第10章

第28話 僕の話⑩ 未遂

 僕の焦点は狭まるどころか、却ってぼやけてしまっているような気がするのだが……。それとも、ちゃんと目的地へと向かって飛んでいるのだろうか。荷物を片手にタラップを降りたら別の空港でした、では、もう間に合わないのだが……。

 でも、体をバラバラに分解して飛行機に乗り込ませる人などいないだろうから、1ヶ所ずつ地道に確かめていくしかない。今さらだけど、こんな不自由な状況でなければ……。そもそも、こんな状況になった原因を探っているわけだし。なんともはや。


 僕が第一志望にしていた高校に合格したのを知ったのは、パズルゲームを夢中になってやっている時だった。担任から午前10時までに連絡がなかったら合格の合図という決め事だったのだが、ジッと電話の前で待つなんて、気が狂いそうだったのだ。

 だから、早朝に目が覚めてから、指定された時間が過ぎるまでずっと、画面の上から流れ落ちてくるピースを隙間に埋めるパズルゲームにハマっていた。深く考える必要はなかったし、じっくり謎解きをしている暇もない。瞬発力を伴った思考の回転が必要なゲームで、対戦相手がいる訳でもなかったから、イラつくこともなかったのだ。つまり、余計なことを一切考えないで良かったということ。

 ここで言いたいのは、パズルゲームが好きだということではなくて、高校に期待なんかしていなかったってことだ。そのわりには、心は誰かに押し潰されそうなほどの苦痛を持っていた。

 

 3年間通うことになった高校は、その地域では1番偏差値の高い学校だった。別にそこに行きたくて仕方なかったから選んだ訳ではない。家に近い学校なら他にもいくつかあったのに、その高校を選んだ理由は何もない。

 唯一、理由らしい理由と言えなくもないことならあったが、理由として上げるには些か弱いものである。

 それは、いわゆる見栄というやつだ。

 中学校で同じような成績だった連中が、皆してその学校を第一志望にしていたから、その学校に僕も行かなければならないのだと思い込んでいた。エリートであるためには、そこに行かなければならないと思っていたのだ。そういう志の低さがパズルゲームに結びついていたような気もしないでもない。その反面、そこから転がり落ちるのは怖かった。

 ただ、そこは大当たりの学校だった。校舎の老朽化による移築から、5年程しか経っていなかったので校舎はピカピカだったし、大学受験に励んでいる先輩も喧騒を好まない優しい人というか、大人しい人ばかりだった。上級生に怯えて暮らすなんて、皆無だった。

 何よりも驚いたのは、学校中のどの教室でも、机にラクガキがひとつもなかったことだった。

 卒業した中学校では考えられないことだったのだ。学校にある机の中から、ラクガキに犯されていない物を探すのは不可能だったと言ってもいい。ラクガキならまだ良い方で、乱暴な彫刻で傷だらけだった。机だけならまだしも、壁や掃除棚にいたるまで、キレイな物は何もなかった。

 そういう中学校とは一転して、上品な高校だった。

 僕にとっては、劇的に変わったこともひとつあった。

 小学校時代、友だちをいじめていたと知っている人間が全くいなくなったということだ。これは、本当に大きかった。

 いじめられていた本人は言うまでもないが、小学校の同級生で、6年生の時に同じクラスだった友人がひとりもいなかった。つまり、一緒にいじめていた人間はこの高校に進学していなかったのだ。

 中学校時代も、いじめのことは禁句だった。それは、誰かが言い出したことではなかったのだが、そう決まっていた。いじめた方も、いじめられた芳文も触れぬように生活していた。だから、中学校になってから知り合った連中が知っているはずもなかった。

 高校に入学してから訪れた体の成長に合わせて、心も解放されていった。新しく出会った連中もたくさんいた。人見知りではあったけれども、それでも何とか楽しく過ごせた時期だった。

 心の枷が少し外れただけで、にじみ出る表情は随分と違ったようだ。気軽に女の子と話が出来るようになったのも、この時になってからだったと思う。

 そして、ビックリなことに、初めて女の子に告白された。

 忘れもしない。あれは高校生活にやっとで慣れてきた頃だった。その日から期末テストに向けて授業は早めに終わって、部活も禁止になる期間だったので、終礼の後はスッと教室から人がいなくなっていった。

 ああ、そうそう。

 高校から、再びバスケットを始めていたのだ。世間はJリーグの開幕で盛り上がっていたが、僕にはNBAのスター選手の方が勝っていた。

 終礼が終わった直後だった。帰ろうとしているところに、隣のクラスの部活仲間が寄って来てこう言ったのだ。

「ちょっと待っててくんない。後で話があるから」

 てっきりテスト終わりの部活のことだと思って頷いた。そのままどこかに消えてしまった友人を、不思議だと思わなかったのだ。外の天気はやたら良くて、気温は30度を超えていたと思う。学校で唯一ケチを付けるところがあったとすれば、クーラーがなかったということだ。

 全身に汗を感じながらその男を待っていた。待っている時間ならテスト勉強で潰せたからよかったのだが、何の話があるのか分からなかったから、少し不安でドキドキしていたと思う。

 最初はまだ軽い振動で、トキトキだった。胸を激しく震わせるドキドキでは決してなかった。

 学校中に、セミのやかましい鳴き声ぐらいしか響くものがなくなるくらい人気がなくなった頃だった。教室の扉を開ける音に目を向けると、ひとりのスラリとした女性が入ってくるところだった。僕にとっては目当ての人物ではなかったから、すぐに視線を机の上に広げていた教科書に戻していた。

 戻してから、変だな、と思ったわけだ。

 何で違うクラスの子がやって来るんだ? ってね。これって、鈍感なのかな。鈍感なのだろう。

 彼女はどういう表情をすればいいのか分からない、っていう曖昧な表情で僕の前の席に座った。ちなみに。まだ出席番号順で座っていたから、その席は小田切の席だった訳なのだけれども……。それは、どうでもいいか。

 その子は、いつも隣のコートで練習していたバレー部の子だった。まだ入学したてで、一番下っ端なのは皆一緒だったから、体育館で練習している者同士ワイワイ話したことはあった。この頃は、バスケ部だろうがバレー部だろうが卓球部だろうが、皆して仲が良かった。誰が嫌な性格なのかも知らなかったから。

 彼女は、胸の大きさ以外は、神崎さんに良く似ていた。その胸だって、小さいわけではない。単純に、神崎さんが大き過ぎたのだ。勿論、そんなことは絶対に口にはしなかった。

 腰まで伸びた長い髪も、定規で引いたようなキレイな二重まぶたも雰囲気も、ハツラツとした性格以外は本当によく似ていた。

 だからだと思う。僕はあの日の艶かしい光景を思い出すように、練習の合間に彼女を遠くで眺めることが多かったのだ。簡単に言えば、単なるスケベ心からくる行動だった。

 その視線を、彼女はちょっと勘違いしてくれたわけだ。ドキドキは、最上級のバクバクに変わっていた。暑さのせいだけではなく、汗も額に浮き出ていた。

 こんな未知で、異様な空気に包まれた時にはどんな顔をしていいのか分からないまま、どんな言葉を掛ければいいのか分からないまま、はにかんだような表情で2人して見つめ合っていた。

 こんな経験なかったから、告白なんかではないと、必死になって自分に言い聞かそうとしていたのだった。実際、まだ彼女から告白されると決まったわけではなかったから、僕は我慢して黙っていた。それから、ポツポツと世間話のような、告白のような、わけの分からない話をした後に、彼女から「付き合ってくれないかなぁ」って言ってきたのだ。

 本当は飛び上がりたいくらい嬉しかったのに、大人ぶって「僕で良ければ」なんて気取って言っていた。そう言ってから急に脱力してしまった。緊張が2人して一気にかき消されたのだ。本当に笑い合ったのは、そのすぐ後になってからだった。もう、どこにでもいるガキに戻っていた。


 握手以外で女性の素肌を触ったのも、キスをしたのも、性器の不思議な温もりと感触を知ったのも、彼女が初めてだった。ファーストキスの味は全く覚えてない。というか、味自体があったのか、分からない。それくらい、頭の中は真っ白なままの出来事だった。

 その神聖な儀式が執り行われたのは、皆が帰った後の部室でのことだった。皆に知られるのは恥ずかしかったから、コソコソとした交際だった。練習で汗ばんだ体のまま、他愛ない話しをした後で抱き合うのが常だった。抱き合うといっても、服を着たままだ。それまではまだ。

 抱き合いながら、この先に進みたくて仕方のない願望と、進むことの罪悪感という板挟みにもがいていた。もがきながらも、頭には以前から蓄えられたエッチなことしかなかったのだ。

 あの日プールで焼きついた裸が、いつも思い浮かんでいた。

 そんな2つの事象に置いて、対照的だったのはその空間だった。

 この空間は、あの日の開放的で健康的な真夏の太陽の光とは掛け離れていた。部室は電気も消して真っ暗で、密閉されていて、じめじめとした雰囲気だった。その分、お互いの距離は隙間もなくて、漂う香りにいたずらに興奮を呼び覚ましていた。

 そんな時だった。唇がちょっとだけ彼女の頬を掠めたと思ったら、下半身が急激に熱くなってそのままむしゃぶりつくように唇を重ねていた。

 舌を入れてきたのは、驚くことに、彼女の方だった。実は、恥ずかしい話、そういう行為だとは少しも知らなかったのだ。キスというのは、唇同士を重ねるだけの行為だと思っていたから。

 百聞は一見にしかず。

 誰が考えたことかは知らないが、まさしくそんな感じだった。

 口の中には、まるで見知らぬ生き物が踊っているようだった。衝撃だった。キスがこんなにも気持ちのいいものだとは、思ってもいなかった。

 まだ、ガキだったから、興奮し切った頭が治まらないのは仕方がない。何よりも、硬直し切ったアイツが彼女の下半身に当たっていたのだ。これは、隠しようがなかった。

 結局、その日のうちに裸で抱き合っていた。しかし、それはセックスと呼べるものではなかった。彼女の胸の柔らかな感触を掌と舌で知ったのは事実だし、彼女の陰部に指を入れたのも事実だ。クチュクチュとした音に合わせて、無理に出している彼女の声だけでもイキそうだったのも認めよう。でも、アイツが彼女の体に吸い込まれることは一度もなかった。

 一度も……。

 夏の間に舞い上がり過ぎた僕たちの交際は、デートをすることもなく夏休みの途中、2ヶ月あったかどうかも定かではない短期間で終わってしまったのだ。これでは、付き合っていたと言えるかどうか……。もっと何か違ったことが出来たはずなのにと、いつも思い返す日々だ。

 そんな、ちょっぴりホロ苦い思い出だ。うん。これも犯人とは全く結びつかないみたいだな。

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