第3話 俺の話① 不意打ち
2年生になって最初の中間テスト。
その最終日を控えた俺は、早朝にケータイのアラームをセットしていた。時間通りに鳴り響く軽快なリズム。ハ虫類のようなノロイ背伸び。呻き声のような第一声。ムダに使う数十秒の茫然自失。それからようやく起き上がる。
そんな何気ない、日常からちょっとだけはみ出した行動で、呆気なく人生は狂い始めちまった。
徹夜は脳の活性を弱めるから、勉強をした後は一度しっかり睡眠を取ってから、早朝に再び勉強した方が良いなんて言う誰かの助言に従ったのがバカだった。
こんなことになるんだったら、深夜まで勉強して、そのまま朝まで寝ていた方がずっと良かったよ。
俺が暮らしているのは、市街地から電車で1時間弱かかる海辺の高層マンションだ。窓から見渡せる景色は確かに贅沢だけど、不便で仕方ない。ただ、そのおかげでシンボルタワーの風格漂う立派なマンションでありながら、両親の収入でも手が届く金額で購入できたのだそうだ。
俺はいつもの癖で部屋のカーテンを開けた。曇天の隙間から放たれた陽の光は薄暗いながらも網膜に刺激を与え、ホッと息を吐き出させた。
今日も世界は存在してるってね。
この時、心は全くの空っぽだった。何ひとつイラつかせるモノがなかったから、寝惚けた頭でぼんやりと静かな海を眺めていたんだ。雲間から射し込む太陽光線は荒れた波の数だけ分裂して、キラキラと波間を漂っていた。
その空白に異物が挿入されようとは、誰が予想出来るだろう。
しかも、そんな一瞬をこれほど長く感じるだなんて……。
ガラス越しの朝日を遮るように、大きな背中が落ちていったんだ。ソイツは目の前でスローダウンしたかと思ったら一時停止して、儚い人生だったよと訴えるように寂しげな感情を投げつけていた。
そうやって、思考を奪い取っていったんだ。自分の瞳孔が大きく広がるのを感じ取るだなんて、どれほどの衝撃だったんだろうか。
それから、どれだけの時間をそのまま過ごしただろうか。中身が剥奪された空っぽの頭のせいで、動けなかったんだ。誰かが落下したのは分かっていた。自分が住んでいる場所が27階にあるのも分かっていた。人が下で死んでいるのは、分かっていたんだ。
理解していても、その事実を認めていなかった。
警察? 救急? そんなもんが頭に浮かんだのは、ずっと後になってから、どこからかサイレンの音が微かに響いてきてからだった。
その音を聞いたのは、世界史の勉強をしている最中だった。何が出来るというわけでもない。自分にそう言い聞かせて机に座り込んでいた。折角早起きしたのを無駄にしたくなかったというのは、言い訳かな。でも、強烈に勉強しなければと思ったのも確かだった。そうして、固まった両足に一度張り手を食らわせ、無理やり現実から目を逸らさせたのだ。
チッチッチッチッ……と、安物の置時計から正確なリズムで吐き出される電池時計特有の耳障りな音が、集中力を奪い取った。その度にサッと目の前にアイツの背中が流れていくんだ。
何も考えてなかった分、映像は網膜に直接焼きついちまっていた。ズボンの皺から、シャツの柄まで鮮明に脳裏に貼り付いていたんだ。
チカッとサーチライトを照らされるように、アイツの落下していく姿は眼球に浮かび上がった。そうやってアイツが脳裏を支配する度に、シュメール人もアッカド人も、ヒッタイト人もカッシート人も何もかもが消えていく。
不意に、パキッとシャーペンの芯がどこかに飛んでいった。ああああああぁぁぁぁぁと、叫びたい衝動が体中を駆け巡り、その感情がたどり着いた硬く握られた拳がドンと机を殴っていた。机に押し付けられた拳はブルブルと震え、血管を浮かび上がらせていた。
後悔? 違う。
悲哀? 違う。
動揺? やっぱり違う。
憤怒? そう、それだけだった。
自分に、アイツに、こんな場面を見せやがった神と呼ばれる存在に、ドロドロとした激しい怒りが込み上げた。
「コノヤロウ」
ボソリと小さく呟いた。
毒々しい感情で視界が濁っていた。その黒い霧がようやく晴れたと思ったら、ジッと自分の掌を睨みつけていた。そうやって、そこに刻まれている様々な線をなぞっていた。
この時注目していたのは、人差し指と親指の間から手首に向かって伸びる生命線と、その隣の頭脳線だった。俺の掌に張り付いているこの2つの線は途中まで一緒で、真ん中辺りで分かれて頭脳線の方が若干上向きになっていた。
どうして、この2つの線が気になったかと言うと、この2つの線が極端に近い場合、自殺線と呼ばれるからだった。アイツのはそうだったんだろうか。そう思いながら、自分の生命線を指でなぞっていた。
手相。気がつくと眺めている。小さな頃からそうだった。そりゃあ、意味なんてちっとも理解しちゃいない。それでも、ジッと見つめているうちに、何かを語りかけてくれるようで好きだった。
そこに、全てがあるようで面白かったのだ。
どれほど掌を好きかと言うと、中学の時、思春期特有の不安定な心が描いた掌が、何かのコンクールで総理大臣賞を取ったことがあるくらいだ。
鮮やかな色をふんだんに使っている割には陰鬱な曇り空、その隙間からわずかに顔を覗かせた太陽、それをつかもうとする弱弱しくも神々しい手。
会心の作だった。
それ以来、俺の作品には必ず掌がどこかに描かれるようになっていた。
しかし、今でも部屋の片隅にしまわれた出発点の絵を取り出し眺める度に、心は溜め息を吐き出していた。
何を求めてるんだ? どこにたどり着きたいんだ? ってね。
そうして、やっぱり自分の掌を見つめてしまうんだ。俺はどこにも飛び立てないんじゃないかって。そんな不安に襲われて、泣きそうになって握り締めるまで……。
アイツも俺と一緒で、どこかに飛びたかったのかなぁ。何を考えながら死へと落ちていったのだろう。最期くらいは楽しいことでも考えていたのかなぁ。
アイツが最後に見た太陽は、雲に邪魔されながらも、ゆっくりと地表の温度を上げていった。
天気は良好とは言えないが、心は……、まぁ、良好かな。風は強いが、雨が降っていないだけマシだろう。
深く考えるんじゃない。
自分に言い聞かせる。
マシンガンで連射され、脳細胞を穴だらけにしようと襲ってくる残像を消すことは諦めるんだ。
ハンムラビ法典196条。他人の目を潰した者はその目を潰される。
世にも名高い復讐法。目には目を、歯には歯を……。でもよぉ、潰すべき相手がすでにいない場合は、どうしてたんだろう。思考は安定しやしない。
心が良好なわけないだろ!? ぶつけようのない怒りはどこにやりゃあイイんだ。
「コンチクショウ」
やっぱり、ボソリと小さく呟いた。
人通りはなかった。
いつもよりもずっと早く起きていたし、部屋でジッとしてもいられなかったから、いつもよりもだいぶ早い時間帯にやって来ていた。見慣れぬ風景の奇妙な感覚のせいだったのかもしれない。
駅から学校までの道の上、頭の中には一瞬目に入った落下地点の凄惨さを物語る残骸が渦巻いてた。それ以外、いかなる妄想も湧いてこなかった。
遺体が存在しないだけで、鼻では感じることの出来ない死の匂いがあの場所には漂っていた。誰かがその光景に重ねようとスイッチを押したようだった。バシンと突っ張りを食らうように、脳にアイツの背中が浮かび上がっていた。
貼り付けられた2つの光景はグルグル回転を始め、クラクラと視線は歪められた。足元も覚束なかった。
ぐはぁえぇぇぇ。
胃が不規則にのた打ち回った瞬間に、酸っぱい液体が口腔内に溢れ、留めることも出来ずに道端に遠慮なく吐き出してしまった。誰もいなかったのは幸いだ。
朝食なんか、胃袋に一切入ってなかったくせに、それはしばらく止まらなかった。ピクピクとした胃の動きがようやく収まると、再び学校を目指していた。案外、しぶとい奴のようです。
引き返す気だけはなかった。テストなんかどうでもよかったけど、今日から再開される部活に行きたかった。行ってこの不快感を皆にぶちまけて、スッキリしたかったんだ。
見慣れたはずの静まり返った空間もやはり、いつもとは違った雰囲気を作り出していた。誰もいない寒々しい校舎なんて体験したことなんてなかったんだ。どこからも響いてこない人間のざわめき。それだけでも寂しさは増幅された。
アディダスのシューズを安っぽいビニールのスリッパに履き替え、ノソリと教室を目指すことにした。暗闇で声を上げる子どもの心境かな。あんまりにも静寂に包まれていたので、わざと足音を響かせた。
気持ち良く響き渡るパツーン、パツーンとスリッパが床を打ち付ける音。
生命のどよめきが感じられない寂しい空間。凛と張り詰める空気だけが廊下には充満していて、普段は感じない神聖な雰囲気を醸し出していた。そんな世界を通り過ぎ、2年の教室がある2階へと上る階段でのことだった。
ビクン。
俺は一瞬、のけぞった。
後ろに傾いた重心を支えるように一歩下げた足は、その場で固まってしまっていた。どうやら、思った通り重症みたいだ。
階段の踊り場にあった窓ガラスに、アイツが落下する映像が映し出されるなんて……。
それからは、パツーンパツーンは、いつの間にかベリッベリッに変わっていた。一歩踏み出す度に、足の裏が床に貼りついていた。
そりゃあ、もちろん、錯覚さ。
でも、何かがおかしくなっているのだけは感じ取っていた。吸い込む空気を苦いと感じるなんて、初めての経験だったんだ。
留まり続ける不快な目眩に必死になって耐えながらも、何とか教室にたどり着いた。そこで安堵の溜め息をついていた。玄関からここまでやって来るだけで、何と、汗を掻いてしまっていたからだ。いつの間にこの廊下は5000メートルも延長されたんだろう。そんな感じだった。
起きてからの異質な出来事に疲れ切った心は、何の準備もしてなかった。いや、正常な心であっても、この不意打ちには対応出来なかったはずだ。
教室のドアを開けた瞬間だった。
「あ、竜平君。おはよう」
明るい笑顔で突然呼びかけられたら、そりゃ、間抜けな顔になるってもんだ。
「あ、ああ。おはよ」
先客アリなんて、予想している訳ないよな。しかも、いつも時間ギリギリにならないとやって来ない、同じ美術部員の町原芹菜だなんてね。
でもって、彼女こそが、現在進行形で恋している相手だなんてね。
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