第7章
第19話 僕の話⑦ 大失態
目の前をゆっくりとゆっくりと、大きな翼を広げたカラスが、バサァと巨大な音を立てながら横切っていった。そんな感じがした。
何かがおかしい。
全社員プラス、バイトのテストプレイヤー。その中で犯人と思われる人物はプログラムルームの月野チーフと、チーフプランナーの永川さんにまで絞られた刹那だった。どうやって真実を暴いてやろうかと思っていた矢先のことだ。
そうだ。昨日は、2人とも会社に出勤していなかったはずである。
なんてバカなんだろう。
それが何を意味するのか。2人が僕に睡眠薬を飲ませる機会がなかったということである。つまりは、根本的なところで選択を間違っていたわけだ。
睡眠薬で強制的に眠らされたのは間違いないと思う。そうでなければ、あんな狭くて硬い所でジッとしていられるわけがない。いくら僕みたいに鈍い人間でも、すぐに目覚めるはずだ。
じゃあ、前もって睡眠薬を何かに混入させといて、それを口に入れるのを待っていたかというと、それも無理がある。2日も3日も、あるいはもっと長い時間待つなんて、計画的とはとても言えない。そもそも、僕が寝入っている時に身近にいなければ、あの状態にするなんて出来ないのだから。
つまり、睡眠薬を飲ませた人物は、昨日僕の部屋にやって来た人物のうちの誰かということになる。出来れば、薬を口に入れるのを見ていたいはずだ。
そこで困った事実にぶち当たってしまう。まぁ、少なくとも今までの検証も無駄ではなかったということでもあるのだけど。
それにしても、困った。
昨日僕の部屋を訪れたのは、妻と小田切、営業の河原君と八津元君、赤坂さんと……、後は何でも屋の木村君と音楽担当の岡村さんだけだったはずだ。
昨日は会社自体が休みで、極力皆休むように言っていた日だったから、どうしても出てこなければならないメンバーしか出社してなかった。
妻もここに住んでいるから当然いるとして、小田切と木村君は2ヶ月前に制作がスタートした映画の進行状況の報告で来ていたし、それに合わせて岡村さんも音の打ち合わせをしたいからと来ていた。営業の3人は赤坂さんと緊急の打ち合わせがあるらしく、そろって副社長室に来ていたみたいだった。町原君も来ていたみたいだったけど、僕の部屋には顔を出してない。
今まで検証してきたように、絶対に犯人ではなさそうな連中しか昨日は僕の部屋を訪れていなかったのだ。しかも、訪れたといっても、小田切と木村君以外は挨拶程度に顔を出しただけだった。岡村さんも、僕に用事があったというよりは、僕の所にいた小田切と木村君に会いに来ていた。
昨日訪れた人物は、犯人とは思えない。けど、昨日やって来た人物でなければ犯人にはなれない。矛盾しているが、そういうことだ。木村君? あの子は小田切が居る間に、取材のために海外に行ってしまったよ。
それとも、どこかに誰かが隠れていたのだろうか? あれだけ雑然とした空間なら、いくらでも隠れていられそうだが……。
ん? ちょっと待て。根本的な間違いをしてるのではないだろうか? 犯人は、実はこの会社の人間ではないってことではないのだろうか?
どこかに、従業員以外で僕の部屋に自由に出入り出来て、気づかれずに睡眠薬を飲ませることの出来る人物がいるってことではないだろうか? そんなの、まるで、透明人間だけど……。
僕を殺さなければならない人物がどこかに確実に存在していて、実際こんな状況になっている。問題は、見えているはずなのに見えてない人物って、誰だ? ってことだ。この節穴だらけの目に映っているはずの人物って、誰なんだ?
待て! 待て待て待て……。
本当に、誰かに殺されようとしているのか?
本当に、これは自主的な行動ではないのか?
何を忘れているんだ? この記憶の中に犯人がいるという確信は何だ?
きっと、あれと一緒だ。大き過ぎて見つからなかった凶器。目の前にあり過ぎて見えなかった地球。それとも、意識的に鎖した記憶があるのだろうか? そうであるがために、目の前の人物に焦点を合わせるのを避けているのだろうか? そうであるがために、架空の犯人を創ろうとしているのではないだろうか?
違う! 違うはずだ。僕は、僕は死のうなんて思わない。絶対に加害者は存在するはず。……はずなんだ。
いかん。冷静だと思い込んでいた脳みそは、少しも落ち着いてなどいなかったようだ。些か焦ってきた。実は、心のどこかで犯人は永川さんだと決めつけていたからなのだ。
それでも仕方がない。どれだけ焦ったところで、落下速度が変わる訳でもないのだ。記憶を掘り下げてくしかないのだから……。さて、過去40数年の記憶のどこに犯人は潜んでいるのだろうか。残り半分の高さで、果たして巡り合うことが出来るのだろうか。
好きなこと。
深夜と早朝の境目の街をダラダラと散歩すること。これは、洒落たウォーキングとは全く違う。ダイエットや健康維持のためではないからだ。なので、汗を流すほどのスピードではいけない。
単にこの凛とした空気を感じながら、色んなものの狭間に身を投じるために歩くのだ。いけないことをしているような、清清しいような。躍動しているような、廃人のような。そんな感じだ。目的もないし、ルールもない。足が向いた方向に進んでいくだけだ。
しかし、こうやって重力に逆らわずに落ちてみるのも悪くない。この先に確実な未来が待っているのなら、何度でも体験したいくらいだ。
やれやれ、どんな人生を歩んできたというのだろうか。
自分の記憶として覚えているものの最初は、確か3歳か4歳の頃だと思う。
大学に受かり親元を離れて生活するまで、とある山間の田舎町に住んでいた。昔ながらの田舎町とは異なる近代的な田舎町。生活に必要なものはこの町でそろえられるが、選択肢に幅はない。その程度の町だ。生活に困るほど不便ではないけれど、決して満足も出来ない。
家の回りには、他に老夫婦の暮らす家が1軒あるだけだったので、遊び相手はもっぱら祖母か年の離れた兄だったが、最も古い記憶の中で一緒になって遊んでいるのは、夏休みに帰省していた伯母の娘さん達だった。従姉は皆、兄とそれほど変わらぬ年だったので、小さな僕は可愛がられていたのを覚えている。
何をして遊んでいたのだろうか。確か、水浴びをしていたような気がする。ギラギラと照りつける太陽の光も浴びながら、キャラキャラと笑っていた。感情は複雑ではなく、単純な喜怒哀楽しか持ってなかったのではないだろうか。何に喜び、何に怒り、何に怯え、何に笑っていたのか、全く覚えていない。
その後の記憶は少し飛ぶ、多分、保育園児の頃だと思う。初めて同年代の誰かが身近に大勢いることを知ったのも、保育園に入ってからだ。
それまでほとんど世間から隔離されたような空間で過ごしてきたから、酷い人見知りだった。それは、多分、今でもそれほど変わらない。心から打解けるのは、難しいものだ。
保育園の時の記憶で鮮明に残っているものは、2つ。……たった2つか。まぁ、仕方ないか。誰かが女トイレを覗いているシーンと、玄関脇の石畳に軽石で落書きをしているシーンだ。
覗きの件をなぜ覚えているのかというと、男性と女性には明確な違いがあって、男性は女性の隠している部分を見たいと思うのが本能なのだと知った最初の出来事だったから。
もう一方をなぜ覚えているのかというと、こっぴどく怒られたから……、ではなく、誰にも見つからずに、後になって「誰がしたんだ」と皆の前で話題になったからだった。急激に顔に血液が流れ込むのを感じた初めての出来事でもあった。
しかし、それ以上に脳にインプットされたことがあった。
いけないことをしたのだという罪悪感と、見つからなければ罰せられることはないのだというのを知った出来事だったからである。むろん、罪悪感の方が勝っていたので、ずるくなるチャンスを逃してしまっていたのだが……。
一歩下がってクルリと方向転換、そしたらちゃんと一歩前進出来るルートが続いて……いて、欲しいものだ。
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