第27話 俺の話⑨ 日常に潜むスナイパー
完全無欠の夏だった。ガシガシと太陽光線は熱を投げつけ、受け取ったアスファルトはジュワジュワと空気にそれを伝えていた。その循環を繰り返すことで、空気はどんどん熱を蓄えて過酷な夏へと成長を続けていた。
そんな人体にとっては悪条件でも、目の前をサッカー部の連中が汗だくで走り過ぎていった。
「精が出ますなぁ」
エロ本からチラリと目を上げ、アキトが気だるそうに感心していた。
美術室の両サイドには蛇口が5つ並んだ流しがあった。
俺たちはその前に1列になってイスに腰掛け、水を張った流しにズボンを捲し上げて足を突っ込んでいた。ウチワを持ったコウイチ、頭を両手で抱えている俺、エロ本を持ったアキト、横のエロ本を、首を伸ばして見ているミオコの順番。女の裸を女が見て喜んでいる隣で悩みこんでいる男1、和んでいる男1という変な光景。
芹菜は夏休みの部活にも来なかった。
「電話は?」
ミオコが気のない声で訊いてきた。
「連絡なし。ケータイも相変わらず繋がらず」
こんなに長いこと、芹菜の顔を見なかったことはなかった。入学以来部活は一緒だったし、2年に上がってからはクラスも一緒だったのだ。それが、もう半月も顔を見ていない。声すら聞けていなかった。
「もう、いい加減にしてよっ!」
その言葉が腹筋を通り越して、胃への直接的なボディーブローになっていた。体の中に異物があるような違和感をもたらすほど、胃は硬直していた。胃が痛いっていうのは、こういうことなんですね。
「直接家に行きゃ良いじゃん」
他人事だから、アキトの言葉は軽かった。
「どこにあるか知らねぇもん。第一、どんな顔で会えばいいんだよ……」
溜め息。夏休みに入ってから、これでめでたく5億回目。デタラメだけど、そんな気分。
「謝る。まずはそれが先決なのは分かってる。でも、どこから謝ればいいのやら、さっぱりなんだ。いちいち忠告したことからなのか。好きだと言ってしまったことからなのか。出会ったことからなのか。『サガシモノ』を描いてしまったことからなのか。俺はどの時点から彼女を傷つけてしまってたんだ? 考えれば考えるほど分かんねぇんだよ」
誰に向かって言っているのか分からないけど、静かに言葉を吐き出した。
「時々思うことがあるんだ」
ぼんやり外を眺めていたコウイチが、ウチワを扇ぎながら話し始めた。
「誰かが誰かと出会う。その出会いのタイミングによって人生は変わるんじゃないかってね。もっと早くあの人に会っていればもっと違う人生だったのにとか、もっと遅くこの人に会っていれば、あの人にはもっと違う接し方が出来たのにって思うけど、出会いのタイミングはそうなるように神様が決めてるんだよ。だから、出会いのタイミングは常に正しい時なんだよ」
コウイチのその言葉を聞くと、自分の掌を見つめていた。親指に現れた仏心紋。信心深い証の現れている俺に……、神様は味方をしてくれるのだろうか。
「出会ったことが正しいことなら、好きになったことが過ちなのかな」
自虐的な笑い声が小さく響き渡った。
強烈な熱線が優しい光に変わった世界で、ここ数日同じことを繰り返していた。太陽と一緒にどこかに消えてしまった喧騒と入れ替わるように闇に紛れ、大地に寝そべっていた。あの日、ジョゼフさんに出会った時のように。
ここは俺にとって、とても大切な場所になっていた。死を知っている場所であったし、幸運を知っている場所でもあった。もしかしたら、何かのゲームみたいに、異世界の不思議なパワーが紛れ込んでいる場所なのかもしれない。
夏休みだったから、深夜に起きていても問題なかった。車も時々通ったけど、気づく人なんかいなかった。
何度もアイツに問いかけた。
「死んだら何か解決出来たのかい?」って。
この場所で散った命は、どうしてそれを選んだんだろう。父親からは自殺だったとしか聞いてない。
アンタはどうしてその姿を見せたんだい? どうしてあの日、アンタと出会ってしまったんだい?
「俺も、死んだらこの状況を解決出来るのかなぁ?」
虚ろな夜空に問いかけた。
教師の盆休みが終わって部活も再開されたけど、芹菜は相変わらず音信不通だった。そうやって空虚でもどかしい時間を体感してしまうと、もしかしたら、彼女は幻だったのではなかろうかって自分の記憶を疑わざるを得なくなる。でも、そんなことを考える度に、消え入りそうな芹菜という存在は俺の前にひょっこり現れて、冷たい視線というリアルなエネルギーで、心を苦しめてくれるんじゃないかって、期待めいたものも感じるんだ。
そうやって密かな期待を持ってやって来た俺は、めでたく10億回目の溜め息を吐き出した。現実は、何の変哲もない日常だけが選択されている。
会えない時間は悪戯に降り積もり、心をジワリジワリと握り潰していた。もどかしく思ってもどうにもならなくて、そのことにまたもどかしくなってしまう。
芹菜と一緒にやろうと言っていた宿題の山も、あらかた終わってしまっていた。例年なら、これから取り組み始めるのに、思考を停止させてくれるものが他になかったのだ。
美術室に来たからと言っても、何をするでもなかった。流しに水を張って足を突っ込んで、外の景色を眺めているだけだった。
薄汚れた世界を、眺めているだけだった。
掌も時々は見つめていたけど、どうしても創作意欲は生まれなかった。何を表現すればいいのか、モヤモヤした感情しかなかったんだ。
夏休みが早く終わるのを祈ったことなんて、初めてだった。でもね。時間が止まることなんてないから、黙っていてもそれはやってくる。
10日、1週間と数えるうちに、夏休みのタイムリミットは48時間を切っていた。そうやって迎えた夏休み最後の日、久しぶりに早朝に目覚めていた。
夏休みの最後に、アキトとコウイチと映画を観に行くことになったのだ。何だかんだ言っても、2人とも気になっていたみたい。ありがたい。
消えることのない痛みだと思っていても、1カ月以上も抱え込んでいれば和らぐものだ。絶え間なく俺たちに決断を求める時間も、忘却のためには必要なものなのかもしれない。垂れ流される時間に感謝を覚えたのも初めてさ。
生憎の雨になっていたけど、熱気はそのまま留まっていて、不快指数は高めだった。それでも、気の置けない仲間と無駄話をしていれば気にならなかった。
電車の中は人込みでちょっとウンザリだったけど、それ以外はクーラーもちゃんと効いていた。
朝から映画を1本観て、食事を挟んでもう1本観た。朝一で出かけたのは、先に観た方が行列間違いなしの物だったからだ。予想通り、見終わってロビーに出てみれば、満席を告げるアナウンスがひっきりなしに流れていた。
そのスケジュールをこなすだけで、時間は帰宅を求めるものになっていた。
俺たちは帰りの電車を待つ間、それぞれに感想を言い合っていた。そんな日常のどこかに潜む狙撃手が、いつ現れるのか、前もって知らされることはない。
求めて止まなかった出来事は、俺の脳を撃ち抜いた。パッと弾丸が貫通した所から真っ赤な鮮血が飛び出して、思考を殺してしまったんだ。
「ん……? どうしたの?」
コウイチが話の途中で止まってしまった俺に問いかけた。耳には入っていたけど、思考の死んでしまっている俺には答えられなかったんだ。目の前から消えた光景を、追いかけ続けていた。
「おーい。生きてるかー?」
アキトもわけが分からないといった風に訊いてきた。でも、答えられなかった。
芹菜が見知らぬ男と一緒に消えていったなんて、信じたくなかったから。帽子を深くかぶっていても、あれは絶対に芹菜だった。彼女の顔を見間違うはずないだろ。
これが、芹菜の出した答え。
ケータイを取り出してみたけど、どう使えばいいのか分からなかった。
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