第32話 私の話⑪ 真相
コトリ。清潔そうな真っ白のコーヒーカップをテーブルに置く硬い音が、その部屋の空気を震わしました。
無言。
「現在進行形の映画のことについて伺いたいのですが」
私がこう問いかけてから、どれくらいの時間が流れたのでしょうか。お互いに相手の動きを観察するだけで、胸の中に押し寄せる不安と戦うばかりでした。
私を見つめる副社長の瞳からは、感情を読み取ることは出来ませんでした。熱も力も感じず、直接私の思考を見つめているような、そんな視線でした。と、不意に緊張感を断ち切り、全身の筋肉を弛緩させながら口を開いたのです。
「ふう。仕方がないですなぁ。ご主人から口止めされていたのですが、ご存知ならそれも意味ないでしょう」
おもむろに副社長はタバコをくわえ、イスに深く沈みこみました。足を組み、慣れた手つきで火を点ける。いつも見せる紳士的な態度からは掛け離れたものでした。
その態度に、私は一度唾を飲み込んでいました。
このような尊大な態度を初めて見たからです。いえ、そのような人間性を隠し持っていたことに軽い恐怖を感じていたのです。あるはずのものを完璧に消し去ることが、異様なことに思えたのでした。
副社長は私に向かって故意に煙を吹き付けると、一気に話し始めたのでした。そうする準備は完成されていたように……。
「突然映画を撮りたいって言い出したのはご主人でしてね。1年半ほど前のことでしたかな。その時にはすでにシナリオらしき物もあったなぁ。相当昔から考えていたんでしょう。よほどご自分の仕事がなかったとみえる。
一応反対はしたんですよ? 映画制作を目的とした会社ではないですからなぁ。しかし、社内の人間が乗り気でして。で、結局は制作がスタートしたという訳です。準備もろもろで撮影が始まったのはご主人が亡くなる5ヶ月ほど前でしたかね。
ところがね。ご主人。撮影を始めようとした矢先に、やるからにはとことんベストを尽くしたいって、とんでもないことを言い出したんですよ。役者にハリウッドスターをひとり使いたいってね。確かにシナリオでは外国人の役がひとり必要でしたから、参加してくれる人物がいれば大賛成ですよ。それでお客も呼べるんですから。
しかし、この会社にそんなツテがあるはずもないでしょう? 創ること自体が手探りであるというのに。もちろん、反対しましたよ。でも、ご主人が聞かないんだ。躍起になってどこそこと交渉し始めましてね。
そうやって1ヶ月も電話でツテを探しているうちに、有力な仲介人が見つかりましてなぁ。まぁ、奇跡的な幸運でした。その人は映画の翻訳をやっている人でしてね。引き受けてくれそうなビッグネームを紹介してくれるって言うんですよ。
それには私も驚きましたなぁ。制作スタッフは、全員がその実現に全力を注ぐことを望んだんですよ。さすがに、そこまでいくと反対も出来ませんよ。無論、ひとりだけ反対しても連中は行動に移してましたよ。撮影の計画を白紙に戻してまでね。
猪突猛進とはあのことですなぁ。優秀なスタッフがそろっていたんでしょう。電光石火の勢いで交渉は成功しました。互いのニーズが合致していたんでしょうなぁ。
そのツケが……、社長が指摘している負債だったという訳です。そうですよ。あれだけの負債の原因は、たったひとりの俳優を雇うための金額だったんですよ。でも、まぁ、安い方かもしれませんな。
映画の完成はもう間近だと聞いていますよ。さすがはハリウッドで名声を獲得しているだけあって、演技は鬼気迫るものがありましたなぁ。お恥ずかしい話、撮影があった日には私も見学に行かせて頂きましたよ。そうそう、彼のお陰で日本人の役者さんにも著名人の方が参加してくれましたし、配給会社も決まりました。
そういう訳でして、興行収入なら心配いらないでしょう。遺作としての泣ける裏話もあることですし、立派な金のなる木になってくれますよ」
クックックっと笑う副社長の目は。少しも笑ってなどいませんでした。溜め込んだ冷気を発散しているような、そんな冷酷な感じでした。
「どうして、私に話が上がってこなかったのですか?」
相変わらず尊大な態度のままの副社長に問いつめました。
「言ったでしょう。ご主人がそれをさせなかったんですよ。それにねぇ。私としては、社長はすでに気づいていると思っていましたからなぁ。そうでしょう? 何しろ、夫婦ですからなぁ」
ノッタリと這いずるような言い回しでした。暗に私たち夫婦の、日頃の生活に問題があるのだろうと言っていたのです。しかも、それは的を射ていました。射ているだけに心は痛むのでした。
グッと詰まる私に、彼は追い討ちをかける話しを始めました。整えられた舗道の上を歩むような確かな足取りで、心を切り刻み始めたようでした。
あなたの心は、傷口から全てが流れ出してしまって死にそうになっていませんか。それとも、かすり傷が付くことにさえ怯え憔悴しきっていませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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