第5話 私の話② 戸惑い

 世界中の色彩がぼんやりと霞んでしまうような、そんな味気ない日々が続いていました。

 それほど広くはない私専用のオフィス。そこはリノリウムの床に、子供だましの立派なデスクがポツンと置かれているだけと言ってもいいような簡素な空間でした。

 私を中心にグルリと真っ白な壁がありましたが、あまりの白さに気が狂いそうになる気がします。

 どうして今までこのような空間で仕事が出来ていたのかと、疑問に思ってしまうほどです。色を付け足すように、申し訳程度に観葉植物が置かれていますが、それとて私の存在意義と同じくらいにどうでもよく思えてしまいます。

 これほど己を卑下する人間であったとは……。こんなにも弱い人間だったのかと我ながら驚いてはいましたが、それでも機械的に仕事だけはこなしていました。こんな時だというのに、それとも、こんな時だからこそでしょうか。副社長から催促される書類は山となって届けられました。時折、隣で簡単に説明されながらとはいえ、目の前に置かれた書類の中身も分からぬまま判を押すだけ。そんな状態でした。

 主人の死を細部まで丹念に解剖する時間は、今のところなかったのです。薄い人皮を剥がし取り、露になるはずの筋繊維すら拝めていません。何が原因で、どうして私には告げず、本当に彼の自主的な行動だったのか。何ひとつ確かなものは存在しなかったのです。

 そう、主人が死んでしまい、この世にはすでにいないということ以外は何も……。

 ただ、遺書は簡単な物であっても、間違いなく主人の筆跡だったのです。その事実を曲げる私の願望だけでは警察は動いてくれません。現実は、とてつもなく事務的な対応しかしてもらえませんでした。

 門前払いとはよく言ったものです。

 眠れない日々との戦いにも慣れてはきましたが、心のわだかまりが解きほぐされる気配はありませんでした。陽の当たらない場所に植えられた疑惑であっても、その種に養分さえあれば、育ってしまうものなのです。

 やはり、自分で解決せねば。

 そう思いながらも、動くことは難しいものです。

 このままそっとしておいてあげた方が良いのではなかろうかという感情も、確かにあったのですから……。

 それは、自分が傷つきたくないというシグナルと言っても良いのでしょう。主人に捨てられたのではないかという結末を、決定的なものにすることもないのではないか。そう思ってしまうのです。

 やはり、私は弱い人間です。

 しかし、動き出さないことには未来が開けないことも知っていました。この会社の社長になった時が、まさにそれを知るきっかけだったのですから。

 やっていける自信と不安。その狭間で立ち止まっていました。結局は幸運にもこのイスに座ることになるのですが、その時は本当に先は真っ暗闇で、成功も失敗も全く見えなかったものです。でも、知っているはずでした。成功も失敗も、自分から動かなければやってこないことを……。留まっているだけでは、変化は起こらないことを……。

 幸い、経営は副社長がしっかりやってくれています。彼に甘えて、行動に移すべきなのではないでしょうか。もしも、主人の死が彼の希望する未来ではなかったら、その未来を歪めた人物を見つけないでどうするのでしょうか。不確かだった愛を、今ではしっかりと感じていました。


 この日の私は、いつになく不安定だったのだと思います。いつもはこの段階で思考を凍結してしまえるのですが、なかなかうまくいかなかったのです。


 私はゆっくりと立ち上がると、オフィスの白いスモークガラスの窓を大きく開け放ちました。外界からは、ねっとりと体にまとわり付く湿気と共に、肌を焦がす光が降り注ぎました。一瞬強い刺激に目を細めると身を乗り出し、車の行き交う国道を見下ろしていました。

 主人が死んだという事実を物語るものは、眼下には一切ありませんでした。砕けた歩道の部分も、すでに真新しい物に交換され、花を供えてくださる方ももういません。真っ赤に染まった箇所も、誰かが洗い流してくれていたのでした。

 主人が死んでしまっても、世界の動きは変わりませんでした。太陽は自然の摂理のまま回転を続け、株価の天秤はフラフラと上下を繰り返す。

 ひとりの人間の命など、陳腐なものです。その命には、私のものも含まれるのかと思うと情けなくなり、湧き上がった小さな水滴が地上に向かって落ちていきました。まだ、流れる涙が残っているのかと、驚きと共になぜか頬が緩んでいたのを覚えています。感情はまだ、錆びついていないようです。

 その場でしばらく膝を抱えてしゃがみこんでいました。

 きっと、小さな水滴が額に浮かんでいることでしょう。その小さな水滴は結合を始め、大きな塊となってそのうち流れ落ちることでしょう。窓から流れ込む熱を、クーラーでは治めることが出来ずにいたのでした。


 あなたの心は、何かに足を捕られてしまって、身動き出来ずにもがいていませんか。それとも、安定した場所が見つけられずに、不安な毎日を送っていませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。


 街の雑音を聞きながら心を静めていました。窓からは騒々しい音しか耳に入ってきませんでしたが、それが心地良い時もあるのです。世界が生に溢れていると感じられる。こうしていると、少しだけ元気が出るのでした。

 少しだけ、少しだけで構いません。ちょっとだけ背中を押してくれればいいだけなのです。

 私は立ち上がり、隣の部屋で仕事をしている副社長の部屋に向かっていました。

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