第9章

第25話 僕の話⑨ プールサイドの果実

 兄が大学を卒業して就職したのと入れ替わるように中学生になった。中学生になると、芳文に対するいじめはなくなった。誰かを傷つけるのが楽しいとは誰も思ってなかったから、小学校を卒業することで頭の中をリセット出来たのだと思う。

 でもね、いじめられていた芳文だけでなく、いじめていた方もイヤーな気持ちだけはずっと尾を引いていた。

 そうか、だから誰かと親しくなるのをどこかで拒んでいたのだろう。カッターナイフで体をえぐられるよりも、誰かに裏切られるのが怖かったのだ。裏切られる? 違うな。裏切ってしまうかもしれない自分が怖かったのだ。

 自然と口数は減り、先輩後輩の無意味に厳しい規律のある部活にも馴染めなかった。ダラダラと家でゲームをする毎日になった。

 ちなみに、僕と妻が始めてやったRPGは、奇しくも同じタイトルだった。今のゲームでは考えられないほど不親切な創りで、だからこそ燃えたと語り明かしたものだ。妻は結局、当時はクリアは出来なかったそうだ。僕だって、友だちのアドバイスがなかったら出来なかったと思う。

 ゲームに明け暮れても、時間は腐るほど余っていた。仕方がないので、不自然にも勉強をするようになっていた。テレビドラマには興味がなかったので、母がテレビを独占してしまう時間になると、机に向かっていたのだ。

 その結果、中学最初の中間テストでは、200人中53位だったのが、その次の期末テストでは4位にまで急上昇していた。

 その順位表を見た途端、勘違いしてしまっていた。舞い上がっていた。同級生が急にバカな奴らに見えてしまったのだ。当たり前のように傲慢にもなった。

 幸いなことに、それはすぐに修正されることになる。

 友達が少なくても、いないわけではなかった。昼休みになれば小学校からの仲間とよく遊んでいた。その日も、そんな友人が集まってドッジボールをしていた。メンバーには、中学生になってから友人と友達になった子も混じっていた。

 僕は、その子のことはよく知らなかった。同じクラスの連中のキャラすらまだ完全には把握してないのだ。他所のクラスの人間なんて、一部の有名人しか知らなかったのだ。その子は、僕の目には鈍臭そうで、愛敬の良さしか取り得のないように見えていた。

 その子のことが気にはなりながらも、ボールを投げあいながら話は尽きなかった。そして、何の弾みだったか忘れたが、僕の自慢が始まった。あんな簡単な問題が解けないなんて恥ずかしい。とか、偉そうにほざいていたと思う。

 その場にいる誰よりも自分が優秀なのだと胸を張りながら雄弁に語っていたのだ。実際、かなり本気でそう思っていた。

 でもね。

 その日の帰り道だった。自転車をこぎながら、恥ずかしさを通り過ぎて、顔を引きつらせながら苦笑いをする自分に、嫌気を感じるしかなかったのだ。

 実は、あの鈍臭そうな子は中間テストでは学年で2番、期末テストでも、僕とそれほど変わらない点数だったとはいえ、学年で3番だったのだ。

 そう、自分よりも勉強の出来る人間に対してすら鼻高々に自慢していたのだ。そのことを分かっていながらも、その子がそんな素振りを見せなかったことにも恥ずかしさは増幅された。

 その出来事がなかったとしたら、僕の人生はもっと酷いものになっていたと思う。それに、このことがなかったら、反省する習慣を身に付けることも出来なかったのではないだろうか。謙虚という言葉を胸に刻みつける忍耐力も身につかなかったかもしれない。


 謙虚を手に入れた僕は、本格的に勉強に目覚めた。新型のゲーム機を買ってもらえなくて、ふて腐れていた、なんてことは……ない。スポーツで汗を流すのも嫌いではなかったけど、ケガをするのが怖くて以前ほど熱くなれなかった。

 クラスでは、いつの間にか物静かなお兄さん的なキャラになっていた。周囲からは常に一定の距離を保っていたので、中立な立場を任されていたのだと思う。クラスのどこかで真っ二つに意見が分かれた時には、なぜか意見を求められるようになっていた。殴り合いのケンカも、僕が割って入ればなぜか治まった。本当に、どうしてあんなに素直なのに、ケンカなんてするのだろうっていつも思っていた。

 そう言えば、この頃からだ。集団における僕のポジションが固まったのは……。

 思えばいつもそうだった。先頭に立つことはないけれども、二番手には担ぎ出されて、皆の気持ちが対立しないように緩衝材になっていた。集団を引っ張る者と、引っ張られる者の間には必ずいたような気がする。車の部品で例えるなら、サスペンションってところかな。衝撃をうまく吸収してくれる、ってね。


 好きなこと。

 空想に耽ること。

 これは中学時代の成績に端を発する。勉強に励み過ぎてしまった結果、授業を追い越してしまうことがしばしばあったのだ。だから、実際の授業時間は、時間を持て余してしまうことが増えた。特に、数学の時間がそうだった。先生が教科書の問い2をやれと言っても、その時には問い5を終わらせていた。しかも、次の単元のだ。

 その無意味な時間を埋めてくれたのが、空想だった。

 そうだ。現在撮影に入っている映画のシナリオを考えたのは、実は僕なのだ。シナリオの形にキチンと整えてくれたのは木村君なので、原案という立場の方が適切なのだけど、間違いなく僕自身が生み出したストーリーなのだ。妻には完成したものを見せて驚かせたかったので内緒なのだが……。

 ただただ資料整理に明け暮れていた訳ではない。

 そうか。この世に残したものがあるっていうのは救われる。数は少ないけれども、足跡はしっかりと残ってくれる。悪くない。


 あの頃に思い描いていた自分と、今の自分がどれくらい離れているのかは、正直な話、分からない。将来についてなど、全く考えてなかったのだから。どういう人生を歩もうかなど、全然興味がなかった。

 あの頃の僕の脳みそには、好きな女の子と、流行のゲームに漫画。後は……、勉強以外では何があっただろうか。どうでもいいような詰まらないことばかりを空想していたはずだ。

 それ以外の時間はたいてい、エッチなことばかり考えていた気がする。

 異性に目覚めたのは、ずっと前のことだった。小学校の低学年の頃だった。

 それは、学校からの帰り道だった。

 家路の途中、急な上り坂があった。僕は、何かに吸い寄せられるように斜面の下を覗き込んだ。そこには、1冊の雑誌が落ちていた。きっと、誰かが投げ捨てたのだろうけれども、それにしてはやけにキレイな表紙だったのを覚えている。

 なぜだかそれに興味を持った。無秩序に生い茂った雑草の中にポツンと置かれた光沢のある表紙が、妙に絵になっていたのだ。突き動かされるようにその斜面を下りていったのを覚えている。

 その雑誌は、今の僕らの世代が読むような月刊誌だったのではなかろうか。週刊誌よりはずっと分厚かったように覚えているから、きっとそうだと思う。でも、間違っても成人誌ではなかった。そこまでストレートに刺激的な物ではなかったと記憶している。

 どんな物が描かれていたのかは全く思い出せない。しかし、当時の僕にはそれが衝撃的だったのだと思う。何かいけない物を見てしまったのだという感情は、確かにあった。

 追い討ちをかけるように家で発見してしまった物もあった。

 兄の部屋にあった、正真正銘のエロ本。そりゃ、兄は当時高校生だったから、持っていたのも不思議ではない。むしろ、持っている方が自然だ。

 そして、中学生。女の子の体に興味を持つ時期だ。頭の中には、暇さえあれば女性の裸体が浮かんでいた。

 でも、実際のところ、皆そんなものだったのではないだろうか。僕だけそうだったら、酷く恥ずかしい話だ。少しは弁明もしといた方がいいだろう。

 あの頃の僕らは強烈に知りたいけど、モザイクと黒塗りに邪魔されて知ることは出来なくて、実際の女性と付き合うこともままならなくて悶々としているのだ。今と違って、ネットでちょっと検索かければ出てくる時代でもない。そもそも、ケータイ電話もなければ、ネットも一般に普及すらしていないような状況なのだ。

 知らない部分を補完するには、妄想に頼る他なかったのである。

 

 当時、妄想の相手は毎回決まっていた。それは、僕らのアイドルのユリちゃんではなく、神崎さんというちょっと根暗な子だった。

 なぜユリちゃんではなかったのかというと、正直な話、理由はその体型にあった。性格も顔も抜群に良かったユリちゃんだったけど、スタイルだけは周囲と変わらぬガキだった。

 ユリちゃんに比べると神崎さんの性格は控え目だったけれど、スタイルは少しも控え目ではなかったのだ。特に、中学生のくせに豊満な胸。

 身長も高かったし、ウエストもくびれていた。人よりも長い首で、足首だってキュッと締まっていた。少し前まで何かの雑誌の専属モデルをやっていたなんて誰かが言っていたような気もする。

 頭の中だけなら、何度彼女と絡まったか分からない。数えるのも面倒臭くなるほどだから相当だ。しかも、実際に女性の裸を見たのも、実は、彼女が初めてだった。映像や写真ではなく、実際の体を見たのが、だ。

 ここまで正直に話してきたのだから、今さら嘘は言わないが、このことは絶対に、僕に非はない。……はずだ。……うん。ない、はずだ。


 僕の通っていた中学校には水泳部がなかった。だから、夏休み前に開かれる地区の水泳大会には、各学年から教師によって選抜された人間は必ず出場する決まりになっていた。

 3年間、僕もそんな中のひとりだった。特別泳ぐのが速かったからではない。少し器用な人間だったから、バタフライで泳げたというのが大きな理由だった。普通、授業でも教えてくれない泳ぎ方だ。速さに関係なく、泳げるという事実だけで貴重な存在だったのだ。

 選ばれた人間は放課後に集められて、大会まで短期間の特訓を受けなければならなかった。

 2年生の時だった。週休2日の制度が導入され始めたばかりで、土曜日に授業があることが普通だった。午前中だけの授業だったということは、つまりは土曜日だったのだろう。その日は、僕らの学年だけが学校の薄汚れたプールに集められていた。3年生は受験に備えた模試か何かがあったのだと思う。1年生は町営のキレイなプールに集められていたはずだ。

 明らかに泳ぎの下手そうな太った中年体育教師が監視する中、プールを半分に仕切り、男と女に分かれてひたすら泳がされた。そして、1時間が過ぎた頃。部活をやっている連中はその練習のために引き上げていった。その場に残されたのは、僕と神崎さん、あと他に数名だけとなった。

 それから30分。居残りで練習は続いた。容赦なく25メートルの往復は続けられて、ようやくピーッっと高らかな笛の音が鳴って、その日の特訓は終了した。

 ヘトヘトに疲れていた。体育教師がいなくなった後、居残っていた全員が着替えるために更衣室に向かった。寄せ集めの人選であるため仲良しグループではなく、会話も弾むことなく三々五々に帰路へ着くことになったのだ。しかし、僕はひとり更衣室に残って、しばらくぼんやり座り込んでいた。

 水泳の後って、体がホワッとしていて、服を着たくない気持ちは分かってもらえると思う。真夏の暑さに馴染むまで、待とうと思っていたのだ。

 あの時は多分、神崎さんもそうだったのではないだろうか。彼女にとって誤算だったのは、すっかり静かになったことで、他の面々は先に帰ったと思い込んでいたことだった。

 いつまでもそうやっているわけにもいかなかったので、嫌々ながらも着替えを済ませて更衣室から出て帰ろうとした時だった。

 プールは更衣室とシャワー、消毒槽のある場所よりも一段上にあった。屋内ではなかったけれども、更衣室のある場所は外からは完全に死角になっていた。悪意を持って覗こうとしても、金網をよじ登る音を消すことは出来なかったし、広いグラウンドの端にあったので、野球部もサッカー部も、遠く離れた場所で練習をしていたのだ。

 田舎町の学校であるが故に、無駄に広い運動場だったことも、この事件を招いた原因のひとつに入るかもしれない。

 シャワーは更衣室とプールの間で、男用更衣室の目の前にあった。

 更衣室の扉を開けるのと、シャワーから水が吹き出すのは同時だったのではなかろうか。

 僕も彼女も、何が起こったのか分かっていなかった。互いに、予想すらしていなかった物音に驚きながら、反射的に顔を向けた。

 直射日光に慣れるまで、最初はその違和感の原因に気づかなかった。本来なら、体の中心部の方が水着で濃い色のはずなのが、逆なことを不自然だとは思わなかったのだ。

 それほど、彼女の日焼けは、水着の跡をくっきりと残していた。

 神崎さんはきっと、休憩した後にカルキ臭い水を洗い流そうとしていたに違いない。外からは死角だし、もう誰も残ってないと思っていたのだ。裸でその場に行くことに、それほど抵抗はなかったとしても不思議ではない。むしろ、気持ちいいとでも思っていたのかもしれない。

 目の前にいる女性が、全くの裸であることに気づいた僕は、随分と間抜けな顔だったと思う。

 メロンほどに発育した大きくて張りのある柔らかそうな胸。その2つの膨らみの頂点は薄いピンク色で、ツンと斜め上を指していた。縦に割れたおへその隣には、白い肌を強調するように少し大き目のホクロがあった。その下に続くのは勿論、うっすらと生え揃った陰毛だと思っていた。

 ところが、彼女の下腹部と足の付け根、その中央には、それらしき物は一切なかったのだ。自分で剃っていたのか、そういう体質だったのかは分からない。そんなことはどうでも良かったのだ。何しろ、彼女の陰部の割れ目がダイレクトに確認出来たのだから。いや、想像していたよりも確認できなかったことに、多少驚いていたかもしれない。

 しかも、シャワーの水は彼女の体を艶かしく光らせ、女性特有の柔らかい体のラインを教えてくれていた。健康的な夏の光線と相反するような雰囲気が漂っていたのだ。それは、異常なまでのエロさだった。

 どれほどの時間を2人して固まっていたのか、全く分からない。長かったような、一瞬だったような。時間の概念が狂ってしまうような空間だった。

 そんな沈黙の後、唐突に動いたのは僕だった。後ろ手で更衣室の扉をピシャリと閉めると、わけも分からず頭を勢いよく下げてから走り去った。

 頭を上げる際には、しっかりと彼女の陰部の割れ目と豊満な胸を確かめてからというのは言うまでもない。それは、もう、男としては仕方のない行為だと思っている。

 その後、神崎さんからは何も言ってこなかった。変な噂を聞いたこともない。僕も、自分の記憶の中だけにその光景を留めていた。誰かに話すのは、何だかもったいないような気がしていたのだ。

 それは、単なるひと夏の思い出に過ぎないのだと思う。僕にとっても、彼女にとっても。


 うーむ。これは、いい思い出なのか。悪い思い出なのか。悪い思い出……ではないか。うん、はっきりしているのは、犯人には関係なさそうだってことだけだな。

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