第17話 私の話⑥ 嵐の中の小さな光
ズンと重い意識を引きずっていました。脳はうっすらと活動を始めたのに、体は眠ったままのような気持ちの悪さ。
そこに飛び込んできたのが、ドンと突き上げるような雷の音でした。
「はっ」と、声を上げるように目が覚め、部屋中を見渡すと、時計の針はすでに昼の2時を回っていました。薬に頼らなければ眠れない日も多いというのに、主人の部屋の真っ赤なソファに沈んで熟睡していたみたいです。ただ、その体には、まとわり付くような汗が感じられました。
突発的な空気を引き裂く煮沸音かと思いましたが、意識を覚醒させた雷鳴は止むことを知らぬようでした。そう言えば、随分前から耳に届いていたような気もします。
外は暗く、激しく窓に打ち付ける雨の音も聞こえてきます。ビョウビョウと唸り声を上げる風の音も聞こえました。リビングからは、テレビの音が微かに流れてきていました。
「土曜日かぁ」
子どもがテレビを見ているのだと知ると、誰にともなくそう口にして、ゆっくりと立ち上がりカーテンを開け、外を眺めました。天気予報で台風が接近しているようなことを言っていたのを思い出したからです。どうやら、直撃か、随分接近しているようです。
風は向きを定められずに鋭角に動き回り、それにつられるように雨は方向転換していました。時には重力に逆らわせるように水滴を上昇させています。窓に空気の塊がぶつかる度に、ガクンとガラスは内側に反り返り、強固にそれを跳ね返す。心臓は鼓動を早めていました。
主人の日記は今、私の手の中に確かに存在しています。しかし、それを開くことは未だ出来ずにいたのです。全てを知ることが、これほどの恐怖だとは思いもしなかったのです。いざとなると、躊躇は目の前の天気ほどにも大きなうねりをもたらすものです。
何の準備もせずに、こんな嵐の中に飛び出す人がいるでしょうか。仮に、無防備な状態で飛び出したとして、無傷で生還できる保証などがあるでしょうか。
どこからか発射された屋根瓦が頭蓋に直撃して、スパッと鼻から上を切り離して真っ赤な鮮血を吹き上がらせてしまうような、そんな恐ろしいイメージしか湧かなかったのです。
やはり、弱い人間です。
カーテンを再び閉めると、リビングへと向かいました。
「ごはんはどうしたの?」
テレビゲームに夢中になっている我が子に問いかけました。朝食も昼食も、準備すらしていなかったはずだからです。
「朝はパンを焼いて食べて、お昼はカップラーメンを買ってきた」
そういえば、あの独特の化学調味料の匂いが少し漂っています。それにしても、こんな天気に外に出るなんて。
「もう、こんな日に出かけるなんて、危ないじゃない。起こしてくれればよかったのに」
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぎながら我が子に文句を言いました。その後になってから、奇妙なことに気づいたのです。
「ショウ君。あなた、ひとりでお買い物が出来たの。それに、ひとりで作れたの?」
驚きました。小学校1年生の子どもだと思っていましたが、その子がひとりで、こんな嵐の中、少し離れたコンビニまで行ったというのです。しかも、自分でお湯を沸かして、カップラーメンを作った。普段から食べさせているのであればそれも可能でしょうが、我が家にはそのような習慣はなかったのです。
我が子は照れ臭そうに笑いながらこっちを振り向くと、満面の笑みで大きく頷いたのです。
「すごいじゃない。えらい」
その行為に惜しみない賛辞を並べました。我が子が分かる範囲の言葉ではありましたが、その中には何百という賛辞が含まれていたのです。
内臓に重く立ち込めていた曇り空は、この瞬間に一気に晴れてしまいました。外は相変わらず酷い天気ですが、それも苦にはなりません。
子どもが嬉しそうに立ち上がり、私にもカップラーメンを作ってくれるというので、お願いしますと頭を下げた。本当は、カップラーメンは苦手なので、もう何年も遠ざけていたものですが、断れるはずもありません。我が子が不器用にケトルに水を注ぎ込んでいます。そんな背中を見つめながら、主人の日記を考えていました。
もっと強くならなければ……、この子のためにも、真実を知らなければならない。そう、心は行き先を導き出したのです。こんなに小さな子ですら、一歩を踏み出しているというのに、私が怖気づいている場合ではありません。
もう、迷ってはいられませんでした。
あなたの心は、押さえ込まれた時間を抜け出し、早く大人になりたいと焦っていませんか。それとも、枯渇した感情を取り戻せる子どもに戻りたいと、後悔していませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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