第9話 俺の話③ 掌
痕跡は、そのままだった。
ヒビ割れた歩道も、流れ出た血液の跡も、何も匂わない死の香りまでもがそのままだった。さすがに血だまりだけは洗い流されていたが、それも完全ではなく、血痕がこびりついている。
スッと視界は俺たちの真上に移り、全体像を脳に届けた。
俺たちはその場に固定され、動けなかった。タイミングが悪かったんだ。警察がいなくなった直後で、復元を任された誰かがやって来る前だった。エアポケットのような無防備な状態の時に、俺たちはその場にたどり着いていたんだ。
「意外と……、狭いね」
ポツリとコウイチが言った。そう、ここに描かれた蜘蛛の巣は、掌サイズ。
「地球よりも重いはずの命が消えたにしては、小さいよな」
ボソリと同意した。
命は、ちっぽけだ。皆、頷いていた。
芹菜が途中で買ってきた花束をその場に置いた。見知らぬ誰かの死が、これほど身近に感じられたことはない。テレビで流れる戦争やテロのニュースよりも、ずっと多くを伝えてくれる。
俺たちは、誰に言われるでもなく、黙ったままアイツの死を悼んでやっていた。俺は、掌を覗かれたくなくて合わせていた。合掌。
俺の部屋まで皆黙ったままだった。オートロックの玄関も、音のしないエレベーターも、人気のない廊下も、本当に通ったのか記憶に残らないほどだった。
#2703 岡村。
俺んち。
俺のことに興味のない父親も、お節介焼きの母親も限度ってモノを知らない。俺への関心なんて、ちょっとでイイのに……。
家のローンを返すために2人ともまだ仕事だ。ホッと一息。特に父親は、このビルに入っている会社に勤めていたから、しょっちゅう早く帰ってきていた。そんなことされても、厄介以外のなんでもない。
「おじゃましまーす」
真っ先にミオコが入ってきた。遠慮なし。
アキトも慣れた様子で入ってきた。まぁ、確かにアキトだけは初めてじゃない。
コウイチは少し遠慮しながらだった。芹菜は、しばらくキョトンとした目で観察していた。それが、実は普通の反応なんだ。思わず、正解、って言いたかったくらいだ。
だって、変なんだもの。
家族の写真があったと思えば俺の創った手のオブジェがあったり、ドクロの置物やゲームのキャラクターの人形があったりする。しかも、さりげなく俺が頂戴した総理大臣賞の賞状も額に入れて飾ってある。美的感覚ゼロだ。
このゼロな感じが好きだったりする俺も俺だけどね。
「ダサイっしょ」
肩をすくめながら芹菜を中に招き入れた。ドアを支える俺の隣をすり抜ける横顔をチラリと観察。ああ、やっぱりキレイだなぁ。
「僕はこういうの、けっこう好きかも」
「そう?俺もそうなんだ。だからこのまま無秩序に増殖してくんだろうね」
ガコンとドアは音を立てて外界との接触を断ち切った。
「あれ……竜平ミスチル好きだったっけ?」
先に部屋に入っていたアキトが唐突に問いかけた。CDラックの一番目立つ所にそろっているミスチルの陳列に驚いているようだ。父親が音楽関係の仕事なんてやっているから、小さな頃から聴くのは好きだった。だから、家にはCDが溢れている。
自分しか聞かないものであればダウンロードやサブスクを利用しているが、ミスチルは家族で聞くのでCDでそろえてある。
「ああ。半年くらい前からね」
この日の目的の絵を棚から取り出していた。厳重に箱にしまってあるんだ。
「半年でこれだけそろえたの?」
芹菜が興味を示した。
「たまたまタイトルが気になったのがあって、かなり前のCDだから随分迷ったけど、買っちゃったんだよね。で、聴いてるうちに全部聴きたくなって、お年玉注ぎ込んでそろえちまった。それでも、父さんがほとんど持ってたから、そんなに大変じゃなかったけど」
そう言っている間にもアキトは勝手にCDを再生していた。エンドレスで流れるようにしてある一番新しいアルバムが、部屋の空気を優しく震わした。
「はい。ご希望の品」
諦めの境地。一度自分で確認してから『サガシモノ』を皆の前に差し出した。でもね、皆見ること自体は初めてじゃないんだ。美術の教科書で紹介されていたから。
「やっぱり、本物は違うね。正直な話、写真じゃ物足りなかったんだよね」
きれいな二重まぶたを大きく広げた芹菜だった。水分を多く含んだその瞳は薄っすらと茶色で、世界中の光が反射しているように輝いていた。
「魂って、宿るよな」
コウイチは感慨深げに眺めている。
魂。うん、そうかもしれない。何に怯えて、何に悲鳴を上げて、何に祈っているのか分からない。そんな魂がこの絵を描かせた。魂を閉じ込めてあるのはこの絵なんだから、写真では伝わらないのは強ち間違いじゃないのかもしれない。
魂……か。
誰にも気づかれないように小さな溜め息をすると、窓際に立っていた。
今朝と同じ場所だ。
少しだけ躊躇いはあった。その行為をすることで、胸に埋まっている鼓動を停めてしまうような恐怖があったことは否めない。それでもキュッと唇を噛み締めながら、思い切ってカーテンを開けてみた。いつもより、カーテンを握る拳には力が入っていた。
シャーっという無機質で乾いた音に反応して、皆が俺の方を振り向いた。
埋め尽くしていた雲もどこかに消えて、空と海の境界線の上には白っぽいモヤがかかっている。そこからこっちに向かって太平洋は迫ってくるんだ。
目の前にあったはずの太陽は大きく移動していたけど、俺の目にはアイツの背中が映っていた。はっきりとね。
「アイツの魂って、どこに行ったのかな」
死んだらどこに行くのか。どうなるのか。死者は何も教えてくれない。ただ死なれた悲しみを残すだけだ。この目に映っている姿が、魂とでも言うのだろうか。
その場で固まりながら、アイツの背中を睨みつけていた。この世の全ての憎しみを重ね合わせ、惨めな世界を憂えていた。この世に彷徨う魂の器であることに、不信感を抱いていた。
アキトが隣に来てくれた。コウイチも一緒にアイツの背中を見てくれた。ミオコも一緒に、空に手をかざしてくれた。芹菜も一緒に泣いてくれた。魂は共感する。初めて知ったことだった。
なぁ、アンタの魂も、同じ音を奏でて震えているのかい。
変な空気に居心地が悪くなったのか、皆は30分もしないで帰ってしまった。それから、改めて『サガシモノ』をじっくり眺めていた。実は、自分でも分からないことがあったんだ。
「なぁ、この手は誰のだ?」
自分で自分に問いかける。
この太陽を求めている手は誰の手なのか、知らないんだ。自分で描いた。それは疑う余地はない。にもかかわらず、そのことを知らない。
俺の手ではない。俺の手は節くれ立って無骨だけど、この手はふくよかで柔らかくて、それでいて儚い。豊かさと貧しさが渾然一体となった不可思議な物だった。
神の見えざる手。ああ、こりゃ経済用語か。でも、そんな感じだ。見えているようで見えない。分かるようで分からない。奇跡を起こす神の見えざる手。
案外、信心深い奴のようです。ん……?
頭にひとつの記憶が蘇ると、引き出しにしまってある手相の本を取り出した。
パラパラとページをめくって発見した。
親指の第一間接。俺のそこにも印が現れている。仏像が目を細めているような2本のシワ。そのシワのことを仏心紋と言うらしい。
「先祖に護られてて、信心深いことを表す……か」
こうやって全てのことを掌が教えてくれれば、思い悩むことなんてないのに。
カーテンはあれから開かれたままで、海原は相変わらずそこにいて、世界を照らした太陽の代わりに月が柔らかい光を届けている。
こうやって世界は気づかぬうちに回転を続けて、時間を止めて考えている余裕もなくて、当たり前の日常から踏み出すことも許されない。己の感情をさらけ出す機会を剥奪された結果が、この『サガシモノ』の根底にある。
さらけ出したかった感情って、一体何だったんだろうか?
見つめる対象はいつも通りに、自分の掌になっていた。人よりも若干大きめで、指はスラリと長かったから、よく「ピアノやってるの?」って訊かれる。
そりゃあ、指先は器用な方だから習えば結構上達するとは思うけど、現在形では引けない。ただただ、不器用な想いをキャンパスに閉じ込めることしか出来ない。
それも、最近は行き詰まっていた。
自分だけが把握していたゴチャゴチャとした思考は、賞状をもらった途端に絡まって、解きほぐす時間も教科書に削られたからだ。今では手のつけようがなくなってしまっている。
「これから俺はどこに向かうんだ? どこに行きたいんだ?」
自分の掌に真剣に語りかけてみても、返事なんてある訳ない。でも、時々本当に返事がありそうで怖いんだ。
「お前が行けるような場所なんか、あるもんか」ってね。
だから、ギュッと握り締めてしまうんだ。せめて、ここに留まれますようにって。
自分の想いや誰かの想い。全てが渦巻いて体を引き裂こうと待ち構えている。それでも容赦なく未来はやって来て、選択を求めるんだ。
どっちに行く? 早く決めろ、ってね。
「なぁ、死んだら楽になったのかい」
変わることなくそこにいる、窓辺の背中に訊いてみた。
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