第2章

第4話 僕の話② 選考開始

 自動車学校で教わった通りだとすると、時速60キロでコンクリートの壁に激突した場合、その衝撃はビルの14メートルの地点から落ちた時と同程度だったはずだ。時速120キロになると、それは56メートルからのそれに相当する。

 となると、120メートル上空から落ちている僕の場合はどうなんでしょうか。考えただけでも痛いなぁ。

 自分は今、どのくらいのスピードで落下してるのだろうか。大昔に習った物理の法則なんかは全く覚えてない。

 あんなに机にしがみ付いて勉強していたのに、覚えていることなんて小学校の低学年で習ったことばかりだ。それでも苦労することが少ないのは問題なのかしら。そうでもないのかしら。どうでもいいのかしら。

 今は、どうでもいいか。

 取り敢えず、分かるのは、実際のスピードよりもはるかに遅く感じているということだけだ。

 じっくりと考える時間がないことは分かっているのだが、この感覚はノロ過ぎる。SF映画でヒーローが避ける弾丸のスピードよりもノロい。

 ヨシ。じっくり考えよう。


 ギャラリーゲーム@コーポレーション。

 ギャラリーとゲームの頭文字を重ねたロゴから、通称クロスGと呼ばれているこの会社の社員はそれほど多くない。ゲームと名前がついている通り、ゲームをメインに作っていく予定だったが、手始めに開発した動画配信アプリが好調だったこともあり、ゲーム制作に拘ってはいない。

 根幹の部分は自社で賄っているが、大部分はバイトと委託に頼らなければならない程度の規模の会社である。

 自分の生活エリアを考慮すると、犯人は社内の人間である可能性が高い。

 全ての従業員に対して憩いの場を提供しているような僕の部屋だ。日常を共有している間に、何かの拍子で恨まれている可能性がある。それに、この会社を興してからは外を歩き回る暇もなかったので、恨みを買う機会がないはずなのだ。

 僕の部屋には日々大勢の人がやって来る。入れ代わり立ち代わり、時間すらも関係なく。どこかの喫茶店に訪れるように気軽な顔でやって来る。きっと、専務という偉い役職の人間だと認識してないのだろう。

 もちろん、僕が率先してそういう雰囲気になるように務めているのだから、それで良い。

 6割は純粋に資料目的なのだが、3割は休憩が目的で資料はついで。残りの1割は意味なくやって来てはダラダラ過ごし去っていく。それだけ僕の部屋に来るのは居心地が良いのだろうと、好意的に受け止めている。

 何しろ、僕の部屋だけ喧騒とは離れた1階上のフロアにあるのだ。最上階のフロアだけは部屋数が少なかったので、僕のオフィスと資料室、そして、我が家があるだけだった。

 実はこの会社、元々高級高層マンションとして売り出されるはずだった所を使わしてもらっていた。

 本来は、1階から5階部分にかけて総合ショッピングモールへと発展するはずだったのだが、人口減少と財政悪化による土地開発の中止が重なり計画は頓挫。そのせいで、近くにあるのは駅だけと言っても過言ではない地域となってしまっている。生活するには少々不便だが、まぁ、お陰で格安で手に入れることが出来た。最近、再開発の機運も高まって来てはいるが、大規模なものとはなっていない。

 最上階から3階分が僕らの城だ。

 僕の部屋から1階下が主となる作業をする場所。企画を立てたり、デザインを決めたり、プログラムを打ち込んだりする部屋があり、経営に関する作業もそのフロアで行っていた。

 そして、さらにその下にテストのための部屋や、営業に関する部屋、事務的な作業をするための部屋があった。だから、階下では仕事の関係上人の移動は激しかったわけだ。

 だからこそ、人ごみを避けるようにやって来るのだろう。それに、クリエイトな仕事には、そういうゆっくりと頭を落ち着かせる時間も必要なのだろうと思う。結果を出してくれている以上、文句を言うこともなかった。

 社内の雰囲気は至って和やかだ。そりゃ、時には意見の対立もあるだろうが、それがなければ向上しない。馴れ合いの妥協を繰り返しても、良いものが作れるはずもないからだ。殴り合いの喧嘩になることはないが、その寸前のギリギリの緊張感はあるようだ。

 ハッキリしたことは知らない。そっちの方には口を全く出さないからだ。それは意識してそうしているのであって、無関心だからではない。僕に求められている仕事は、そんなことではないと自覚しているからだ。

 しかし、それでも社内全体の雰囲気が和やかなのは間違いないと確信している。


 ……誰だ?

 そして、なぜだ?


 妬まれるほどの成功を収めているのは妻だし、金の管理をやっているのは経営を任せている副社長だ。

 なぜ僕なんだ?

 そりゃ、確かにこの会社で誰かひとりを消さなければならないとなったら、一番損害が少ないのは僕なのだろうけど……。

 そんな気遣いをされる意味も分からない。

 僕を殺して何の得があるのだろうか? それとも、純粋に僕を殺さなければ気が済まないほど恨んでいたのだろうか? 

 だとしたら、僕は何をしてしまったのだ?

 身に余る光栄には縁がないけれど、そういう怨恨にも縁がないと思っているのだが……。

 至ってポピュラーな方法だけど、消去法で考えてみよう。


 まず、妻ではないだろう。

 仮に彼女だったとしたら、もうお手上げだ。

 何の理由でこうなったのか、全く見当もつかない。だから、そうでないことを祈るしかない。これでも彼女のことは愛してるのだ。

 刺激的な毎日を提供してくれた妻には、感謝の言葉もない。彼女なしでは、僕の人生はクダラナイものだったと思っている。

 妻と出会ったのは大学生の時だ。その頃は、なぜだったか底なしの泥沼でもがき苦しむように酷く塞ぎこんでいたと思う。何をそんなに憂えてたのだろうか。覚えてないな。

 とにかく、そんな時だった。

 暗い顔をしていた僕を見兼ねた友人に誘われて、合コンに連れ出された。誘われたら断れない性分が、この時ばかりは幸運な出会いに結びついた。その出会いというのは、当たり前の話だが、妻のことだ。

 一目惚れとか、運命の出会いに電撃が走ったとかではない。モノクロの世界の中で、薄っすらとした色彩は感じていたけど、それは日常の生活の中でもよくあることだった。実際は、互いに誘われた友人の手前、その場を繕っていただけだった。

 けど、話しているうちに心惹かれた。何より、変な子だった。発想が、だよ。そう言えば、プランナーとしての素質は、その頃から垣間見えていたような気もする。最初は作為的に生み出していた笑顔も、自然なそれへと変貌してしまっていた。

 共通の話題も多かった。初めて遊んだゲームや、好きな音楽、好きな映画、車の免許を取ったのが同じ教習所だったとか嫌いな食べ物がカップラーメンだったとかね。

 運命を感じた訳ではない。でも、心が軽くなったのは事実だった。沈み込んだ泥沼を抜けた先に待っていたのが、彼女だったような気がする。結局2年間ほど交際は続き、大学の卒業と同時に結婚を申し込んだのも今では懐かしい話だ。

 本当にごめんよ。「ありがとう」も言えずにこの世を去る僕を許してくれ。叶うことなら、君の傍で、ずっと見守り続けるよ。


 ちょっと泣けてきちゃった。気を取り直して次にいってみよう。


 続いて対象から外しても構わないであろう人物は、プログラマーの佐伯君と石田君の2人だ。

 何しろ、3ヶ月前に入社したばかりで、僕の部屋に来たのは数えるほどしかない貴重な存在なのだ。この2人であるとしたら、またもやお手上げ。僕を殺すために入社したと考える他ない。そんなこと、ある訳ないと思いたい。

 僕は、そこまで非道な人間ではないはずだ。今のこの状態だって、何かの手違いだと思っているくらいなのだから、彼らであって欲しくない。

 

 あ、好きなこと。

 大きな事件が何も起こらないアニメを見ること。

 若い頃は刺激の強いものを求めていたけど、今では主人公に降りかかる葛藤や困難があると、身構えてしまって視聴ボタンをクリックするのに覚悟を決めなければならなくなってしまっている。

 なので、のんのんびより、ゆるキャン△、ふらいんぐうぃっち、なんかは気づけば何度も垂れ流して眺めていたものだ。

 キャラクターにボイスを当てるために声優について調べようと見始めたのだが、いつしか、ながら作業のお供にするようになっていた。

 あー。「魔王の右腕、何本までなら許される?」の最終回、見られないのか……。結末を知らずにこちらの人生の方が先に終わってしまう作品の何と多いことよ。


 さて、続いて外せるのは、バイトのテストプレイヤー諸君だ。

 これはもう、間違いない。会ったことがないのだから。

 彼らは出来上がったものに不具合がないかのテストをしてくれている。作り手の想定外を見つけるのが彼らの仕事。問題があれば現場の責任者に報告し、意見があった時には参考になる。その作業の工程に僕は必要ない。

 そう言えば、昔友人に聞いたことがある。コンピューター用語で欠陥のことをバグって言うのは、その昔、アメリカのスーパーコンピューターが故障した時の原因が一匹の虫(バグ)だったからだってね。本当か嘘かは知らない。真実なのは、欠陥のことをバグって言うことだけだ。

 そして、プログラムの中に潜む虫を採集してくれる彼らは会社にとって重要だが、個人として誰かが必要って訳ではない。優秀なハンターであるに越したことはないけれど、実直に作業してくれる人なら誰だっていい。と、思っている。

 だから、どんな人がいるのかすら知らないんだなこれが。

 こっちがそう思っているのだから、あちらもさほど知らないはずだ。そんな人達に殺されるのなら、運がなかったと言うしかない。

 ただし、全てのテストプレイヤーがそうではないってところが難しいところだ。中には社員よりも仲の良い子もいるから、恨んでいる子もいるかもしれない。それはまた後で考えるとしよう。


 さて、今までは完全に考えなくてもいいだろうという人たちだ。次からは若干、希望が含まれている。そうであって欲しくないって願望。


 その筆頭はデザイナーの小田切である。

 妻がこの会社を創ると言った時に真っ先に声をかけた人物が、彼だった。それに、彼とは高校からの付き合いになる。親友と言ってもいい関係だ。まぁ、最初は嫌いだったのだが……。

 彼はこの会社の専属という訳ではない。時には他所の会社のデザインも手掛けていた。それが条件でクロスGに参加してくれることになった。こちらとしても、彼の才能を独占してしまうのはもったいないと思っていたので、その条件は何の障害にもならなかった。

 彼に殺されるなら仕方がないと諦めがつく。よほどの理由があるのだと思えばいいだけだ。しかし、きっと彼ではない。彼なら、もっと酷い、生きているのが嫌になるような復讐方法を準備するはずだ。

 これは、長年の付き合いからくる確信だ。

 どうしてそんなことを言えるのか、僕らの出会いを話せばある程度分かってもらえると思う。そして、どうして最初は嫌いだったのかも。


 彼に初めて話しかけた言葉は、今でも鮮明に思い出すことができる。忘れることも出来ないインパクトの強さだったので、その作業は簡単なことだ。

 その言葉っていうのは、「何すんだテメエ」という怒号だった。

 とても穏やかな出会いだったとは思えないでしょ? 本当に、何を考えてたんだろうねぇ、奴は。

 彼とは高校の1年と2年の時、同じクラスだった。事件が起こったのは、入学して最初の日だったと思う。たまたま出席番号がひとつ前だったのが小田切だ。体育館でクラスの集合写真を撮るまでの時間、僕たちは男女別々に出席番号順に並んで座っていた。

 僕は昔から人見知りな性格だったので緊張していた。時折キョロリと回りを見渡すだけで、誰とも会話を持つことが出来ずにいた。

 近くには、同じ中学出身の奴が誰もいなかったのだと思う。その後の記憶が強過ぎたのだろう。その辺はうろ覚えだ。

 何を思ったのか、目の前にいた西洋人のように彫りの深い顔つきの男、つまり小田切は、ニッコリ微笑んでこちらを見つめてくると、おもむろに僕の手を握った。

 握手とはちょっと雰囲気が違ったので、頭上にクエスチョンマークを浮かべながらも、されるがままにしてた。初めて会う同級生に遠慮していたと言った方がいいだろう。

 彼の笑顔は崩れなかった。極上の笑みで僕の手を両手で揉み解すようにしていた。無言のまま温かな手でニギニギとされているうちに、緊張が和らいだ。危険なことはないと思い、ぎこちないながらも、釣られて微笑んだ。

 と、その時だった。

 いきなりグキッって、くぐもった音が鳴ったんだ。

 それは、僕の手から発せられて響いたものだった。奴は何の前置きもなく、親指の付け根にある間接を遠慮もなく鳴らしやがったのだ。

 鈍い衝撃と、ありえない行動に、「何すんだオメエ」って、怒鳴っていたって訳。


 分かるでしょ? 奴の思考回路を、一般人と同じだと思ってはいけない。

 ただし、この事件をきっかけに友人になった訳ではない。それは、もっと後になってからだ。


 本格的に心を許すようになったのは、3年生になってからになる。僕らの出会いを聞いてもらっても分かるように、小田切は本当に変わっていた。

 はっきり言って、誰もが変人と認識しているような奴に近づくほど、勇気のある人間ではなかった。そんな羨望の品を持っているようだったら、僕の人生はもっと華やかだったことだろう。

 済んでしまったことを悔やんでも仕方ないのだが……。

 3年生の時に何があったかというと、大したことではない。体育祭が普通にあっただけだ。どこの学校でも行われているような、健康的なあのイベント。

 そりゃ、1年の時にも2年の時にも体育祭は極当たり前にあったのだけど、小田切とは同じクラスだったので、そうなる機会がなかった。それは、体育祭の運営を当り障りなくこなす為の、トリックみたいなものだった。

 僕の通っていた高校の体育祭では、応援用にタタミ6畳ほどもあるベニヤ板の大きな応援パネルを作るのが慣例になっていた。体育祭の組分けは学年別で、1クラス男女ひとりずつがその作業に当てられる。その割り当ては強制で、誰かが必ずしなければならないことだった。

 その強制は、本来は避けなければならない類のものだったのだけど、僕は知っていた。この作業をしていれば、応援団なんて恥ずかしいことをやらずに済むってことを。応援団とパネル係りは一緒には出来ない。しかし、応援団の方が人数は必要だったので当たる確立は高かった。

 1年の時は目立ちたがり屋がいてくれたお陰で難を逃れたし、2年生の時にはくじ引きで運良く逃れることが出来た。しかし、この年は先手を打てる方法を思いついていた。

 それがパネルだった。僕は真っ先にその係りに立候補して、応援団になるのを回避することに成功したわけだ。どうしてそこまでしなければならなかったのかと言うと、僕は文系で、クラスメイトに男が少なかったからだ。

 それに、基本的にクジ運が悪い。

 クラス対抗の駅伝大会の時は3年連続くじ引きで、各クラスのエースが投入される1区を引いてしまっているし、中学時代の文化祭ではクラスで唯一女装しなければならなくなったし、高校1年の宿泊研修の時には皆の前でへんちくりんな伝統舞踊をやらされる羽目になっていた。2年の時に応援団にならなかったのは、本当に珍しい出来事だった。

 今でも、ソシャゲのガチャでは、かなりの高確率で爆死している。クジ運が悪いというか、引きが弱いというべきだろうか。

 何はともあれ、そうやって姑息な手段でもってめでたくパネル係りに落ち着いたのは良かったのだが、そこで小田切とぶつかった。それまでの慣習として、パネルは漫画やゲームのキャラクターを描くだけだったのを、小田切が嫌がったのだ。

 それはそうだろう。何しろ、今ではデザイナーなんてクリエイトな職業をやっている人物なのだ。既成の物に頼るなんて彼の主義に反したのだ。

 最初に決まっていた原画を無視して、教師の似顔絵でやりたいと言い出したのを僕が反対した。体育祭の応援っぽくないと反論したのだ。漫画チックであっても、スーツ姿の先生達なんて。

 そして、議論が始まった。

 夏と言えば海、海と言えば水着のネーチャン! なんて言っていたっけ。それくらいお互い遠慮なく意見を出し合い、妥協と修正を繰り返しながら、今までにないパネルの構想を固めていった。まぁ、その議論の間に、集まっていた10人のパネル係りは僕ら2人だけになってしまっていたのだけど。

 完成されたパネルはこんな感じ。

 雲の浮かぶ青空をバックに、全体の真ん中に走り高跳びをしている少女がいて、その下にバーの代わりに大きく「TAKE OFF」のロゴがあった。全体には模様のように、人生を応援する意味も兼ねた文章が英語で入れられてもいた。

 これを見た、普段は強面のベテラン体育教師が、嬉しそうな顔をして、懲り過ぎだよと言っていたのを鮮明に覚えている。

 何かを共に創るってのは、心を繋げてくれるものだ。

 で、結局はズルズルとそのペースに乗せられて友人を続けている。


 嫌いなこと。

 裏切り。

 説明不要。


 続いて外したいのは、営業の河原君だ。肩書としてはプロデューサーなのだが、本人としては営業と呼ばれる方がしっくりくるみたいである。

 彼は唯一、昔の職場から頼み込んで引き抜いた人間だ。営業の経験があった訳ではないのだけど、その人柄に惹かれた。年はひとつ下だったが、どうしても一緒に仕事がしたかった。彼は、間違っても人殺しを考えるような人間ではない。何よりも自分がいかに笑っていられるかを考えるタイプの人種……、と言うより、誰かを笑わせることを考える人間だ。だから、自然と彼の周りには人が集まる。僕もそこに引きつけられたひとりなのだ。

 そうだ、彼を追いかけてきた奇特な奴がひとりいた。あんまりにも熱心なので、うっかり雇ってしまった八津元君だ。しかし、雇って良かったと思える人材だった。

うん、彼も外して構わないだろう。

 河原君は時に暴走してしまうことがあるのだが、それをうまくコントロールしてくれたのが、河原君よりもさらにひとつ年下の八津元君だった。

 八津元君が気の利く人間だったからではない。あまりにも頼りない奴だから、逆に河原君が冷静になってくれる。案外、良いコンビ。

 この2人が僕の部屋に来てしまうと、何時間でも話題が尽きることがなく、いつの間にか会社に残っている者が全員集まってきてしまうこともあったほどだ。あの笑い声が嘘っぱちだとは、考えたくないよな。


 さらにさらに、赤坂さんも外していいだろう。

 彼はこの会社の副社長。僕よりも偉い唯一の他人で、経営のプロだ。何てったって、僕も妻も経営のことなんか全く分からない。だもんで、今は亡き義父に、古い知り合いである赤坂さんを、顧問のような感じで紹介してもらったのだ。

 会社運営の細々としたことは丸っきり彼に任せてしまっている。全くもって頭の上がらない人だ。しかし、赤坂さんはちょっとイメージと違った。僕も妻も、内心会社を乗っ取られないかと心配していたのだけど、拍子抜けもいいところだった。

 彼は自分の仕事をコソコソと処理するような腹黒い人間ではなかった。僕と似たような体型の、恰幅のいい人ではあったけれど、その体型に似合わないほど細かな人だった。いちいち僕たち夫婦に意見を求めたし、会計なんかも絶対に単独ではしなかった。僕も妻も時間の取れない時は、事務の2人を呼んでやっていたほどだ。

 腹の中では、いつの日か自分の仕事を僕に押し付けようとしてたのだと思う。頑固で厳しい瞳だったけど、教育者のような温かなものを常に感じていた。

 すみません。あなたの企みは失敗しました。

 どうしても、将来の経営者にはなれそうにありません。

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