第29話 私の話⑩ あの日の行動
私はこの時、何を考えていたのでしょうか。ジワジワと根を伸ばすように広がる黒い眩暈。クツクツと煮沸するように湧き上がる真っ赤な憤怒。ヒュウと足場を失い落下する青い消失感。その全てがグチャグチャと荒く混ざり合い、混沌とした感情がうねりを作って渦巻いていました。
ディスプレイに浮かび上がる数字を何度見直しても、導き出されるマイナスの数字は変化しません。
こんな金額、知りません。
正直に言えば、返済出来ない額ではないのだから、騒ぐこともないという考えもありました。映画が公開され、収益を上げる可能性もある。むしろ、映画の場合は先行投資という側面も否定できない分野です。しかし、それでは経営がこの先行き詰まるのは容易に想像出来ました。その選択は、従業員をかかえる人間の取るべき判断ではなかったのです。
どう処理したのか。
その前に、どうしてこれほど巨額の負債が生まれたのか。主人の日記を再度捲っていました。
あなたは、何をしてしまったのですか? どうしては何も言わずに死んでしまったのですか? 映画の制作とは、それほどの苦労を伴うものなのですか?
ページを1枚捲る度に、頭にそれは響きます。
全ての印を見終わっても、主人からのメッセージは、どこからも感じることは出来ませんでした。知らず知らず、己の左手で前髪をギュッと握り締めていました。加減する余裕もなく、前髪は頭皮を吊り上げ、プツプツと音を立てながら何本かを引き抜いてしまっていました。痛みはこの感情を押さえつけてはくれません。
情けなくなり、不甲斐なくなり涙が溢れます。それは額に接続されている腕に滴り落ち、ツツと重力の任せるままに流れ落ちていきました。弱弱しいその流れでは、この感情を洗い流してはくれません。
どうすればいいのか、全く分かりませんでした。
何がこの体を埋め尽くしているのか。それも分からなかったのです。
ただ、何も分からないという状況に浸かっているうちに、笑っていたのです。投げやりな、何の感情もこもっていない無機質で簡素な笑い声。
ぼやけた焦点を修正するように、それは次第に感情を取り戻していきました。この混乱に蝕まれた状況を、以前経験したことがあったのでした。私は、ひとりの男性を思い出していたのです。
遠い昔、そう感じてしまうほど時間の流れは速いものです。その人物は、高校時代の恋人でした。その時は若さ故の盲信もありました。背伸びしたい願望も混ざって行き過ぎた結末を迎えてしまいました。それでも、幸せでした。辛いことではありましたが、人生には必要なことだったのでしょう。今ではそう思っています。
そうでした。私にも、似たような経験があったのです。
大好きな人を困らせないように、その人にわざとキツく接する。
そこで、改めて泣きました。
その哀しさ、寂しさが伝わってきたからです。
断腸の思い。
その表現がピタリと当てはまる。
愛情とはとても残酷で、一方的で、身勝手なものです。それでも、狂おしいほど切望するものなのです。大切だからこそ言えないこと。そうですね。そういうことってありますね。そうすることが間違いであったとしても、そうすることしか出来ないことがあるものですよね。
そうです。主人はそういう人でした。誰かを傷つけるなら自分が傷つこう。そんな性格も確かにありました。傷つけることに疲れ果てた。そんな切なさも持っているような人でした。
そこで、思考は一時停止してしまいました。傷のついたディスクを再生している時に、一点で流れを留めて同じ音を繰り返しているような不快な感じでした。
実際にそういう行動をとる時、欠かせない要因があったからなのです。
自分独りで責任を取れない限り、そういう行動は余計な迷惑を生み出してしまうということです。どんな犠牲を払ってでも、責務を果たさなければならない事柄なのです。
現状では困ったことにはなっていません。つまり、主人は問題を解決したということなのです。
ドクン。心臓が大きな運動で一度警鐘を鳴らしました。
どうやってマイナスを解消したのでしょうか? どこからお金はわき上がってきたのでしょうか?
ドクンドクン。警鐘は激しさを増し、呼吸も荒くなります。
そこで再び思考は立ち止まりました。静寂な世界が包み込んでいたのです。
一瞬、ストロボのような閃光がバシュンと脳裏に走りました。それはゆっくり輪郭を描き始め、特定の人物を浮かび上がらせたのです。
主人のオフィスを調べようとしていたあの日。私よりも先客がいました。あの人は確かこう言いました。
「ああ、すみません。どうしても必要なものがあったものですから……」
確かに何かを探していたはずでした。ですが、結局あの部屋からは何も持って出なかった。
あの日、あそこで何を探していたのでしょうか?
ゴクリと喉が鳴りました。
主人の死。映画の負債。あの日の行動。どうも関連がありそうに思えて仕方がありません。
あなたの心は、痛めつけることで生きていると実感していませんか。それとも、殻に閉じこもることで生きていることを拒否していませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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