第33話 俺の話⑪ 死に損ないの愛

 順風満帆な未来。目の前にはそれしかないと思っていた。何とも浅はかなり。と言うより、人間の心って、安定を弾き返すことしか考えていないようだ。

 人間の……、俺のか。


 不満があったわけじゃない。早朝の小さなデートも再開されたし、その後のキスも夏休み前と変わらなかった。体育祭の準備もワイワイ楽しく出来たし、休み時間のお喋りも楽しかった。あれから3週間で、2回も芹菜と繋がった。

 でも、2人の関係にどこか違和を感じていたんだ。

 たまに、芹菜がとても遠くに感じてしまう瞬間があった。それは瞬間だから「あ」って思う前に頭から消えてしまうのだけど、独りになるとサクっと胸に突き刺さる。6

 シャーペンの芯よりも極細で、痛みもそれほど感じないんだけど、どんどん体の中で合体して複雑な形になってしまう。

 芹菜はあの日からキレイになっていた。

 元々キレイだった表情に、余裕というか、品というか……、そんなモノが追加されていた。

 大人の女性っていうのかな。ボーイッシュだった女の子の面影は消えていた。

 それに比べて、鏡に映る男には変化がなかった。大きな前進を感じながらも、基本的にはまだ高校生のガキだった。体は完全に大人になっている。それは多分そうなのだろうけど、精神っていうのかな。そこがはっきりしないんだ。目に見えた変化はなかったんだ。

 芹菜を遠くに感じる理由は他にもあった。心の中に、よそよそしさが生まれていたんだ。彼女を傷つけないように、嫌われないように言葉を選ぶようになっていた。ただ、これは言った方がいいのか、言わない方がいいのか判断するための基準がないから、瞬発力が生み出す言葉のほとんどは却下されていた。

 言いたいことも言えない関係って、良好とは言えないよね。

 もうひとつ。未だに訊けていないことがあった。夏休みの最後の日、芹菜を見かけた時に一緒にいた男は誰だったのか。どういう関係なのか。訊けなかった。

 訊こうと思う度に、心は硬直してしまうんだ。出かかった言葉は飲み込まれていた。「どうしたの?」って逆に訊かれて「ううん、なんでも……。好きだよ」って答えるばかりだった。

 芹菜のことを信じていないわけじゃない。にもかかわらず、脳は別の映像を創り出すんだ。

 俺のいない所で、あの時一緒だった奴とベッドに横たわっている芹菜を……。裸で喘ぎながら絡まっている芹菜を……。そうやって、俺のことをバカで幼稚な男と嘲笑ってるんじゃないかって、考えてしまうんだ。

 この猜疑心は強力だった。何しろ、芹菜を好きという感情に勝ち始めてしまったのだから……。

 日に日に、芹菜に会うのが怖くなっていった。


 だからとは思わないけど、俺は寝込んでいた。考え過ぎた頭がオーバーヒートを起こしたように、39度オーバーの体温で唸っていた。

 面会謝絶のメッセージを送るのが精一杯で、皆からの返事を確認するのも億劫だった。体中が痛くてオチオチ眠ってもいられなかった。しかも、弱った体と弱った精神で睡眠を取っても、休養にはならず悪夢に変換されるだけだったのだ。

 仕方がないので、日がな一日、虚ろな目で窓の外を眺めていた。体中の熱を吐き出すように息遣いは荒かった。ベランダの手すりが邪魔で海は見えなかったけど、秋晴れの空はじっくり鑑賞できた。同じ青であるはずの色彩はわずかに変化していて、夏を遠くに感じていた。

 気がつくと、隣には背中しか知らないアイツがいて、一緒に窓の外を眺めていた。横顔をチラリと見たい誘惑もあったけど、見た瞬間に消えてしまいそうで、その不確かな存在に体を預けるだけだった。

 このまま死んでもいいのかもしれない。その迎えに来たのかな……、なんてことも考えたかな。

 苦しかった。悲しかった。寂しかった。心細かった。空を飛びたかった。自由になりたかった。

 ベランダの空気は若干冷たくて、日陰になっていたコンクリート製の手すりはヒンヤリしていて、火照った体には気持ち良かった。

 風は大海原を駆け抜けた速度のまま障害物を駆け上り、前髪をかき上げてくれていた。

『set me free like a bird』お気に入りのフレーズだ。俺たちは、いつの間に囚われの身になってしまっているんだろうね。

『set me free like a bird』鳥のように束縛から解き放たれたい。

 手すりの上に立ったグラグラ揺れる体を、少しは安定させようと努めてみた。最後に見る風景。それくらいは覚えていたかった。隣には相変わらずアイツがいて、やさしく肩を抱いてくれた。その刹那、足を一歩前に出して落下を始めた。落ちて落ちて、落ちて落ちて、目が覚めた。

 全身は熱なのか、この夢に対する防衛反応なのか分からないけど、汗がベッタリと張り付いていた。見慣れた天井が嘘ではないと知ると、少し笑っていた。

 そして、死に損ないの自分が憐れで、涙が溢れていた。

『be dying to live』

 ……死ぬほど生きたかった。

 こんな自分でも、殺してしまうのは忍びなかった。

 人を好きになるっていうのは、愛するっていうのは、こんなに難しいことなんですか? 苦しいものなのですか?

 初めて芹菜と繋がったベッドの上で、ただただ泣いていた。

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