第13章
第37話 僕の話⑬ あの日の決心
肺の中の小さな袋に、当たり前のように溜まった空気が一気に空中に吐き出され、部屋中にわずかな気流を生じさせた。
ハッ! という音と共に両目を最大限に広げる。フトンに包まれた体には、蒸気が上がる程の汗をかいていた。悲鳴を上げなかったのは、我ながらよく耐えたことだと思う。
何とも嫌な夢だった。
列車に乗っていた。そこに溢れる乗客は、全て知っている人物だった。生まれてから出会った人物全員の顔があったのではなかろうか。小学校で成長の止まっている者もいたし、中学校で止まっている者もいた。そんな人込みを押し退けて列車の中ほどまでたどり着くと、そこにひとつだけポツンと置かれたテーブルに腰掛けた。
そのテーブルには、特別親しい人間ばかりが座っていたからだ。もちろん、小田切もいた。
そこでしばらく世間話をしていたような気がする。何を話していたのかは全く覚えていない。そんなことを吹き飛ばす台詞を聞いたから。
僕らが座っている席に、ひとりの女性が人込みをかき分けて寄って来た。ゆっくりと近づいてきたその女性は、妻だった。しかし、この夢を見た時の僕らは出会ったばかりで、交際すらスタートしてなかった。彼女がイスに腰掛けると、隣に座っていた女友達が「この子、今度ママになるのよ」って口にしたのだ。
途端に強烈な胸の痛みに襲われ、夢から覚めるように念じたのだった。
これが、きっかけだった。
妻と出会ったのはその1週間前で、必死になってそのことから目を背けていたけど、こんな切なく心苦しい体験をさせられたのでは、無視出来ないなと思って、勇気を振り絞って彼女に電話をしたのだ。
「あ、元気? あの、僕だけど、覚えてるかな。別に大したことじゃないんだけど、ないんだけど……。いや、大したことかな? ……あの、お付き合いしてくれないかなぁーと思って」
こんなぎこちなくて情けない告白だったはずだ。よくまぁ、彼女も承諾してくれたものだ。
2人とも、失敗を経験してきた身だった。だから、お互いを尊重し合えたのだと思っている。押すところは押したし、引くところは引いた。ぶつかることも遠慮なく出来たのは、彼女が初めてだった。
僕らの交際はまるっきり無計画だった。気の向くままに、衝動に突き動かされて行動していた。買い物に行きたかったら行ったし、ドライブがしたかったらドライブをした。テレビに映る桜を見ていたかと思ったら、互いに無言で準備を始め、そのまま徹夜で高速を飛ばして大阪の造幣局の桜を拝みに行ったこともあったほどだ。
その頃は学校にまじめに通っていたので、年がら年中そうだったわけではない。けど、時間を作っては必ず2人で過ごしていた。全然暇ではなくても、暇な時間を無理やり作っていた。それくらい2人でいることの方が自然だったのだ。
同じコンビニで一緒にバイトをするようになったのも、その延長だったのではないだろうか。
彼女が勤めていたコンビニに僕が押しかけたのだ。押しかけたといっても、彼女の推薦で面接をパスしたというのがホントだ。
案外昔から彼女にお世話になりっぱなしだな。ホントに、感謝の言葉を伝えられないのが口惜しい。
とにかく、僕らは交際を始めてから半年ほど経ってから、半同棲のような生活をスタートさせた。半同棲といっても、週に3日程度を彼女の部屋で過ごしただけだから、半同棲の一歩手前くらいだろうか。そんな気兼ねない日々の中で、彼女の夢を知ったのだ。それは、またしても互いの距離を近づけてくれた。
当時の彼女の夢は、プランナーではなかった。もっと漠然としたものだったのだ。それは、僕も同じだった。僕らはその時、同じゲームをやっていた。そのゲームのお陰で、「そうだったんだ」と自分のモヤモヤの正体を知ったのだ。
それが「ツクリテ」という存在だった。僕も、彼女も、その「ツクリテ」という存在に憧れてしまった。まだ、どんな作り手になりたいのかまでは分かってなかったが、それは強烈に僕らの脳細胞に刷り込まれた。
彼女の夢は次第にゲーム制作へと道を定めて突き進み、僕は映画制作に進んだだけだ。互いに、幸運に恵まれそれを実現出来ただけだ。僕に至っては、おこぼれもいいところだ。そのツケが今の状態なのかな。
2人の共同生活自体はそのまま平和に時間を重ねていった。少し違ったのは、彼女は夢を突き詰めることに専念したのに対し、僕は現実を選択した。
コンビニでのアルバイトも、1年と経たずに辞めてしまった。今回は就職活動が理由だった。夢があると言いながらも、具体的な行動に移らない人間よりも、安定した給料を得る。それが、選んだ道だった。
その頃から、頭には結婚の二文字があったのかもしれない。夢に向かっている彼女をサポートしてやらなければと勝手に思い込んでいたのだ。
伸び放題だった髪の毛も、当り障りのない長さにした。先端に残っていた人工的な色も染め直した。真っ白なシャツに紺のスーツ。
そうやって、最後の戦場へと向かう準備を整えたのだ。
夏の日差しに耐えながら、いくつもの企業を回り、試験を受けまくった。大学には最初、顔を出してなかった割には成績も優が多かった。結果は、他のライバルたちに比べると良好だった。
駆けずり回って獲得した内定は、冬には4つになっていた。すでに就職難と呼ばれて久しい時だっただけに、自分でも驚いたものだ。
その結果がなかったら、さすがに卒業と同時にプロポーズなんかしなかっただろう。人よりも何とか出来る自信が生まれていたからだ。ちょっとだけ、自分の資質に自惚れていたように思う。
現実は、散々だった。
結婚資金もろくになかったので、結婚式も挙げていない――挙げる資金は出来たけど、準備に取り掛かる時間がなかった――。婚姻届の紙切れを2人そろって提出しただけだった。初任給も安かった。2人で生活するのでやっとだった。
早朝から出勤して倉庫の管理をやらなければならなかったので、起きるのも早かった。帰るのも比較的早かったけれども、慣れないことに疲れた体では思いやりも湧き上がってこなかった。次の日に備えて早寝が習慣になった。
2人での共同生活。そんな実感など、この頃はまるでなかった。たまの休日に2人で映画を観に出かけても、新婚気分ではなく恋人の延長だった。結婚していたっけ、って何度思ったか分からない。充実なんて程遠かったのだ。
それでも妻が文句を言わなかったのは、確固たる目標があったからだ。相手にされなくても、自分の夢を実現させることが生甲斐だった。
心が休まる時間もなく、散々だと思ってしまう時間の中でも、それをサポート出来ているのだと思えたから、がんばれたのだと思う。お互い「いつか」のために一生懸命だった。
僕らの転機は、30歳を目前にした冬に突然やって来た。その年の元旦だった。妻が初めて買った年末ジャンボが、札束の山に変わったのだ。
妻も、最初は貯金でもして呑気に暮らそうかなんて言っていた。そんなことを言う彼女に対して、何も言わなかった。醜くなりたくなかったからだ。妻の決定をジッと待っていた。
いや、ジッとなんかしてられなかった。自分の存在意義が崩れ去りそうで怯えていたのだ。それを、必死になって隠していた。いつなのか分からない決行日を待たされる死刑囚の心境って、これに近いのだろうか。
2月の半ばだった。妻は、1枚の紙を持ってきた。そこには、現在使っているクロスGのマークが描かれていた。それを前にして、妻はこれからの展望を語ってくれたのだ。
最後に、僕にも手伝って貰えない? って尋ねてきた。
僕は、はにかんだ表情で即決していた。
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