第2話 私の話① 許せないこと

 私がそのことを知らされたのは、世界が本格的に動き出し始めた朝のことでした。自室の遮光カーテンの隙間から、薄っすらと差し込む真っ白な陽の光と強風に飛ばされていく木の葉がやけに印象的だったのを覚えています。

 社長という役柄、昨夜も遅くまで仕事をしていたので、その電話には溜め息も出ていたと思います。貴重な睡眠時間を剥奪されたことに、少し立腹していたような気もします。

 それでも、会社で何かトラブルが発生したのかと、いえ、そんなことも考えずに、どこか反射的に行動に移りました。ベッド脇のサイドテーブルに置かれたケータイを手探りでつかみ、見知らぬ番号であることに不信感を抱きながらも応答しました。

 電話に出て、話しを聴いているうちに、一気に目が覚めました。あ、お恥ずかしい話ですが、それほど一気にではありませんでしたが……。

 何しろ、電話の内容が別世界のものだったのですから、脳にそれが浸透するまでに少々時間がかかってしまったのです。

 その電話は警察の方からでした。体温の上昇と下降が、あれほど激しかったのも稀なことなのでしょう。まして、あまりのショックで、受話器を持つ手が震えるなどという経験を、自分がすることになろうとは、考えてもいなかったのです。

 主人が飛び降り自殺をしただなんて、そんな非日常的なことを簡単に信じられると思いますか? 自室で寝ていると思っていた人物が、冷たい大地の上でただの屍になっていたなどと、信じられると思いますか? タチの悪い詐欺だと、思わないでいられましょうか。

 私には、とても無理な話だったのです。


 主人の遺体が発見されたのは、ビルの玄関先でした。

 後で聞いた話ですが、国道を縁取るように延びる歩道の上を真っ赤に染めて、主人は死んでいたそうです。余程落ち方が悪かったのか、鮮血は辺り一面に飛び散り、所々に主人の肉隗までもが飛び出していたそうです。さらに酷い話が、早朝だったために発見が遅れ、カラスについばまれていたというのです。割れた頭蓋から引きずり出された脳は、その一部が不自然に欠けておりました。さらに、行方をくらました片方の眼球。

 その話しを聞いた時は、さすがに足元がふらつきました。惨い話です。誰かがもっと早くに見つけてくれていれば……。恨む相手を間違えていることにも気づけませんでした。

 遺体発見現場の真上には、主人のオフィスがありました。専務として働いていた主人の部屋には、遺書まであったのです。争った形跡もなく、警察は早々に自殺と断定したようでした。確かに、素人でもそれ以外は考えられない状況でした。

 それから、時間は慌しく過ぎていきました。

 どれほど慌しかったのか伝えられないほど慌しかったのです。

 坂道を転がり落ちるどころではありません。不謹慎かもしれませんが、それこそ、主人のように落下しているようでした。それとも、よく聞くように、主人は走馬灯のように人生を振り返る余裕はあったのでしょうか? 今となっては分かりません。

 私も、確認することはさすがに出来ませんもの。

 夫の死について深く考える余裕もなく、悲しみに支配される余裕もなく、目の前の出来事に集中するしかありませんでした。2人の間に誕生したひとり息子にも、何が起きたのか、正確には分かっていなかったのではないでしょうか。

 その子のためにも、憔悴している姿を見せるわけにはいかなかったのです。


 愛する人が消えてしまう。それも、こんなにも呆気なく。これがもし、病院の一室で長い闘病生活の果ての死であるならば、もっと感情的になれたのかもしれませんが、思いを巡らすには、何もかもが唐突過ぎたのです。

 一瞬で吹き出した悲しみの後には、淡々とした、虚像のような世界が続いているだけでした。

 それでも、ジワジワと悲しみは体中に染み渡っていくものです。植物が、根から生きるために水分を吸収するようにゆっくりと、しかし、確実に。

 四十九日が終わった時でした。

 子どもの寝顔を久しぶりにゆっくりと見た時、それはやってきました。

 フッと肩の力は抜け落ち、一息ついてしまったのでした。これがいけませんでした。うっかり心を緩めてしまったのです。

 知らぬ間に、体一杯に濃縮された悲しみが満ちていたのです。それが、堰を切ったように瞳から溢れたのでした。溢れ出し、溢れ出し、枯れることも知らぬほど溢れ出し、それ以外のことは何ひとつ出来ませんでした。

 ですが、時にはこんな姿になるのも必要なのだと思いました。これほど主人を愛していたのだと知ることが出来たのですから。

 意外なことでした。あの人がこんなにも大切な存在だったとは……。

 私たちは大恋愛の末に結婚に至ったわけではありません。普通に知人の紹介で知り合い、普通に楽しい時を共に過ごし、タイミングが決め手で結婚したのでした。この人でなければ到底生きていけない、などという運命を感じたことなどなかったのです。

 しかし、心に蓄積してきた思い出は予想外に厚く、重要であったみたいでした。何気ない幸せばかりですが、純粋に嬉しいことでもあったのです。


 そうやって日々を送っていく中でも、納得できないことがあったのです。それは、主人が自殺をしたということでした。

 なぜなら、夫が自殺する理由が全く分からなかったからなのです。確かに遺書は存在しました。ところが、それには自殺の理由は書かれておらず、こんな私を許して欲しい。後のことを頼む、としか書かれていなかったのです。

 夫の死について調べようと思うことは、不自然なことでしょうか? 何しろ、主人にはもう訊けないのです。手紙を出しても返って来ないのです。

 なぜ夫が自殺したのか。本当に自殺だったのか。納得できる答えが欲しかった。

何より、自殺するほど苦しんでいたことに気づけなかった自分が、許せなかった。


 あなたの心は、誰にも素直になることができずに傷ついていませんか。それとも、誰にでも素直になり過ぎて傷ついていませんか。

 その中間に居られる人は、幸せですよね。

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