第14話 私の話⑤ ベッド
主人のオフィスから逃げるように帰り着いた私の気持ちは、ユラユラと上下運動を続けていました。息を吸っては後悔が生まれ、息を吐いてはそれを否定する。大げさかもしれませんが、それほど頭の中は混乱していたのです。
主人の心を壊していないと、どうして言えましょう。憶測でしか結論を出せないというもどかしさが、暗い闇を生み出してしまいます。
不気味な輝きを持つナイフでザクッと首筋を一突きされるような、ジワリとペンチで生爪を剥がされるような、ピアノ線で方耳をもぎ取られるような、そんな様々な痛みが胸を駆け巡り、油っぽい汗が滲み出てしまいます。
子どもがベッドに入ってからも、脳細胞はそうやって忙しなく活動を続け、苦悩を大量生産していました。
子どもと一緒に見ていたネットアニメも止めるのを忘れ、いつの間にか最終話まで終わってしまい、静止画になってしまった頃。
気がつくと、主人の部屋にいました。
主人の部屋の真っ赤なソファに座っていたのです。ひとつの空間の真ん中に位置するそれは、主人の一番のお気に入りでした。しっかりした弾力は、確かに座り心地抜群です。スッと体を包み込み、魂を解放してくれる。苦悩を浄化させ、活力に変えてくれるようでした。
そうですよね。ここで行き場を失っても、誰も助けてくれないのです。問いかけても、主人からの返事がある道理はないのです。強くならなければいけませんね。そうして、我が子を育てていかなければいけないのですものね。
悩み苦しみ、もがき沈み溺死する。そうならないように心の進行方向をうまい具合に反らしてくれていた主人はもういないのです。自分でレールを変更してあげなければ、いつかは取り返しのつかないことになってしまう。
ふうと息を吐き出して、心をキュッと引き締めた。
そう言えば、こんなにゆっくりと何もしないのは久しぶりのような気がします。これほど何も考えないのは、久しぶりのような気がします。
知らないうちに、切迫していたのですね。まだまだ十分なタワミが残っていると思っていましたが、実際はそうでもなかったようです。
今まで蓄積させていた重石を砕くように、闇にその身を委ねていました。闇を恐れればこそ苦悩は生まれますが、受け入れれば優しいものなのです。
そういう時こそ、思いがけないプレゼントを与えられるものなのですね。
暗闇に慣れた私の目に止まったのは、左手にあるベッドでした。
掃除をした時には全く気づきませんでした。主人のベッドと私のベッドは同じ物のはずです。ここに越してきた時に同じ物を買って、そのままのはずでしたから……。
確かにベッドのフレームは同じ物です。しかし、おかしいのです。私と同じシングルサイズでなければいけないのに、主人のそれは、間違いなくセミダブルサイズはあったのですから。
マットレスだけを変えたのならば、フレームからはみ出してなければならないのですが、測ったようにきっちりとフレームに収まっているのです。壁とフレームの間になければならない隙間が存在しなかったのです。それに、マットレスを変えたという話は知りませんでした。
私は覚えていました。彼のベッドの下を覗き込んだ風景を……。上下のフレームの板は、間違いなく壁際まで続いていたはずでした。
考えられるのは、主人がキレイに付け足して延長したということです。
どうやって継ぎ足したのか。急激に興味が芽生えていました。
静かにソファから立ち上がると、ベッドへと近づいていきました。
マットレスに手をつき、もう一方の手をその先に伸ばす。延ばした手を着地させ、反対の手をさらに先に伸ばしてみる。
あ、っと思いました。その思考に反応するように、体はビクリと小さな運動を生み出したのです。壁にもう少しで手が届こうかという位置で、感触が変わったのでした。それまではスプリングのギシギシとした反発があったのですが、急にそれがなくなり、沈み込んでしまったのです。
シワひとつないシーツをめくり、その正体を知ったのでした。それは、昔使っていた布団を丸めた物だったのです。
結果、私は見つけたのでした。フトンと壁の間に小箱が挟まっており、その中に収められていた主人の日記を。
あなたの心は、不幸せに囲まれ過ぎることで幸せを感じていませんか。それとも、幸せに浸かり過ぎることで不幸せを感じていませんか。
その中間に居られる人は、幸せですよね。
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