは、その結果が芳しくなかったからなのです。足元を見られ、買い叩かれた物件は、希望額の半分にもならなかったのです。
「お母さん。大丈夫?」
暗い病室にショウの声が心細く響きました。ハッと顔を上げ、急いで涙を拭き取ると、笑顔を作って「大丈夫よ」と、力なく言う他ありませんでした。この子に不自由な生活をさせるわけにはいきません。
世間は卒業式のシーズンで、窓の外には胸に赤い花をつけた女子高生の群れが通り過ぎていました。せめて、あの頃からでもやり直せれば……。暗く沈んだ未来は、どこにも光は感じられません。
沈んだ太陽は、いつか昇ってきてくれるのでしょうか。それとも、太陽が沈んだのではなく、電球が切れてしまったのでしょうか。そうだったとしたら、代えの電球はどこで手に入るのでしょうか。誰が付け替えてくれるのでしょうか。
窓の外の風景は冬の空から春へと流れ、遠くの公園には桜が舞い、やがて新緑へと変わっていきました。束の間だけ空を泳いだコイも見かけなくなった頃、ようやくショウは元気な体を取り戻したのでした。
もちろん、これからの長い人生に不安は付き纏いますが、医者の言葉を信じれば、普段の生活に支障はないようでした。普段の……という言葉が気にはなりますが、贅沢を言うのは罰当たりなことですよね。
ただし、問題は全く別のところにありました。
急激な経済状況の悪化です。住家だけは確保出来ましたが、明日食べる物にも困る生活寸前だったのです。
職探しを甘く考えていました。社長としてそれなりに実績があると思っていましたので、どこかが雇ってくれると思っていたのです。
ところが……。
どの企業も私自身の実績は評価してくれましたが、代表取締を奪われたような、子持ちで40半ばの女を雇ってなどくれなかったのです。知り合いの企業に頼ろうにも、あの男の根回しによって門前払いされる始末でした。
昼間しか働けない。特別な資格を取得しているわけでもない。経営のノウハウがあるわけでもない。使い難い人材と判断されるばかりだったのです。
親はなくとも子は育つとは言いますが、健康に不安のある子を放っておけるはずもありません。いつ小さな爆弾が小さな胸の中で爆発してしまうか、不安が消えることなどなかったのです。
そうであったので、職を選んでいる余裕などありませんでしたが、夜の仕事だけは出来なかったのです。やっとの思いで探し当てたのは、清掃婦の仕事でした。時間単位の仕事で、お昼の人手がちょうど不足しているということで、ピッタリの条件だったのです。小田切君の紹介があって初めて手に入れたものでしたが、久しぶりにホッと胸をなでおろしたのを覚えています。
そうして、いくつかの企業を回り、決められた時間の間ひたすら清掃業務に勤しむ毎日が始まりました。
そんな生活の中で、主人の死のことは薄れ、溜め息ばかりが募っていくのでした。自分の存在意義も薄れ、安らかな時間を懐かしむ日々。主人が本当に自殺だったのか、本当は殺されたのかも、感心はなくなってしまっていました。ただ、死んでしまったことを恨むばかりでした。
あなたの心は、支えがなくて倒れたままではありませんか。それとも、誰かを支え過ぎてボロボロになっていませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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