第8章
第22話 僕の話⑧ 万年雪
僕の家から小学校までは、かなりの距離があったと思っていた。大学の卒業を目前にして、結婚を匂わせるために久しぶりに実家に帰るまでは、あんなに遠くの小学校に通っていたのは自分だけだったのではなかろうかと思っていたほどだ。
でも、それはとてもよくある幼い錯覚で、遠いことは遠いのだけど、3キロにも満たない距離だったことに驚いたのを強烈に覚えている。
当時は、その3キロの道程が貴重な冒険の時間だった。前にも言ったが、道草が大好きだった。それはランドセルも傷だらけになった3年生になった頃からだったけれど、決められた通学路を使って帰ることが、敗北に繋がりそうで嫌だったのだろう。
ふふ、あんなに幼い頃から、誰かが決めたレールの上を黙々と妄信的に歩くことに拒絶反応を示していたってことだ。我ながら、阿呆だな。
そうか。だからあの頃の僕らは昼休みになると、裏山のさらに奥の廃屋を目指していたのか。決められた枠の中だけで遊ぶことに、拒絶反応を示していたのだろう。
当たり前だけど、皆がただのガキだった。皆が特撮ヒーローに憧れて、テレビアニメに感化されて、お菓子のオマケの収集に夢中だった。
僕らのポケットには先生に見つかると怒られる小さな玩具とカッターナイフ、汚いハンカチとボロボロのティッシュが詰まっていた。小銭の数は優劣にあまり関係なかったけれども、1箱に1枚か2枚しか入ってなかったお菓子のオマケのホログラムシールの数は重要なステータスだった。今なら、ソシャゲのSSRに近い感覚だろう。しかし、1箱30袋で2枚入っていたとすると、排出率6%ちょっとなので、ずいぶん良心的な設定だったものだ。むろん、有償ガチャしか存在しなかったので、単純に比較なんてできないのだけど。
裏山の隠れ家でそれらの吟味をするために、気の置けない仲間だけで昼休みになるとそこを目指していた。トレードなんて洒落たこともしていたかな。そこにはまだ、いじめられる前の楽しそうな表情をした芳文もいた。皆で背徳感を共有することが楽しくて仕方がなかった。
僕らが一番無邪気だった頃だと思う。帰れるならば、あの頃に帰りたい。まだ、許されぬ罪も3センチと積もってはいないはずだ。雲の隙間から日が照れば、すぐに解けて消えてくれる。
誰も傷つけず、誰からも傷つけられなかった小学校の低学年。その頃の傷なんてかすり傷で、薬を付ける必要は一切なかった。そこからやり直すには未来の苦労は多過ぎるだろうけど、少なくとも眠れぬ夜は消えるのではないだろうか。キリキリと胸を締め付ける、正体不明の切ない想いに囚われることもないのではないだろうか。そう思うのは間違いだろうか。
このまま、あの頃にタイムスリップしてくれないだろうか。そんな映画がなかっただろうか。
でも、そんな記憶も、小学校までの道程と同じで、幼い錯覚に過ぎないのだろう。やはり、今と変わらず無意識のうちにザックリと誰かを傷つけてしまっているのだろう。殺されるほど誰かを傷つけたのかもしれないというのに、全く心当たりがないのだもの。
あ、今、窓に顔が映った。この部屋は誰も起きていないみたいだけど、他の部屋がどうだったか、目覚めに人が落下しているのを見るなんて、迷惑以外の何でもない。
僕らの隠れ家は、5年生になった頃には取り壊されていた。特撮ヒーローを見ることに子どもっぽさを感じ始め抵抗が生まれても、別の流行が絶えずやってくる。
隠れ家に集っていた仲間で、気の向くままに遊んでいたものだ。ドッジボールも、かくれんぼも、将棋や読書でさえも笑顔が絶えることはなかったものだ。皆で遊ぶことが生甲斐だった。くだらないことで競い合い、くだらないことで笑い合って、同じ時間を生きる喜びなんて難しいことも考えたりしなかった。まして、空しさを伴う寂しさなんてものを知る由もなかった。
同じ条件でありさえすれば、全ての不平等な出来事が発生しなければ、誰もがそんなものを知らずに済むのに……。そうであれば、誰もが心に罪を蓄積させることもないのに……。
僕が皆の輪から外れたのは、6年生の後半に差し掛かかる運動会の頃だった。
そうだ、思い出した。何であれほど芳文に対して残酷になれたのか……。このことがなければ、芳文を救うことが出来たのではなかろうか。
5年生になるとバスケットを始めた。まだスラムダンクも連載は始まっていなかったので、マイナーなスポーツだったというのに、僕が選択したのはバスケだった。
この頃から野球は嫌いだったというのが理由のひとつだ。
父親がテレビを独占してしまうスポーツなんて、なくなってしまえばいいと思っていた。今でも、無闇に延長を繰り返す野球を快くは思ってない。あれのお陰で、どれだけ見たい番組の録画を失敗したか分からない。
2番人気のサッカーも、この頃は好きではなかった。まだ、Jリーグも発足されていなかったし、ワールドカップなんて夢のまた夢、それどころか、なにそれ? って時代だ。漫画の世界では当時から人気のカテゴリーも、現実の方は全く注目されていなかった。
で、残りものがバスケだった。柔道や剣道はちょっと系統が違ったからだ。
残りものという意識で始めたわりには、バスケにすっかりハマってしまった。野球もサッカーも競争率が高くて試合に出してもらえないと友達が話していたし、妙に厳しい風習が残っていた。その点、バスケは人数が少なかったし、手でやる分、素人でもサッカーよりはまともなことが出来たからだ。
それに、あの音に僕は魅入られた。
膝のバネを上半身に伝えて、そのまま両手から放たれたボールがきれいな弧を描きリングに吸い込まれていった「パシュッ」という乾いた音。当時、その音を出すための練習だけは嫌いではなかった。むしろ、飽きもせずに続けていたと思う。
それに、誰もいない体育館の方がキレイに響く。
その頃は身長も大きな方だったので、試合にも5年生から出させてもらったのが熱中する要因にもなったと思う。野球やサッカーと違って、一度交代したら終わりではないから、監督も頻繁に使ってくれたのだろう。
ただ、熱中することが出来るのは僕の長所であり、短所でもあった。何事にも熱中し過ぎてしまうところがあった。加減を知らぬガキだった。
6年生になり、チームのキャプテンを任されるようになると、それまで以上に意気揚揚と練習に励むようになった。励み過ぎていた。疲れを知らぬ小学生の癖に、いや、だからこそ骨折してしまったのだ。疲労骨折というやつだった。
それが、6年生の2学期に突入する直前のことだった。夏休み中、遊ぶのも忘れてひたすら練習した結果が、それだった。
更に惨めなことに、小学生としての最後の運動会を、応援席でずっと過ごすことになってしまった。友達が活躍するのを応援席で座って眺めることしか出来なかった。
けれども、これだけなら心は病まずに済んでいたのだ。これだけなら、ただの詰まらない出来事に過ぎない。決定的だったのは、その後だった。
運動会が終わり少ししてからギプスもとれた。そこで、焦ってしまったのだった。小学生としても最後の大きなイベントだった冬の持久走にむけて、治りきっていない体で無理をした。ギプスが外れたことを、完治したことと勘違いしてしまったのだ。
今度は、成長しきってない体の筋肉自体が悲鳴を上げた。骨折していた足を無意識のうちにかばうことで、無理な負担が反対の足にかかってしまっていたのだ。それが全身のバランスを狂わした。
再び松葉杖の生活が始まってしまった。皆と一緒に遊べない時間も、皆と一緒に持久走の練習が出来ないことも、心を傷つけた。独りぼっちで教室にいるだけで、共通の思い出を残せぬ辛さが、空しさと寂しさを同時に誕生させた。
芳文の境遇が変化させられたのは、そんな時間を過ごし、完全に足の状態が回復した後の、最後の遠足と卒業式を待つだけという時だった。
誰かと共鳴できる時間を奪われた僕が、小学校の最後に、誰かと共鳴できると勘違いしてしまわなければ、あれほど一気に、30メートルも罪は降り積もることもなかったろうに。
それとも、こんな出来事であっても、大人になるためには必要だったのだろうか。
考えたことはないだろうか?
あの罪があったからこそ今の自分になっているのではないだろうかと。しかし、出来ることなら、ないままで成長したかったものだ。
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