第8話 私の話③ 日記

 私の仕事が落ち着いたところで、やっとで夏休みを取ることが出来ました。

 入れ替わるように子どもの夏休みが終わっていたので、主人の部屋をひとりで片付けることにしました。あ、片付けるというと誤解がありそうですね。掃除をすることにしましたと言った方がいいでしょうね。

 大掃除をする必要はありませんでした。元々キレイ好きな人でしたし、仕事が一段落付くと部屋の模様替えをするのが趣味のような人でしたので、溜まった埃を拭き取るくらいでした。

 ところが、たったそれだけの作業を済ませるのに、丸1日かかってしまいました。 

 別に広大な屋敷だからではありません。手がすぐに止まってしまうからなのです。

家族の写真、彼の卒業アルバム、懐かしいCD、2人で見たDVD、彼の読みかけの本。この空間に、誘惑する物ならいくらでもあったのです。

 私たちが結婚したのは22の時でした。大学を卒業してすぐのことでしたが、互いにベストのタイミングだと思ったのです。前途洋洋とまではいきませんが、未来は輝いていた時期でした。

 生活が落ち着いた頃になって、ようやく子どもを授かり、その子も今年小学生。子どもを作ることに抵抗があったことは否定できませんが、我が子を抱いてみれば心に残っていたシコリは洗い流されたものです。

 時の流れは速いものです。思わぬ事故で社長になってからも、時が過ぎるのはあっという間でした。ええ、本来ならば僥倖と呼ばれるべきなのでしょうが、あれは事故としか言いようのない出来事でした。

 子育ての大変な時期と重なったにもかかわらず、順調に会社を大きくできたのも、周りの助けがあればこそでした。

 その一番の支えは、やはり、主人でした。主人だったのです。いなくなって、初めて気づくことって、多いものです。

 仕事で行き詰まっても、フラリと彼の部屋に足を運び、甘いカフェオレを片手に数分話をするだけで、すんなりと解決策が見つかっていました。

 しかし、彼以外の人とではどうもそうならないのです。他の人では、心が弛まないのです。他の人との話では、脳が心弾む思考を生み出さないのです。何と言うか、フワッとアイデアが湧き出してこないのです。

 主人を奪った原因が見つからないかと掃除を始めましたが、どうしても日記が見つかりません。

 もしやと思い、彼のパソコンも調べてみましたが、どこにもそれらしいものはなかったのです。主人はパソコンにそれほど詳しくなかったので、この中には重要なものはないのだと思います。スマホも同様でした。しかし、主人が日記をつける習慣があったことは知っていましたので、それがないということに心を惑わされました。

 やはり、自殺ではなかったのでは……。淡い期待です。しかし、引っかかりました。あるべきものがない。それは、重大なことだと思いませんか。

 海に水がないような、空に星がないような、目の前に空気がないような、それほど重要なことだと、思いませんか? 私にとっては、余りにも大きな問題だったのです。

 あるべきものがないということが、心臓をジワリと握り潰すようでした。そうやって指の間からはみ出してくるものは、ドロドロとした疑惑となって全身に流れるようでした。

 真っ白な壁に映える朱色の本棚の隅々まで見ました。全体を引き締める真っ黒なクローゼットにも入っているべき物しか入っていません。ベージュのベッドの下にも、真っ赤なソファの下にも、寂しげな空間があるだけで秘密の匂いはなかったのです。

 思い過ごしなのでしょうか。主人が日記をつけていたのは、妄想なのでしょうか。夏夜の時間は、足早に過ぎていきます。


 あなたの心は寂し過ぎて、誰かに届くように大声を張り上げていませんか。それとも、人込みに紛れ過ぎて、かけるべき言葉を失っていませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る