第12章

第34話 僕の話⑫ 雨は誰にも止められない

 初めて親の偉大さを知ったのは、大学生になってからだった。普通に生活することが、あれほど大変だなんて、思ってもいなかったのだ。

 それほど裕福な家庭の出身ではなかったから、当然仕送りなんて高が知れていた。家賃と食費、光熱費を払うと、手元にはほとんど残らなかった。

 そうやって、初めて労働への意欲が湧き出てきたのだ。生活費は何とかなっても、遊ぶ金は全くといっていいほどなかったのだから。

 遊ぶ金といっても、そのほとんどは映画のレンタル代だ。そんなわずかな金額も自由にならなかった。

 高校まではアルバイト禁止で、それをまじめに守っていたから、大学生になったらアルバイトをしなければならないという強迫観念のようなものもあったのだと思う。大学の掲示板に張り出されていた場所へと緊張しながら電話をし、早速面接を受けに行った。

 笑ってしまうかもしれないけど、その時その場所で面接官に会うまで、履歴書なんて物の存在すら知らなかった。几帳面そうな黒ぶち眼鏡をかけた面接官に問われて「は?」という間抜けな顔をしていたのだ。世間知らずもいいところだ。

 言うまでもないが、その仕事場で働くことはなかった。


 結局、正式にバイト代を受け取るようになったのは、それから半年ほど後になってからだ。どうしてそれほどの間隔が生じたのかと言えば、自分の居場所は相変わらず見つからなかったし、映画に囲まれた生活は至って快適だったからだ。汗水垂らして働くよりも、家でダラダラ過ごす方が楽なのは、当たり前のことだった。

 その頃、持っている能力なんて何もなかった。唯一持っていた免許を使う仕事が、初めてのアルバイトだった。車の免許は取得の最終段階だったけど、取得している訳ではなかった。

 その職業は、ピザの宅配人。必要なもの、原付免許の取得。他には一切制限はなかった。年齢も性別も性格も。

 車の免許はまだ持っていなかったけど、高校時代の通学に必要だったので、これだけは持っていたのだ。5キロ離れた大学にも原付で通っていた。

 性格は重視されないといっても、人見知りの僕が拾われたのは、単なる偶然だった。その店の店長が、たまたま同じ高校の卒業生だったのだ。遠い異郷の地での、ささやかな奇跡。

 共通の話題さえあれば黙る必要もなかった。幸い、軽度の人見知りになっていたからだ。

 大きな歯車を動かすのと同じで、静止状態の重い物体を動かし始めるまでは時間と手間がかかるけど、一度動き始めた歯車は、その物体自身の重さのためにスムーズに大きなエネルギーを生み出してくれる。

 初めての仕事に慣れるのも、そんな感じだった。

 電話の受け取り方、伝票の入力方法、ピザの種類、地図の暗記、などなど。バイクの運転以外は何もかも覚えなければならなかった。覚えるのは早い方だけど、覚えた仕事を実行に移すまでが時間がかかってしまった。一度実行に移してからは優秀な方だったと思っている。

 懐かしいな。

 雨の日も風の日も、台風が来ようが、雪で路面が凍結していようが、ニーズがあって実行に移せると判断されれば走っていった。どんな悪条件であっても、ピザが出来上がっていれば、躊躇わずに店から飛び出していた。当時のメンバーでは、一番の宅配件数を誇っていた。

 時には道に迷うこともあったし、肝心のピザを落としてグチャグチャにしてしまうこともあったが、他のバイト生に比べれば断然少なかった。人が15件しか配れない日でも、僕だけ25件走っているなんてこともあったくらいだ。記憶力の良さと、適度な器用さが求められる仕事だったから、僕向きの仕事だったのだと思う。

 学校という空間以外で仲間が出来たのも、この時が初めてのことだった。年下も年上も入り混じり、かといって部活のような明確な先輩後輩の壁もなく、自分の感性を広げられた場所だったと思う。何となく、自分の居場所もそこに見つけることが出来たのだから。そこで働くことは、楽しいことだったのだ。

 時間が経ってみると、あの場所で働いていたというのが、随分役に立ったのだと思っている。

 そんなに楽しいと思っていた仕事場であっても、辞めようと思うのに時間はかからなかった。確か、1年ちょっとしかいなかったのではないだろうか。

 原因は、宅配先でのトラブルなんかではない。そんな単純なものではないのだ。

 時には変な客にぶち当たってしまっていたのは、否定はしない。

 そりゃもう、ホントに変だから……。

 ある人は、玄関のブザーを鳴らさずにノックをしたことに腹を立てて怒鳴りつけてきた。ちなみに、最初ブザーを何回か押しても鳴らなかったからノックをしたのだ。悪意があってドンドンとドアを叩きつけた訳でもない。本人も、何回もブザーを押してやっとで鳴ったくせに、まだ怒っていた。まるで、自分が怒ったことに怒っているようだった。

 そう言えば、来るのが早いと怒った人もいたかな。

 人間、何に怒るか分かったものではないと教えられた出来事だけど、仕事を辞める必要は全くない。一先ずスミマセンと頭を下げればたいてい引き下がるからだ。


 辞める数日前、仕事場の忘年会があった。忘年会に限らず、飲み会は仕事が終わって店を閉めてから、休み組と出勤組が合流するのが常だったので、二次会からが本当の会になる訳だ。

 そうなると、店は22時までオープンしているので、掃除や翌日の準備等の作業、売上集計等の締めの作業までやると23時になってしまう。つまり、それからが本当の忘年会の時間だった。

 始まるのがそんな時間だったので、終わるのは早くても深夜2時過ぎってことになる。すると、その時間に終わって困るのは、車もバイクも持っていない人間だった。たいていは学生アルバイトだから、タクシーなんて贅沢な物は使えないし、公共交通機関なんて便利な物が、そんな時間に走っている訳もなかった。

 その日も店を出てから問題になったのは、移動手段を持たない人間をどうやって帰すかだった。

 今まではそれほど重大な問題にはならなかった。しかし、その日は違った。どういうわけか、車で来ているのがひとりしかいなかったのだ。

 しかも、バイクで来ていた奴が2人も泥酔してしまって、そいつらを乗車させるのが優先された。そいつ等の家の方角に合わせてメンバーを詰め込んでも、どうしてもひとりだけ乗り切れなかった。

 どうしようかと皆して頭を抱えていたけど、残された女の子は何とかしますと笑いながら車の集団を見送ることになったのだ。僕は、その場に残されていた。バイクでシラフだったから。

 

 随分時間が経ってから知ったことなのだが、このことは偶然なんかではなく、皆が仕組んだことだった。皆して、僕がその子を好きだと勘違いしてしまっていたのだ。皆、僕に彼女がいないことも知っていた。しかも、悪いことに、その子も満更ではなかったっていうのが、この結末に至る原因だった。

 皆に吹き込まれたその子は、酒の力も手伝って、かなり積極的だった。残された者同士、少し話をしていると、突然その子がこう言ってきたのだ。しかも、腕に手を絡ませながら。

「ねぇ、バイクで来てるんだよね? 後ろに乗せてよ」

 見上げるような上目遣いで、瞳を目一杯広げて、若干潤んで艶かしい感じを演出しているようだった。意識してだか、僕の腕を自分の胸にも押し当てていた。

 ところが、僕はそれを断った。

 別に、本当は誰かと付き合っていたわけではない。女性の体に溺れたい欲望だって下半身から溢れんばかりだった。

 ただ、どうしても自分のポリシーとして、バイクの後ろに女性を乗せるのを許すことが出来なかったのだ。これは、高校時代から現在に至るまで、一貫して厳守していることだった。

 だって、危ないじゃないか。

 原付バイクはひとりで乗るのを前提にして作られた道具だ。原付でなくても、二輪車は不安定な乗り物で、転倒するのを念頭に置かないといけない。自分の運転技術を知っていても、過信出来るキャラではない。後ろに乗せるのが男なら、コケてケガしても治療費で済むのかもしれないが、女性の場合は、あの年齢では責任が持てないのは明白なことだった。

 しかも、クダラナイ美学として、それを諭すのはカッコ悪いことだと思っていたのだ。だから、彼女にはただ「ダーメ」としか言えなかった。

 どうしても首を縦に振らない男に業を煮やして、その子は怒って帰ってしまった。どうやって帰ったのかも知らない。もしかしたら、歩いて帰ったのかもしれない。今になって思えば、酷く彼女のプライドを傷つけた行為だったと反省はしている。

 でもねぇ、だからといって……。


 後日、難しい顔をしている店長に呼ばれた。その店長は、採用してくれた人ではない。その数ヶ月前に、恩人の方は栄転になっていたからだ。

 忘年会から3日と経たないうちから、皆の僕に対する態度が変わったことにうすうす気づいていたので、何かあったのかなとは思っていた。

 ところが、その時店長から訊かれたことは、予想を完全に越えてしまっていた。

 その日、狭く仕切りもない、灰色の机がひとつしかない事務室で、店長は冷たい視線で問いつめるようにこう尋ねてきた。

「三倉君をホテルに無理やり連れ込んで襲ったって言うのは、本当かね? 財布まで盗っていったらしいじゃないか」

 薄っぺらな腹筋の奥に潜り込むようなボディーブローを食らったような感じだった。一気に胃袋が押し上げられ、硬直し切った食道を胃液が逆流して、吐き気をもたらすショックだった。三倉君とは、勿論、バイクに乗せるのを拒んだ女の子だ。

 言葉にならなかった。

 その後、どれほど必死になって反論しても、皆の見る目が変わらないことを知った。誰も見ていないことを口に出したら、それが真実になることを思い出した。そこで下した決断は、最低なことに、逃げることだった。そうする以外に、出来る行為は残っていなかった。

 今であればもう少しやりようもあったのだろうが、当時の僕は説得する技術も持たず、味方も証拠もなく、戦う術がなかったのだ。

 人間の心はつかみ所がないし、平気で誰かを貶める。それは、自分自身にも経験のあることで、どうしようもないことだと思っていた。

 雨が降るのを止めるなんて、誰にも出来ない。そういう自然現象みたいなものなのだ。たまたま、その災害に巻き込まれたのだと自分に言い聞かしていた。傘を捜す余裕は、残念ながらなかったのだ。

 

 それであの頃はあんなに塞ぎ込んでいたのだろうか。妻に出会ったのは、それから少し後のことだ。うーん。届きそうで届かない目の前の真実だ。

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