第35話 私の話⑫ 憎しみの最果て

「それで、どうやってその負債は解消したのですか?」

 分かりきった答を要求している。それくらいのことは自覚していました。それでも、どうしても確認しておく必要があったのです。

「何だ。分かりきったことを訊くものですなぁ。ご主人の保険金ですよ。それ以外に方法なんてあるわけないじゃないですか。元々ご主人が言い出したことだ。会社の金を個人的な理由で使えるはずもないでしょう。あんなもの、ご主人の娯楽から始まったものなのだから」

 ひとりの人間の命が失われた事実には、少しも心を動かしていない。彼の口調には淡々とした闇が塗り込められていました。

 今までこの会社で、一番人間臭いと感じていた人物が、この世の住民としての知性を廃絶していたのでした。隠し持った狂気を、露にしていたのです。

 悔しかった。信頼していた人物に呆気なく裏切られることが、貶めようとしていたことが、主人の夢を、あんなものと呼ばれることが……。その想いは、ギュッと奥歯に収縮していました。

「そうそう。保険金だけでは足りませんでなぁ。ご依頼されていた通り、お宅の財産を全て、売却させていただきましたよ」

 感情の流れを留めている間にも、彼は何者をも認めない視線のまま言い放ったのです。ややもすれば、その表情は嬉々とした笑みを含んでいるようにも見えました。

 我が家の財産? 戸惑っていました。全く思い浮かばなかったのです。それは、私の顔面へと直通で流れ込んだようでした。

「思い当たりませんか。クックック……。他にないでしょうに……、ご両人の持ち株ですよ」

 ドクン。心臓だけではなく、体全体が脈打ったような感覚でした。視界は歪み、血液は高速で駆け巡り、体内でグツグツと沸騰してしまったように背中からドッと湧き上がる汗を感じました。

「我が家の持ち株……、何を言っているんですか? 私は株の売却を依頼した記憶はありませんよ?」

 視界はグラグラと揺れ動いていました。もしも、もしも目の前の男が思っていた以上の狡猾な人間だったとしたら。

 主人が亡くなってから手元に届けられた書類が頭を過ぎりました。機械的に彼の指示に従うだけだった作業の数々。

「そうですか。おかしいですなぁ。この最新の資料にはお宅の名前は記載されていませんがね」

 落ち着く間もなく副社長は1枚の資料を取り出しました。そこには筆頭株主の名前と共に複数の大株主の名前が記載されていました。しかし、確かに主人の名前はおろか、私の名前すらなかったのです。

「そんな……」

 それ以上言葉が続きません。

「まさか、ご自分でサインをしたのに、それを知らなかったとでも? それとも、まさか、私が持っていった契約書には全く目を通さなかったとでも?」

 これ以上ないほどの満面の笑みで、言葉という名の刃を突き刺したのです。

 悟りました。この男は、主人の死で混乱しているのを良いことに、書類の塊の中に売買契約書でも紛れ込ませたのでしょう。もしかしたら、もっと狡猾な方法だったのかもしれませんが、私では見当もつきません。しかし、重要なことは、筆頭株主の箇所には彼の弟の名前が記載されていることです。

「おや。その顔はご理解されている表情ですなぁ。ご立派ご立派。曲がりなりにも代表取締だったようですなぁ」

 感情のこもらない瞳で崩した口元。ポッカリと闇に落ち込む目の光。悪魔の微笑み。そうとしか、思えませんでした。

 彼はこの結末を迎えさせるために映画の制作を推し進めていたのでしょう。直感的にそう悟っていました。何も言えません。心を握り潰す敗北感に耐えるので精一杯だったのです。

「今度の株主総会まで待とうかと思いましたが、その必要もないでしょう。映画制作における巨額の負債の責任を取って、代表取締役を降りて頂きますよ。幸い、偶然にもご主人の保険金で損害は免れましたがねぇ。ああ、ご安心ください。これからは私が代表取締役になる段取りですので。ククク……。これからは、この会社は私の物だ」

 グッと奥歯に力を込めることしか出来ませんでした。そうしていなければ、瞳から涙が溢れるのは簡単なことだったのです。しかし、泣けばさらに惨めになる。

 絶望。これは、この時の私のためにあった言葉なのでしょうか。そのためだけに、太古の昔から脈々と受け継がれてきた言葉なのでしょうか。

 この状況に塞ぎこんでいる私に、彼は容赦するということを知らないように切りつけてきたのでした。

「まだ、返済は終わっていないんですなぁ。ご主人の作った借金をその奥様が返すのは、道理というものでしょう。残りの2000万円。きっちり返済して下さいよ」

 クツクツクツと嘲笑うような、いやらしく渇いた声。暗く陰鬱で、べっとりと湿った舌で嘗め回すような不快感。この頼りない体では、すでに耐えられないほどの裂傷が無数にできていました。傷の上から傷ができ、滲み出る体液が乾かぬうちにまた傷つけられる。

 何かを言わねばならないのに、言葉はどこからも生まれず、濁った感情ばかりが脳を動き回る。傷口に埋もれたウジ虫のように、ウネウネと這いずるばかりの簡素な思考もすぐに熔けて蒸発し、解決策はどこにもありませんでした。ただ単に、その蠕動は痛いだけなのです。

「そうだ。もうあなたはいりませんので、すぐに出ていって下さい。簡単な話、解雇です。あなたは優秀かもしれませんが、安い給料で働いてくれる新人で、才能ある者なんて、どこにでも転がっていますからなぁ。色々と理由を付けて懲戒解雇でもいいのですが、今後の生活もあるでしょうから、依願退職という形にしていただけると、こちらとしては助かるのですがねぇ」

 何本目かのタバコを灰皿にグシャリと押し付けながら笑っていました。彼の心には慈悲など元々ないのでしょう。徹底的に私を闇に堕として、這い上がれないようにするつもりなのでしょう。

 震えていました。どうすればいいのか叫びそうでした。狂う手前の情けない姿でした。それでも、最後にこれだけは確認しておかなければならなかったのです。そのために、ここに来たのですから……。

「主人は、本当に、……本当に、自殺、だったのでしょうか?」

 その言葉を聞いた途端、彼の顔からスッと全てが消えました。蝋人形のような無表情。冷たく、その存在だけで周囲を刺すような禍々しさ。

「この私がアイツを殺したとでも思っているのか? あれは、間違いなくアイツの自主的な行為なんだよ。あんたは、アイツに捨てられたんだ。どうせ、何かの間違いで社長なんてものになったんだ。とっとと、分相応な暮らしに戻りな」

 そう言うとイスをきしませながら急に立ち上がり、むんずと私の腕をつかみました。ギリリと締め付ける握力の強さに呻き声を上げても、彼の動きは少しも弱まりません。引きずるようにドアの所まで連れて行くと、投げるように部屋から追い出したのでした。

 忘れることはないでしょう。最後に見せた激昂した眼差しを……。憎しみの最果てが、そこにはあったのです。


 あなたの心は、希望に燃え過ぎて真っ白な灰になってしまっていませんか。それとも、火が点かないほど湿った絶望に苛まれていませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。

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