第20話 私の話⑦ 暗号

 窓に襲い掛かっていた外の風は、幾分弱まってきたような気がします。どうやら、目覚めた時間が、一番荒れていたタイミングだったようです。

 部屋の中は至福で包まれていました。

 それまで、嫌いだった食品。その匂いのはずなのに……。

 7歳になる我が子が作ってくれたというだけで、それは感動的な味となって体内に飲み込まれていったのです。最高の隠し味は、目の前の表情だったというのは言うまでもありません。

 その後、2人でゲームをして過ごしました。手先の器用さが要求されるものだったものですから、負けてばかりでしたが、何とも楽しいひと時でした。

 

 台風も熱帯低気圧へと変わり、遙かなたの海上へと消えていった夜10時過ぎ。子どもも寝入った静かな空間で、呼吸を整えていました。

 テーブルの上には、主人の日記が置かれています。

 私は静かにそれを開きました。

 この時、微かに罪悪感がチクッと音を立てたような気もしました。誰かが私に向かって、死神が持つような大きな鎌を振り回して、心臓に刃を突き立ててしまったような痛みもありました。傷口から肺に血液が流れ込み、呼吸も出来ずにもがいてしまうような、そんな息苦しさもありました。故人の物であったとしても、日記という物の特異性がそれを生じさせたのでしょう。

 見てはならない物。

 それでも、動きを止めることはありませんでした。

 今は、その罪に心を固めている場合ではないのです。もしも、この行為が罪に問われるというのならば、もっとゆっくり出来る時に償います。そのような心境だった気がします。

 

 主人のそれは、日記というには余りにも言葉が少な過ぎました。そもそも、この中には主人の想いというものは一切存在しませんでした。箇条書きと呼ぶのもおこがましいほど文字数は少なかったのです。

 何と言えば良いのでしょうか。これを表現するとすれば、暗号、でしょうか。

 残念ながら、主人が死を選んだ理由は見つかりませんでしたし、主人が死んでしまった日から10日ほど前から暗号のようなものすらなくなっていたのです。

 どうやら、スケジュールやその日の出来事だけを記している物だったようです。

 空白の時間が何を意味するのか。

 その時間をかけて主人は死と向かい合っていたのでしょうか。それとも、単にまとめて書くタイプの人だったのでしょうか。どちらとも当てはまるような気がします。 

 社長なんてものになってからというもの、主人とゆっくり話す機会などなかったのが悔やまれます。それだけではありません。ゆっくりと共に過ごす時間もなかったのだと改めて思い知らされました。

 主人がいつ、日記を記していたのかすら知らなかったのですから。せめて、毎日の習慣だったのかどうかさえ分かれば……。

 少し、その空白が私を責めているような気さえしてきました。

 次にしたことは、この暗号を解くことでした。中には暗号ではなく明確なイベントが記されている箇所もありましたし、分かりやすいものもあったのです。

 しかし、ほとんどはやはり暗号でした。

 主人には、確かにこういうところがありました。本人にはその気がなくとも、周りからすれば難解極まりないという物を使ってしまう癖のようなもの。普通なら、主人しか使うことがない物にはその傾向が強かったように思います。

 そのほとんどが、単語の省略です。単純な話、主人は面倒臭がり屋だったのです。その反面、何ごともきっちりとする人でしたので、主人にとっては技術だったのでしょう。

 分かりやすいのは、このような記述です。M8出、E7.5帰。

 MはモーニングのMで、EはイブニングのEです。ですので、先ほどの文は「朝八時出社、夜七時半帰宅」ということでしょう。それも、ウィークデイには毎日書かれているのですから判断もしやすいですよね。しかし、これも後半になると、出と帰の文字すら省略されるようになっているのですが……。

 そんな具合でしたので、解読は全くといって良いほど捗りませんでした。

 どの言葉を省略しているのか、見当もつかないものがほとんどでした。それに、主人が死んでしまう3ヶ月ほど前から、謎の数字も記され始めていました。

 F/R115,200

 F/R77,500

 F/R58,950

 F/R55,000

 大きな数字だけでもこれだけありました。しかし、これが何の数字を表しているのかが分からないのです。それに「F/R」の意味するところも分かりません。


 あなたの心は、圧迫され過ぎて、音を立てて砕ける寸前ではありませんか。それとも、自分が何者なのか、つかみ所もなく拡散してしまっていませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。

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