第21話 俺の話⑦ 放課後
俺の人生って、こんなにも彩りは鮮やかだったっけ?
他人にしてみれば、ジョゼフさんに出会ったことに比べたらちっぽけな奇跡かもしれないけど、俺にとっては同じくらい神様に感謝したい出来事だった。
待ち合わせしている相手がいる。しかも、自分のことを好きだと言ってくれる人だ。もちろん、俺も彼女が好きなんだ。オレのカノジョ。イイ響きだ。
今日は芹菜と映画を観に行く約束をしていた。残念ながらジョゼフさんが出演しているものはなかったけれど、木野枝さんが翻訳を担当しているものがあった。
しかも、そのチケットは木野枝さんから後日送られてきた物。ナイスタイミングってやつさ。
そろそろ時間だ。
待ち合わせの場所に一番近い本屋で、時間が来るのを待っていた。かれこれ1時間も立ち読みで時間潰し。デートなんて初めてなんだ。下調べくらいはさせてくれ。
待ち合わせの時間10分前だった。信号で待っている間に芹菜はその場所にやって来た。さすがに、その場所から声をかけるのは気が引けたのでしなかったけど、心の中では叫んでいた。
おーーーい、ここだよ。ってね。
赤から青に変わる時間もじれったく感じながら、芹菜の所に駆け寄った。
「おいっす。寝坊しなかったな」
駆け寄る途中で芹菜は気づいてくれた。芹菜の今日の格好はバーバリー柄のロングパンツに黒のタンクトップで、薄いグレーが基調で脇の下にライトグリーンのラインの入っているシャツを羽織っていた。腰にはアクセサリー感覚のチェーンベルトがアクセントで揺れている。
「僕だって、がんばれば早起きくらい出来るよ」
ニッコリ微笑んで迎えてくれた。ああ、やっぱり幸せ者だ。
映画館は繁華街から少し離れた大型商業施設の中にあった。シネコンとして移転したのも随分前のことながら、エスカレーターで上った先に広々と用意されているロビーは上品な雰囲気で綺麗だった。
大作の公開もないタイミングだったこともあり、場内も人はまばらだった。
チケットを交換し、入場ゲートを早々と抜けスクリーン内に入ると、俺たちは中央から少し上の席に腰掛け、くだらない話を交わしながら、このひと時を惜しんでいた。だって、やっとで互いの気持ちを知ったばかりだもの。話したいことならいくらでもあるけど、まだ遠慮しながらで、でもやっぱりもっと互いのことが知りたくて。ウズウズとワクワクとドキドキとハラハラが混ざっていたんだ。
ひじ掛けにはジュースがあって、2人のあいだにはポップコーンがあったりなんかしちゃって。照れ臭さと嬉しさが時々会話を途切れさせたけど、それがまた楽しかったりして。
「どうしてもっと早く告白しなかったんだろう」って言えば。
「ホントだよ」って芹菜が返して。
「言ってくれれば良かったのに」って反論すれば。
「だって、恥ずかしいじゃん」って、笑って答えてくれる。
その間も、互いの掌は繋がったままである時間が続く。それは、俺たちにとって自然な行為だった。
ん? 映画の感想?
ごめん。よく覚えてない。気がついたら芹菜の横顔ばかり眺めていたから。
「面白かったね」って、彼女が言っていたから、きっと面白かったんだよ。
俺たちのデートは、たいてい展覧会巡りかウィンドウショッピングになった。映画も何回か観に行ったけど、のめり込むには金銭的余裕がなかった。特別なことなんか何にもなかったけど、2人でいられること自体が特別だったから、それで良かったんだ。
人間で溢れる街中を、互いの手を握り締めながら泳ぎ続ける回遊魚。ふらふらと感性だけを頼りに、互いの掌の温もりを感じながら泳ぐんだ。
それに、学校に行けば会える。そう思うだけで毎日はハッピーだった。巡り来る朝が待ち遠しいなんて、ステキなことだよね。
学校でも俺たちは交際しているのを隠していなかったから、時間があれば一緒にいた。
アキトやコウイチは驚いていたけど、ミオコは女の勘で予測してたんだってよ。第三者から見たら、芹菜の気持ちは案外バレバレだったらしい。
赤面の至りです。鈍感でスミマセン。
そうそう、俺の作品にも変化が現れた。
ジョゼフさんのアドバイスもあったし、芹菜との毎日で感情はシンプルになっていたんだ。今までは複雑で、自分でも見えないものを表現しようともがいていたから行き詰まりを感じていたんだと思っている。
それが、今はこの胸の中にある幸福な彩りを吐き出せばよかった。いくつもの感情をひとつの作品に塗り込めようとしても、『サガシモノ』のようにはうまくいかない。そう思えたのが成長かなって思っている。
アイツの背中が、俺の人生までも引きずり降ろしたのかと一時期思っていたけど、違ったんだ。あの時、アイツは背中で、遣り残したことをバトンタッチしてたんじゃないかな。今ではそう思ってるんだ。
期末テストを控えた俺たちは、一緒に勉強することにした。
美術に関しては別として、普通の教科の成績は、まったくもって普通だったから。でも、交際相手がいるから成績が下がったんだろう、って言われたくなかったから、俺たちは燃えていた。
学校でも時間があれば机を並べて教科書を広げていた。昼休みも放課後も、授業と授業の間の休憩時間でさえもがんばった。お喋りしたい誘惑はあったけど、そこは我慢。テストが終われば、きっと、爆発しちゃうね。
部活はテストが終わるまで休止状態だから、放課後はゆっくりとしたものだった。いつもなら授業が終わるとそそくさと帰っていたけど、今は帰るのがもったいないと感じている。
学校生活って、こんなに楽しいものなんだね。勉強ですら面白く感じてるんだ。分からないところも、教師に訊くよりも互いに考え込む方が身に付いた。
あの日の朝のように、テストの当日には俺と芹菜は静寂に包まれた校舎の中で2人きりで悪あがきに励んだ。
そして、今日はやっとで最終日だ。ここを乗り切れば、しばらくのんびりと2人で過ごせる。体中に芹菜のことが充満していて、我慢していたものが噴き出しそうだった。
ケータイ電話のアラームで起こされるとカーテンを開けた。目の前を落下するデジャブは習慣になっていたけど、その度にジョゼフさんも一緒に思い浮かぶんだ。
「アンタはまだ、完全には死んじゃいないよ」
おはようの代わりに毎朝アイツに呼びかける。ジョゼフさんが言っていたんだ。彼はまだ、忘れられていない。だから、まだ完全には死んでいない。まだ、誰かの頭の中で動いているからね。誰が言い出したのかは知らないが、そういうことなんだよ。ってね。
「今日は雨、かな」
重そうな雲が広がっていた。
始発でやって来ると急ぎ足で学校を目指す。玄関先が待ち合わせ場所。たまに芹菜は遅れることもあったけど、遅刻の回数は以前に比べたら驚異的に激減していた。だって、毎日だったのが2週間に1回に減っていたんだもの。驚異的だよね。
「ペルシア戦争史を物語風に書いたのはダーレだ」
到着から2分後にやって来た芹菜に不意打ち。
「お。ヘロドトス。おはよう」
「スゲェ、正解。おはよう」
まだ、誰も来てない校舎前で、こうやって1日が始まるのも何回目だろう。微笑み合って手を握る。それから教室までの、ささやかなデートの始まりでもある。
天気は予想通り、雨になっていた。
テスト中だから学校全体が静かで、誰かが必死になって書き込んでいる物音か、誰かのセキ払いしかなくて、ちょっと物悲しい雰囲気。雨は、そんな空間にザーザーと響き渡って、それを降らせる雲は蛍光灯の明りを強調させた。
2人でがんばった甲斐があって、最後の教科も20分でペンを置いていた。終わったんだという気の緩みは、今まで封じていた感覚をムワッと湧き上がらせた。
一瞬だけ、これだけの人間に囲まれながらも寂しさを感じていた。ちょっとした猜疑心。本当に存在しているのか。本当に愛されているのか。本当に芹菜は存在しているのか。
教師の隙をついてチラリと芹菜の方を盗み見る。彼女も手持ち無沙汰でぼんやりしていた。
それを確認すると、正面を向いて微笑んだ。そして、何気なく掌を眺めていた。
で、気がついた。
線が、増えている。
ここ最近、じっくり見ることがなかったけど、間違いなく線が増えていた。しかも、2本も。
それは生命線の末端部分から中指の付け根に向かって真っ直ぐに伸びている。ただ、それは途中で切れていて、2本が重なってたんだ。
その線のことを思い出そうとしたけど、テスト勉強の成果で出て来なかった。だって、今まで出ていた相のことしか本では見てないんだもの。それ以外の線についてなんか、知っていてもしょうがないでしょ。占い師になる訳じゃないんだから。
でも、途中で切れているのは良い意味じゃなかったような気がするから、無視しとこうかな。良いことだけ信じるんだ。都合良過ぎかな。
雨は強さを増していた。学校は一度大きな生命力に包まれたけど、次第にそれは薄らいだ。
今、この教室にも俺と芹菜しかいなかった。最初はテストについて話していたけど、いつの間にかテーマはなくなった。
雨で弱まっていたとは言え、夏の暑さで窓は開けられ、外の湿気はダイレクトに俺たちの肌にまとわりついた。汗の匂いはその湿気に混ざり、この空間にいつもと違った情緒を与えていたんだ。
俺たちは口数が少なくなっていた。ただただ、互いの存在感を確かめるように微笑んでいた。芹菜は恥ずかしそうに俺の膝の上に座り、俺の手が彼女の体を支えていた。
しばらく押さえ込んでいた感情が、俺たちの気持ちを昂ぶらせていたんだ。近くの静寂と遠くの活力が不思議なパワーで融合されていた。明りは点ってなくて、外からは雨の音が届けられていて、どこかの教室からは笑い声が響いてきていた。
弛んでいた表情は次第に硬くなり、芹菜を支える手も微かに震えていた。膝の上には彼女の温もりが、存在感が伝わっていた。互いの鼓動が共振するように、ドクンドクンと教室中に響いていた。
芹菜の表情はクルクル変わっていた。照れるように微笑んだり、緊張で硬くなったり、困ったように考え込んだり、スッと優しくなったりしていた。そして、最高に綺麗な表情を作った後、彼女は俺の首に腕を回してきた。
世界に、音はなくなった。
響いていた心音も、今は体で直接感じていた。互いの頬の感触が、なおさら表情を奪い取っていた。2人の波長は、決められていたようにシンクロしていった。
ギュッと互いに力を込めて抱き合った。そして、そっと唇を重ねていた。一度越えた境界線は意味を失い、さらに彼女を抱きしめる腕に力が入る。一瞬だけ離れた唇は、再び相手を求めて重なった。今度は、その中に潜むヌルヌルとした快楽を味わっていた。
これが、俺たちのファーストキス。俺たちは、この時、本物の恋人になれた気がしていたんだ。
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