第5章
第13話 僕の話⑤ ひとり目
ありとあらゆるモノがあやふやで、現実が何なのかも分からない。高校に入学したての頃は、あれほど自分を殺したくて仕方がなかったのに……。死ぬことで、初めて生きていることを実感出来ると思っていたのに……。
鬱屈した時間だった。
天才と思い込みたい自分と、凡人であるのだと溜め息をつく自分の間で揺れ動き、世の中の仕組みに猜疑心を持った時、僕の心は病んでしまった。心は病んでしまっているはずなのに、日常でそれを誰かに悟られることはないほど普通に生活していた。そのことに対して、また自己嫌悪に陥っていしまう。
世界の仕組みは高学歴の人間のために構築されていて、ズルイ人間が勝ち残り、富と名声を奪い取っている。お金はお金持ちの所に集約されるようにシステムが作られ、貧乏人は益々貧乏になっていく。生まれた時代、生まれた国、生まれた家、生まれた順番で、すでに将来は決まってしまっている。ズルクなることも出来ず、ズルイ知り合いもなく、このままズルズルと駄目な大人に滑り落ちていく。
そんなイメージしか持っていなかった。
どこかの誰かと自分を比べては、ひたすら自己嫌悪に陥っていた。この身に宿る底知れぬ能力を信じるなんて、出来なかったのだ。
誰かが僕に囁いた。
「もっと自信を持て」ってね。もう覚えていないけど、誰だったのだろうか?
その誰かさん。分かってはいたのだ。でも、一度抱いた不信感は、小便と一緒には流れ出てくれなかった。例え、小便と一緒に流れ出たとしても、いつの間にか、膀胱にまた新しい不信感は溜まってしまっていたのだ。
それが、自然だった。
あの時は、ほんの少しだけでも自分のことを好きになることで切り抜けられた。加えて、女の体も知らずに死ぬなんて、真っ平ゴメンだと思えば良かったのだから、軽いかな。
女の体を……、というより、肌の温もりを知った今、未練はどこにあるのだろうか。そういや、えらく大きな未練がある。何なんだろう? エロ本を処分し損なったとか、か? いや、ネットで手軽に見られるようになってからは、部屋の中にあったものは全て処分したはずだ。パソコンにもスマホにも、変なデータは残していないはずである。
やれやれ。未練が多すぎて、特定は困難だ。
オフィスのドアを開ける、少し廊下を歩きエレベーターの前を通り過ぎる。それからまた少し歩き階段を下りると、最初に目に入る部屋はプログラマーの戦場だ。
現在、クロスGで正式に勤めているプログラマーは11人だったはずだ。中にはデザイナーやデバッガーといった仕事も兼任する者も複数人いるので、純粋なプログラマーとなるとちょっとわからない。
今までに白と思えるのは、佐伯君、石田君、前畑君、長谷川君の4人。残りを攻めてみよう。
まずは、チーフの2人から。
ズブの素人である僕ら夫婦を救ってくれたのは、副社長の赤坂さんだった。彼は自分の知人を頼って、とある職種のプロを探してくれた。会社の根幹となる職種のくせに、僕らにはその知識がなかったためである。
その職種というのがプログラマーだった。
もちろん、ゼロからの出発に近い状況だったので、他にもわからないことだらけだったのだけど、ただでさえ優秀なプログラマーは絶対的に人手不足で見つからない中、まずはこの基礎中の基礎である土台を固めなければならなかった。
そうして、紹介されてやって来てくれたのが、テクニカルディレクターである松本さんだった。
彼とは同い年なのだが、何となくいつも敬語を使いたくなる人である。何と言うか、人間的に格上の存在って感じだろうか。物腰柔らかで、普段は凛とした表情なのに、緩んだ笑顔は好感の持てる人だ。見るからに、上に立つ人間って感じ。
自分の部下が少しでも手を抜いた仕事をしているのが分かったら、例え年上でも厳しい人だった。けど、その厳しさは赤坂さんと一緒で、温かいと佐伯君が言っていたのを覚えている。芯のしっかりしている人で、本当に頼りになる人だ。
理由はないけど、きっと彼は違うだろう。時には勘が真実を知らせてくれることもあるさ。
プログラムチームは2つの班にわかれており、松本さんと別チームのチーフをやってもらっているのが月野さんだ。
……この人は、何でチーフなんだろう? そう言えば知らないな。チーフ昇格試験なんてものもない。はて? 専務のくせに、今まで考えたこともない。単に忘れただけだろうか。
彼が入社したのは、会社設立から1年が過ぎた頃、2つの企画を同時進行で進めなければならなくなった時のはずだ。動画配信アプリのマスターアップが近づき、少し余裕が生まれたことで次に向けて動き始めていた。
そこで緊急に募集した時に採用したのが彼だったのは覚えている。もしかしたら、その時からすでにチーフ待遇だっただろうか。実績を重視したのであればそうかもしれない。
月野チーフは、酷く目元の感じが悪い人だ。陰険っていうのかな。話し方もどこかエリート意識の強い、鼻につく喋り方だけど、その態度に偽りはなく、なかなか優秀な人だと聞いている。
うーん。知っているのはこのくらいのものだ。白にでも黒にでもなれるような気がするな。取り敢えず、保留しておこう。イメージだけで考えてみれば、ちょっと、クサイ雰囲気。
次に上げる4人は一括りにしてしまっても構わないだろう。似たり寄ったりの中途採用軍団。細田君、近藤さん、田中君、鈴木君。
彼らは僕の部屋の常連だ。プログラムの世界は日進月歩で変化していく。新しい情報を仕入れ、情報共有するためにチーフも含めてやって来ることは多かった。
最初の2人が松本ルームで、後の2人が月野ルームだったけど、互いが互いの境遇を羨ましがり、叱責された人間を励まし合い、賞賛を競い合って成長していた。まだ20代の子達ばかりということもあり、どこかサークルの延長のようで楽しげでもあった。
彼らを見ていると、こっちまで学生時代の感覚を思い出し、活き活きしてしまっていたような気がする。どうやら、彼らも殺人者とは違うみたいだ。アンテナはピクリとも動かない。
ああ、猫のエサ切れてなかったかな。いなくなって、寂しがらないかな。
さぁ、プログラムルーム最後のひとりは、最年長横山さんだ。最後……だよな。うん。そうだな。
彼は、長谷川君と同期の中堅プログラマー。中堅と言っても月野チーフよりも入社は早い。というか、中堅と言い張っている、という方が正確だろうか。
この人は、テクニカルディレクターの松本さんの紹介でやって来た人だ。で、手土産がオタク系の長谷川君だったという訳。松本さんの紹介だったから、ほとんど初期メンバーと入社は変わらない。
何で横山さんはチーフになっていないのかというと、本人が、「責任者にはならない」という条件じゃないと、この会社で働くのは嫌だと言ったから。前いた所を辞めたのも、責任者にされそうになったからという愛すべき無責任者。そういや、飼い猫のドンペリが唯一懐いたのが彼だった。
猫好きが言うのもなんだけど、猫好きに悪人はいない……はずだ。これはもう独断と偏見で犯人ではない。だいたい「仕事のために生きるなんて真っ平ゴメンなんですよ」なんて公言するような人が、犯罪なんかする訳がない。
と言う訳で、プログラムルームで怪しいのは月野さんだけってことになる。ふむふむ。また一歩前進だろうか。
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