第26話 私の話⑨ 崩壊

 私は久しぶりにビルの正面に立って天空を見上げていました。

 空は薄っすらと青味を帯びた灰色で覆われ、焼け付ける日差しがない代わりにじっとりとした湿気を抱きかかえていました。吹き抜ける風も、すぐ脇を走り抜ける車のねっとりとしたものしかなく、汗は引く気配がありません。

 生と死が混ざり合う場所。ここで主人は命を消滅させ、ささやかな疑問を生み出させたのです。

 フッと全身に痺れが沸き起こり、吐き気を覚えました。聴覚はその振動を逃すことなく、脳へ信号を届けてしまったのです。

 どこかでカラスの鳴き声が響いたのでした。そのせいで、主人の死体のイメージが生々しく脳裏に浮かび上がってしまったのです。警察の方に求められた本人確認。識別することすら困難な破壊の跡は、生臭い血の匂いまで鼻孔の奥に刺激を与えるように甦っていました。

 一度目を閉じ、呼吸を止める。10秒、20秒とそのまま動かずにいると、その毒も落ち着き元の世界へ生還できる。私は、まだ死んでなどいない。まだ、この場に立ち続けている。

 

 小田切君のお陰で解けたFの謎。しかし、それで全てが解決したというわけではありません。

 小田切君と別れた後、独りで部屋にこもって考えていましたが、主人を疑う心しか発生しなかったのです。全てのことが、全ての人が、見えない所で笑っている。私のことを嘲笑っている。そんな気がしていたのです。

 主人は、なぜ黙って映画の制作を始めたのか。主人はなぜ、黙って落ちてしまったのか。それほど私の存在価値はなかったのでしょうか。弱い人間には、関心などなかったのでしょうか。

 そう思うと自分のことが情けなくなり、いなくなった者を恨んでしまいます。死んでしまった事実を、当然の結果だと思ってしまいます。

 それではいけない。何か、自分の心に大きな火を点けてくれるものが必要に思えたのでした。

 そんな頼りない想いが、私をここに連れてきたのでした。

 トクトクと血液が心臓を中心に体中に駆け巡るのが認識できます。主人の亡骸の上に立っているのだという厳かな想いで気持ちが引き締まります。大地に積み上げられた人骨の山。その亡骸は完全な無ではなく、腐敗した肉がまだ張り付き、無数のウジ虫が這いずり回っているのです。その阿鼻叫喚の真ん中で、私は唯一色と生を持って世界と対峙するのです。真実を知るために……。この身に這い上がろうとする白い虫の集団を消し去らなければなりません。

 誰が主人を殺したのか。彼自身なのでしょうか。それとも、まだ見ぬ誰かが、主人をあの場所からここへと無慈悲に落としたのでしょうか。

 どちらにしろ、その理由に映画が関係しているように思います。それ以外に、意味を見出せなかっただけですが、日記の中で確固たる意志を感じたのが、映画の部分だけだったのも事実なのでした。

 まだ、戦える。まだ、日常に戻る訳にはいかない。

 その想いが全身に溢れたのを実感すると、ようやくこの場所を離れることが出来ました。


 最近では、夜の10時になると主人の部屋へ向かい、ソファで考え込むのが習慣になっていました。ここであれば、主人が手伝ってくれる気がしていたのです。

 この日、頭の中を支配していたのは、当然ながらRの意味でした。色々と考えを巡らせてみましたが、行き着くのはいつもRのことだったのです。映画に関係する言葉で、その後に数字が並ぶ。意味深長のような、無味乾燥のような、そんなあやふやな存在でした。

 F/R115,200

 F/R77,500

 F/R58,950

 F/R55,000

 その数字が微妙に大きいことも気になっていました。チケットの売れ数だとしても変です。まだ映画は完成してないのですから。そこで、ひとつの可能性に気づきました。映画の制作に必要な数字といえば、制作費です。ハリウッドの映画などで制作費数億円などとはよく聞く言葉だったからです。

 ですが、それにしては数字が小さいのです。Rにも繋がらないようです。

 そうやって悶々としたまま時間を浪費しながら、主人の日記を眺めていたのです。

 と、重要なことを思い出したのでした。どうして今までその可能性に気づかなかったのでしょうか。この文字が、黒色の仕事用のペンを使用している段階で、なぜ意識はそこへたどり着くことが出来なかったのでしょうか。

 しかも、それが憶測ではなく、真実だったとしたら、愕然とするものだったのです。

 会社で金銭に関わる数字を使う時の単位は、千、だったのです。そして、これがもし本当に金銭に関わる数字だとしたら、Rが意味するところも見えたのでした。

 会社として生き残るためには避けなければならないもの。Rとは、レッドの頭文字なのです。

 レッド=赤。そして、単位が千となる金額。

 F/R115,200の意味するものは、映画による赤字が1億1520万円というなのではないでしょうか。あまりの恐怖心で動くことが出来ませんでした。これを恐怖と言わず、何と言えば良いのでしょうか。

 大きな数字を合わせただけでもその負債は3億円近くだったのですから……。

 今まで単位が千だと思っていなかったので、取るに足らぬ物と無視していた数字もバカに出来ません。素早くパソコンを起動させ計算ソフトを立ち上げました。そこに主人の日記に記された数字を入力していく。

 そこで初めて気づいたのですが、RではなくBも所々混ざっていたのでした。R が赤字なら、Bはきっと黒字でしょう。つまり、わずかながらプラスもあったということなのです。

 しかし、全ての数字を入力し終わった後に残った金額に、深夜にも関わらず不謹慎にも叫び声を上げそうでした。なんと、3億4000万円ものマイナスという結果だったのです。

 私の中で、大きな何かが崩れるのが分かりました。それと共に、主人が自ら死を選んだように思えてきたのでした。


 あなたの心は、人の心が見え過ぎて信じることが出来ずにいませんか。それとも、人の心が全く見えなくて、信じることが出来ずにいませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。

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