第23話 私の話⑧ F
その日も、飽きることなく日記を眺めていました。
2日が過ぎても手掛かりは見つかりませんでした。見つかりませんでした、という表現が正しいのかすら分からない状況です。目の前にあっても判読出来ないだけなのかもしれないからです。
気がついたことならありました。
主人はどうやら、ペンの色によって仕事とそれ以外……、つまりはプライベートとを書き分けていたようなのです。圧倒的に仕事での書き込みが多かったようなので、自然と仕事用の色は黒になっていたようです。
そこでますます分からなくなったのが、あのF/Rとその後に続いた数字でした。あれらの数字も、その全てが黒で書かれていたのです。
仕事で使う数字であれば、どんなことであろうと、私が知らないというのは不自然だったのです。どれほど力不足な人間であっても、私が社長であるという事実は変わらないのですから。それを否定してしまう理由などないのですもの。
またも、あそこに残されていた言葉が頭を過ぎりました。
こんな私を許して欲しい。後のことは頼んだ。
主人は、本当にどのような過ちを犯してしまったというのでしょうか。どうして許されなければならないのでしょうか。
行き詰まってしまった私は、この日、ある人物に相談を持ちかけました。
デザインをやってもらっている小田切君です。彼は主人とも仲が良かったので、何か知っているのではと思ったのです。それに、彼だけは敵ではないと確信していました。主人が常々言っていましたもの。あいつだけは、親友と呼べると。その気持ちが、私にも分かります。
「どう……? ショウ君は落ち着いたかい?」
彫りの深い、どこか西洋人的な印象を持つ人です。主人が死んだ時に、真っ先に子どもの面倒を引き受けてくれたのも彼でした。
「ええ。運動会が近いから、張り切ってる。それにねぇ、この前の台風の日にはひとりでお買い物までして、ひとりでカップラーメンまで作っちゃったんだから」
「へぇ、すごいじゃないか」
大げさなまでに、彼は子どもの行為を褒めてくれました。悪意の欠片も感じられません。やはり、彼なら信用出来ます。
「これを見て欲しいんだけど」
少しだけ間を置いた後で切り出しました。世間話はいらないよと、彼の表情も言っていました。
「日記か。そんなことだろうとは思ったけどね。言っとくけど、役に立てるかは分からないよ?」
きれいな二重まぶたの片方だけを吊り上げ、頭全体もそれに合わせるように傾けながら日記を受け取りました。
それからパラパラと日記を捲っていきました。そして、一瞬手を止めると、息を飲むのが分かりました。そして、グンと全てを吸い上げそうな強い眼光で私をジッと見つめたのです。
「何か心当たりがあるの!?」
鼓動が速まるのを感じていました。彼の眼力に、心臓が悲鳴を上げていたのです。
彼は私の言葉を聞いた後も、身動きせずに黙っていました。じっくりとタメを作ってから、キリリと引き締まった表情のまま答えたのです。
「全く分からん」
やられました。ウッカリしていたものです。彼の常套手段にこれほどまでにアッサリと引っかかってしまったのですから。しかし、こういった心遣いが嬉しかったのも事実です。彼はそれだけで場の空気を和めてしまったのですから……。
その後も時折冗談を交えながら、話しは弾みました。互いの子どものことや、仕事のこと。主人の生前の思い出話。そうやって2時間も話しこんでしまった後でした。すっかり忘れていたことを尋ねたのです。
「そうそう。ところで、このF/R115,200って、何だか分からない?」
今までの流れで余り期待はしていなかったのですが、彼はあっさりとそのひとつを解いてくれたのでした。
「Rと数字は分からないけど、Fは多分フィルムのFじゃないかなぁ。映画を今、撮影してるでしょ? そのFだと思うよ?」
その台詞に、咄嗟には言葉が出ませんでした。金属バットで後頭部を不意打ちされ、己の死すら覚悟してしまうような強烈な衝撃でした。衝撃で破裂し、融け出した脳細胞が毛穴から零れ落ちるように疑惑が浮かび上がります。
映画?
「ちょ、ちょっと待って。あの人、映画なんて撮ってたの?」
なるほど、いつもモーニングでMを使っていたので、ムービーの頭文字ではなくFを使ったのは分かります。しかし、映画の撮影をしていることは初耳だったのです。
「あれっ、知らなかったの? だいぶ前から撮影は始まってるっていうのに。もう編集に入ってる頃じゃないかな?」
小田切君もキョトンとした表情でした。彼は、本当に私が知らないとは思っていなかったようです。それもそうですよね。その制作を決めた会社の社長こそが、私なのですから。
しかし、実際は、この時になって初めて知ったことなのです。
このことは、一体何を意味するのでしょうか。
なぜだか、体中に鳥肌が立っていました。
あなたの心は、全てを隠し過ぎてどこにあったのか分からなくなっていませんか。それとも、全てをさらけ出し過ぎて自分を変えられずにいませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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