第36話 俺の話⑫ 身から出たサビ

 この場所は、どこと捩れて繋がってるんだろうか。余りにも多くの出来事がここで展開され過ぎている気がする。

 その中でも、この日の出来事は、俺の心を容赦なく切り裂くものだった。


 それは、ひとつのメッセージから始まった。《会いたいよぉ》芹菜からのものだった。

 1週間以上経ってようやく熱が引いてきたところだったので、《いいよ》って返事を出した。

 それから1時間ほどして再びメッセージが届いた。

《今、下にいます。降りて来られない?》芹菜から。

《ちょっと、待ってて》俺。

 この日は日曜日で、家には両親がすでにいた。外はだいぶ暗くなっていて、秋の夜長に片足は突っ込まれていた。

 躊躇いがあったのは事実だ。自分の気持ちが分からなかったし、芹菜のことも分からなかった。何のために彼女が来たのか、身構えていたのはしょうがない。

「お待たせ」

 しばらく使っていなかった声帯は上手く声を出してくれなかった。

「あ、ごめんね。急に呼び出したりして……。大丈夫?」

 そんな芹菜の表情を見た瞬間、こっちが心配になっていた。明らかに彼女の方が顔色は悪かったからだ。恐怖に打ち震え、生命維持のための機能がなくなってしまっているようだった。

「俺はもう大丈夫だよ。それより、どうしたの?」

 知らず知らず体が震えていた。良くないことがこれから起こることに身構えていた。

 しかし、芹菜はそれから口を鎖してしまった。不安と動揺が全身から溢れているのは容易に悟ることが出来たけど、それがどうしてなのか、分かるはずもなかった。

「どうしたの?」

 思い切って再度訊いてみた。その声は、芹菜の動揺が伝染ったように震えている。

 その問い掛けに、芹菜は泣き出した。声も上げず、ただポロポロと涙を瞳から溢れ出させたんだ。そうかと思ったら、抱きついてきた。頼りない胸に飛び込んで、声を殺して泣き始めたんだ。

 泣いて、泣いて泣き続けて、俺の服は涙の跡で大きな模様を作っていた。それでも芹菜は泣き止まなくて、いたずらに俺の心を不安にさせた。

「芹菜。泣いてばかりじゃ分からないよ。どうしたのか、話してくれよ」

 押し潰されそうな心臓は、悲鳴を上げながら鼓動を続けていた。引いていた熱もぶり返したように、顔面に血液は集合していた。

「…………」

 夏休み前のあの日のように、その言葉は最初、耳には届かなかった。弱弱しい声だったし、しゃくり上げる声も混ざっていたからだ。

「え? 分からないよ」

 もしかしたら、聞こえていた言葉を否定したかったからかもしれない。聞き間違いであって欲しいという願望だったのかもしれない。

「デキちゃったみたい」

 その告白で、一瞬にして呼吸を奪われた。心当たりがあるだけに、頭は真っ白だった。

「どうしよぅ……」

 本当に、どうしようだった。

「どうするって、育てられないだろ……」

 ギュンギュンと高速で思考は回転するばかりで、どこかに解決策があるはずもなかった。

「それより、デキたのって、確かなの?」

 そうであって欲しくないという最後の望み。

「確実ではないと思うけど、アレがこないから、薬局で検査薬買って試してみたら……」

 再び泣き出してしまった。俺も、泣きたかった。2人の戸惑いは解消されることなく、共鳴するように膨らんでいった。

「ねぇ、私、産んじゃダメ?」

 何を思ったのか、芹菜は突然そんなことを言い出した。

「そんな。無理だよ。何考えてるんだよ」

 慌ててその意見を却下した。賛成できるはずもない。

 それでも芹菜は食い下がってきたんだ。

「私、一杯悩んだけど、悩んで悩んで考えて出したことなの。ねぇ、産ませて。竜平君が相手とは誰にも言わないから、お金を出せとか言わないから……。ねぇ」

 普通の人ならどう思うんだろう。この時の芹菜の言葉を聞いて、抱きしめていた両手の力が抜けてしまったんだ。

 芹菜がそう考えていた訳じゃないだろうけど、俺にはこう聞こえたんだ。それは、目の前の物とは別の映像を伴って脳裏に突き刺さってしまった。


『お前にお金の相談なんかしないわよ。どうせ、無責任に逃げてしまうんでしょ!』


 少なくとも、責任を取れる器を持ってない、頼りなく底の浅い男と考えているようには感じられたんだ。それが体中を駆け巡ると、表情は息絶えてしまっていた。

「竜平君?」

 そんな普通とは異なる変化に、芹菜は敏感に反応した。

「責任も取れない男で悪かったね」

 ボソリと吐き出した言葉が、ここで終わればまだ良かったのに、今まで溜まっていた不安や猜疑心が一度に押し寄せてしまっていたんだ。

「それより、その子は本当に俺の子どもなのか? 夏休みの最後の日に逢ってた奴のじゃないのか? 俺、知ってんだぞ。あの日駅で男と一緒だったってことは」

 吐き出した言葉は、生まれてしまった言葉は、消去することは出来なかった。言ってしまってから口を左手で覆い隠し、居た堪れなくなってフラフラとその場を去ってしまっていた。

 その時の芹菜の表情は、悲し過ぎて俺の口からは言えないよ。


 ……っは!


 静かな俺の部屋に、ゴクリと唾を飲み込んだ音が響いた。汗は額から流れ落ち、顎の先端から滑り降りる。時計を眺める。どうやら丸2日の食事と睡眠の剥奪のせいで、意識を失うように眠っていたらしい。

 絶食3日目だというのに、食欲はなかった。ただ、喉が渇いた。部屋の外の気配を一度確認すると、そっと部屋の鍵を開け暗闇の中に足を踏み出す。

 ゆっくり、ゆっくりキッチンへと忍び寄る。音を立てないようにコップを棚から取り、水道の蛇口を捻る。糸のように細い流水をコップに蓄え、一気に体に放り込んだ。

 一服つく暇もなく、両親が起きてこないうちに、そそくさと部屋へと帰る。

 そうやって、部屋でダラダラと過ごす。

 俺は芹菜の心を引き裂いてしまった。俺の心も、俺が容赦なく切り裂いた。

 酷い男だと頭を抱え込んでいるだけで、どうにも出来ない自分に無性に腹が立った。怒りが湧き上がる度に情けなくなり、涙を流す度に憤りが込み上がる。

 自分を許すことなど出来るものか。

 芹菜の妊娠を知った男のとった最低な行為が、脳裏に映し出される度に絶叫しそうだった。芹菜の表情を思い出す度に内臓はグチャグチャに何かが引っ掻き回した。吐き気を覚えても、吐き出す物はここ数回なくなっていた。胃液が数滴垂れ落ちるのみだ。


「あれは……、私のお兄ちゃんだよぉ」


 背後から届けられるすすり泣く台詞に、脳細胞はなおさら怒りを生み出していた。たったそれだけのことに神経をすり減らし、憤り、慌てふためき彼女を傷つけてしまった。

 芹菜の声が頭に響く度に、壁に頭を打ち付けていた。この最低ヤローって。

 もっとサイテーなのは、そんな彼女の言葉すらも信じきれない自分がいたってことだった。

 

 芹菜のお腹に新たな生命が存在する。そのことにはなぜか猜疑心を抱かなかった。「みたい」と言っていたことが却って現実味を与えていたのかもしれない。

 時折イメージがわき上がった。眩い光を放つ芹菜のお腹が膨らみ、その膨らみだけがズボッと闇に落とされるんだ。産声を上げることも許されずに死を渡される生命。

 その光景は、アイツの背中と重なった。

 死へと堕ちるために存在する我が子。そんなことしか今の俺には選択出来ないんだ。それ以外、どうすることができようか。まぶたを腫らし泣き続けても、結局、無力なんだ。

 それでもあの時、アイツに手を差し伸べられなかった己の後悔は大きかった。何も出来ない状況だったのは分かっている。しかし、何もしなかった事実は変わらなかった。

 目撃者である自分を憐れに思い、思い悩むフリをしながら、特別な存在なのだと悦に浸っていた。なんて自分勝手な生き物だ。

 自分を変えるべきなんじゃないだろうか? そう思ってみても、育てることなど到底叶わぬことだ。では、見殺しにするしかないのだろうか? 結論が出ることなく、思考は再び芹菜のすすり泣く声に取って代わり、壁に頭を打ち付ける。


 疲れ切っていても、眠気は一向にやってこなかった。地道に時計の針は移動を続け、ついにはアイツと出会った時間になっていた。それでも太陽はまだ見えず、白い水平線が夜明けを知らせるだけだ。

 ベランダに立って、昇ろうとする太陽を眺めていた。空気はいつの間にか冷たくなっていて、夏がここにはいなくなってしまったことを教えてくれた。

 そんな時だった。思い出したように自分の掌を見つめていた。

 期末テストの時に見つけた2本の線は、まだそのままだった。

 あの後、芹菜と初めてキスをした。それに舞い上がって彼女を傷つけて、夏休み中会えなくて、会えたと思ったらその日に芹菜と繋がって……。直後に生まれた猜疑心で勝手に傷ついて、そのまま彼女を傷つけた。

 どれだけ芹菜を傷つけたらいいんだろう。

 じっと掌を確かめる。この暗号文の中に、その答えは記されているのだろうか。

生命線の末端部分から中指の付け根に向かって真っ直ぐに伸びる追加された線を睨みつける。途中で切れて2本が重なっている不吉な線。

 俺は本を引っ張り出して調べていた。そして、その線の正体を知った。

 それは、人生の変化や運の強さを示す運命線だった。切れていることにも、意味があった。自分の出した答えを支えてくれているような、そんな不思議な感覚だった。

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