第1章
第1話 僕の話① 困ったもんだ
――僕は今、落ちている。
体にバンジージャンプ用のロープは固定されていないし、パラシュートも背負っていない。全身を密閉された宇宙服で包まれて、無重力に戯れているわけでもない。仮想世界の出来事でもない。
そう、今の状態は、とても娯楽とは思えない。必死になって念じてみても、夢から覚めることのない現実ってところがさらに悪い。この状況を打開しようと試みたいのだが、上と下が入れ替わることはなさそうだ。
ただ、ヒューっと重力に任せて落ちている。行き着く答えは難しくもなければ、ウィットに富んだものでもない。
どこかの偉大なマジシャンの実験台にされているのなら、奇跡を期待しようではないか。しかし、トリックが用意されていることもなく、重なった空気の層を全身で突き破りながら落下してるだけなんだな、これが……。
自分が長年居座っているリバーサイドマンションが、地上から何メートルの高さがあるのかは今まで気にしたこともないけれど、35階×3.5メートルとしても、だいたい120メートルといったところではなかろうか。もっと低いだろうか。高さを目測するのは難しい。転居する時に調べた気もするが、もうずいぶん昔のことなので、正確な数字は覚えていない。
とにかく、この中途半端な高さが何を意味するのかというと、数秒後に僕は地面にたどり着き、即死してしまうということである。これだけの高さがあったので、かえって諦めもついていた。
僕の記憶では、この下に助かる要素など何ひとつ存在しない。アスファルトの国道の脇にある、薄い正方形の茶色いレンガを敷き詰めた歩道があるだけだ。途中でつかめる突起物だって全くないし、そもそも壁にすら手は届かない。身に付けているのも普段着だけだ。スパイダーマンみたいに、手首から丈夫な糸を吐き出せるわけもない。
リバーサイドと冠されたタワービルとはいえ、隣に流れる川には飛び込めそうにもない。第一、何かで勢いを和らげなければ、コンクリートの地面に激突するのと大差ない衝撃を受けるはずである。上手いこと衝撃に耐えられたとしても、最近の雨続きで増水しているとはいえ、この高さからでは川底で体を打ち付けられた上に濁流に押し流されてしまうだろう。
どっちが悲惨な死に方になるかといわれたら、後者の方かもしれない。
まいったね、コリャ。
そう言えば、脳みその最深部に眠っているような記憶だが、推理小説で「凶器は地球です」なんて洒落た表現をしていたっけ。大き過ぎて見つからなかった凶器。
まさにそんな状況。加害者は不明だが、被害者は困ったことに、僕みたいだ。地球に殺されるなら、スケールが大きくていい……、いいか?
痛いだろうなぁ……。痛いよねぇ。それこそ、死ぬほど痛いんだろうなぁ。嫌だなぁ。それとも、電化製品の主電源を切るように、一瞬でこと切れるのだろうか。その方がいいかなあ。
異国のニュース映像みたいに、飛び降りた後で落下地点に巨大なクッションが用意されているとは考えられない。古い映画のオチみたいに、クッションが用意されている場所に誘導され、落ちざるを得ない状況に追い込まれたわけでもないはずだ。
落ちている割には、ずいぶんとノンビリしているって? そうなんだよねぇ。緊張感のカケラもないよね。まるで、自分には無関係のようだ。
でも、現在の落下状況は、やっとで最上階の落下地点からひとつ下のフロアに到達した程度なのだ。人間の能力って不思議。誰かが見ていれば「あ」っと声を出す前に落下地点なのだろうが、まだこれだけしか落ちていない。
が、しかしだ。
残りの地上までの時間で、僕をこの状況にした人物を何とか特定せねば、死に切れないというものだ。
何も好き好んでこんな状況にいる訳ではない。
死ぬのが趣味なんて人はいない。
死にたいと思うことなら何回でも出来るけど、どんなにがんばっても、実際に死ぬのは1回しか出来ない。そう考えれば、貴重な体験と言えなくもないか?
しかし、どれほど貴重なことであったとしても、出来ればもっとずっと後に取っておきたい。
まだ40代も半ば。老いは年々強さを増し、噂の老眼にも憑りつかれ始めたとはいえ、平均寿命を考えれば、まだまだ人生半ばに差し掛かったところだ。幸せなことに、絶望にも今のところ縁はない。衝動的にスパッと死にたいなんて考えたこともないくらいには、今の生活に満足もしている。
何だかよくわからないが、眠りを太陽の照射に邪魔されたと思った時には、こうなっていた。つまりは、最上階にある自分の部屋のベランダから転落してしまったようである。
ゆっくりと回転しながら、遠ざかるベランダを眺めたのが、ついさっきの出来事だ。
ただの自殺ではないかって?
言いようによっては自殺と変わらないかもしれないが、間違ってもベランダの手すりに横たわる愚か者ではない。泥酔して記憶をなくす習慣もなければ、自分で言うのも何だが、けっこう小心者なのだ。
多分、脳内成分が分泌され過ぎて、恐怖心が消えてしまっているのだろう。お陰で落下速度を異常に遅く感じてしまってるのだと思う。そりゃもう遅いったらありゃしない。このペースで落ち続けたら、たっぷり3時間はこの状態を満喫出来るってものだ。何も知らずに死んでしまうのと、どっちがいいのかって感じだ。
着地の瞬間もこの感覚なら、頭蓋骨が異常な形態に崩れる感じもこのペースということになってしまう。バキバキと崩れる感覚を噛み締めながら死んでいくということだ。
嫌だなぁ。
それにしても、せめて最後に見る太陽くらいは、美しく世界を照らしていればいいものを、よりによって曇天に邪魔されて、地上に降り注ぐ幾筋かの光しか拝めていない。天使の梯子というやつ。そして、天に召されるのは、いわずもがなの僕。そういえば、上陸すれば観測史上トップ10に入るほど季節外れの台風が接近しているとネットニュースの見出しで見た気がする。
ということは、朝日がトリガーとなって落ちたのか、風にあおられて落ちたのかも判然としない。
まあ、そこは重要なことではない。
「誰が、僕を殺すんだ?」
人間、分からないことにぶつかった時に何をするか。
伊坂幸太郎はこう記した。
検索するんだよ。と。
納得だ。
明日の天気も運勢も、自分の寿命も値段も、知らない単語の意味もソシャゲの攻略情報も旅行先の観光名所も宇宙からのメッセージも量子物理学の説明もドラえもんの最終回だって検索すれば見つけられる。
分からないことだけじゃない。
必要なものだって検索すれば見つけることができる。
仕事だろうが体型に合ったジーンズだろうが、欲しい漫画に美味しいピザ、音信不通の友人だって映画撮影の機材だってスポンサーだってセックスの相手だって何でもござれだ。
正しいキーワードを入力すれば、犯人だって見つかるに違いない。きっと、未解決事件というのは、未検索事件のことを言うのだろう。
むろん、残念なことに検索に必要な道具がないので、検索するべき場所は自分の頼りない脳みその中に限られる。
とにかく、一体全体、何から考えるのがいいのだろうか。まさか、誰かに恨まれているなんて思ってもいなかったのだ。しかも、殺されるほどに。
とは言え、この会社の専務という立場にもなれば、誰かが僕のことを邪魔だと思っても不思議ではないかもしれない。怨恨だけが動機とも限らない。誰かが自分のミスや犯罪を擦り付けようとしているのかもしれない。はたまた愉快犯だろうか、それとも個人的嗜好だろうか、そんな理由で殺されたくはないものだ。
とにかく、手掛かりになりそうなことを何か思い出してみよう。
ギュルギュルとビデオテープを巻き戻すように記憶をたどる。ビデオテープなんて、もう何年も使っていないが、未だに巻き戻すイメージとしては、あの感覚が根強く残ってしまっている。
イメージは何でも良い。重要なのは、現在から過去へと戻る唯一の方法が、今のところこれだけだ、ということである。それに、自分が見てきた世界を見直す以外、何が出来ようか。
確か、コーヒーを飲んだはずだ。
そうだ。あれは、いつのことだっただろうか……。
まだ新しい短足の食台には4つのコーヒーカップが並んでいる。コーヒーカップは大きさも形も色もバラバラで、一番小さくて水色の物が僕のだった。
背後の大きな窓には、夕陽がもたらすステキなオレンジ色がこぼれそうなほど満ちていたはずだ。
ああ、懐かしい。初めてコーヒーを飲んだのは、小学1年の時だ。
いつの季節のことだったか、学校から帰った後で、夕方だったことしか覚えてない。大きなコゲ茶色の座卓に、父親以外はそろっていた。立ち昇る湯気、漂う香り、年の離れた兄がおいしそうに飲むのを見て、好奇心から母親にせがんで、恐る恐る口に含んだのを憶えている。
激しく不味かった。
こんな黒い液体をよく飲めるものだと思いながらも、我慢して飲み干したのを覚えている。反面、これが大人の味なのだとも思ったかな。余りにカフェインに免疫がなさ過ぎて、飲む度に頭が痛くなってしまったので、しばらく嫌いだったほどだ。
中学生になると、コーヒーを飲む男に憧れて無理して飲むようになった。
自動販売機からゴトリと吐き出される缶コーヒーをヒョイとつかみ、カキンとタブを缶から分離させ、指に残ったタブをピンと弾くのをカッコイイと思っていたのだ。まだ、昭和の気配が色濃く残る古い時代のお話だ。
それだけで大人の気分を味わっていた。コーヒーを飲めない男は、子どもだとも思っていたかな。
それよりも、その頃好きだった同級生のユリちゃんが、コーヒーを格好良く飲む男が好きだと知ったことが最大の理由。若かった。実際、ガキだった。
ユリちゃん、かわいかったなぁ。大きな瞳に長いまつ毛、ふっくらとした小さな口、栗色の髪の毛で透き通るような肌は皆のアイドルだった。競争率は知っていただけでも8倍。彼女と目が合っただけでも、幸せな1日を過ごしていたものだ。
一方僕は、勉強以外では注目されることなどない人物だったのではなかろうか。勉強で注目されていたかどうかも、実際は怪しいものだけど。
何をやらせても人並み以上には出来たのだけど、愛嬌もなければ面白い話も出来ない男だった。そんなつまらない男が注目されるわけもない。
勉強が出来ても、つまらない男では中学時代はモテない。机にしがみ付いて青白い顔をしている奴よりも、少々成績が悪くても、健康的なスポーツマンの方に惹かれるのは当然のことだ。
この頃は机にしがみ付いていたわけではないのだけど、健康的なキャラでもなかった。これで、ルックスでも良ければ話は違っていたのだろうが、残念ながら見事なまでに凡庸な顔つきだった。
加えて、誰かに羨ましがられる特技も持ってはいなかった。
端的に言えば、通知表以外も含めてオール4という感じ。実際の通知表はもう少し良かったけど、際立ったモノを何も持たない存在だったのは確かなことだ。
そんな冴えない少年だったので、別の高校に進学したユリちゃんとは、中学を卒業してからは同窓会で2回か3回見かけた程度で、思い出は何も出てこない。
そりゃもう部屋中引っ掻き回しても、卒業アルバム以外、写真の1枚も出てきやしない。つまらない時代だ。
高校時代になると、話は変わってくる。田舎の朴訥な少年から脱却し、田舎の朴訥な少年に変化した。いや、何も変わってないじゃないかと言われるかもしれないが、この頃の僕としては、高校生のお兄さんになったという感覚はあったものだ。
しかし、今振り返ってみると、田舎臭さからは少しも抜け出せてはないなかったし、少しも成長していなかった。何しろ、40を超えても内面はガキのままで、少しも成長できていないのだから。
それでも、外交的になったという多少の変化はあったかもしれない。
他人との交流を不器用ながらもこなす中で、初めて恋人ができ、デートもした。忘れもしない。学校の近くの喫茶店で2人して飲んだカフェオレの味。部活が終わった後の渇いた体に流し込んだベージュ色の液体。その時まで、頑固にコーヒーはブラックだと決めていた自分が、初めて甘いコーヒーの味を知った。
そう言えば、あの時の彼女は今頃どうしているのだろうか。20年以上も前の記憶では、突然転校してしまって会わなくなったはずだ。風の噂で結婚したということだけは聞いていたが、知っているのはそれだけだ。
本当に突然で、大きな悲しみだけを突き刺していなくなってしまったはずだ。なぜ転校してしまったのか……。
他に覚えているのは、何の拍子だったか、信頼していた相手から酷い裏切り方をされた時に許せるか? といった話題になった時に「突拍子もない奇跡を目の当たりにすれば、きっと、どんな罪も許せるよ」と、穏やかな笑みを浮かべていたことくらいだ。
ふむ。何はともあれ、コーヒーを最後に飲んでからの記憶が全くない。
きっと、あのコーヒーの中に睡眠薬でも入っていたのだろう。さすがに、ベランダの手すりに自分から横になることはないはずなので、何かしら僕の意識を奪う手段を取ったはずだ。
睡眠薬を使うということは、計画的である証拠だ。何食わぬ顔でコーヒーを入れた人物が断然怪しいってことになる。
なるほど。それなら話は早い。
あのコーヒーを入れたのは僕だもの。というか、秘書なんていう贅沢な者はいないから、いつも自分でやる。
ということは、自殺……か。
落ちているだけに、これにて一件落着。ってか。
いやいや。そうではないから困っている。そもそも、自分で睡眠薬を服用してしまっては、まともに移動できないではないか。
ただし、この疑問に対しての答えなら簡単だ。
やろうと思えば、気づかれずにコーヒーに睡眠薬を入れることは誰にでも出来るからである。
自分専用のオフィスではあるけれど、仕事柄誰でも気軽に入れるし、実際に毎日数多くの人間が出入りしている。暗証番号が設定された電子ロック付きの扉で区切られているとはいえ、出入室の際にチェックなんて一切ない。
資料の貸し出しでもなければ、記録は残っていないはずである。
ドサクサに紛れて細工をしようと思えば、簡単なことなのだ。
無造作にデスクの上に置かれているコーヒーカップなり、ミルクなり、コーヒーメーカーなりに混入させておけばいい。後は勝手に、自分で睡眠薬入りのコーヒーを作っている。
世の男性のほとんどと一緒で、部屋のどこかが少し変わったくらいでは気づきやしない。妻の髪型が劇的に変わっても指摘出来ない、鈍感で一般的な男なのだ。それに味音痴で、水道水と市販の水の違いも分からない。
高校時代から使い続けている「自称、違いの分からない男」は伊達ではない。
睡眠薬も即効性のものだったのかどうかも分かりゃしない。
やれやれ、コーヒーのせいで1階半も落ちてしまった。しかし、誰かが睡眠薬を飲ませたのは間違いないだろう。取り敢えずは一歩前進ってことで良しとしよう。
下に誰かいたら、申し訳ないなぁ。巻き込まれて死んでしまったのでは、僕以上に死に切れないだろう。でも、迫り来る地面を見ながらは落ちたくないので、この体勢のまま落ち続けよう。
それにしても、僕が眠ってしまったのは自分のデスクのはずだ。あの状態にするためには、そこからベランダまでの数メートルを運ばなければならない。たいへんな作業だったはずだ。
昔のようにヒョロヒョロした体型ならまだ楽だったろうけど、確か、3月に行った健康診断では身長百179センチで、体重も85キロあったはずだ。
意識のない人間を運ぶだけでも大変なのに、この体重となると、持ち上げるだけでも重労働だろうに。もしかしたら、複数の人間が関わっているのだろうか。だとしたら、ますます話が分から………………。
イ タ…… ……っ ケ ボっ……
ヤ ………… のッ
…………………………
ウゥ……
…………………………ハウッ。
その瞬間、何が起こったのか、すぐには把握出来なかった。
パンッと神経に雷のような激流が走ったようだった。
ギュッと卵でも握り潰すような激痛が心臓に襲い掛かったのだ。
脳みそに走った小さな電気信号が生み出した架空の映像が、頼りない心臓への負担へとなっていたのだった。僕が愛する人々が、ニヤニヤと笑いながら突き落とす準備をしていたなんて、そんなことある訳ないのに……。モヤモヤとしたイメージは鋭い刃となって自分自身を傷つけてしまっていた。
好きなこと。
知らない道に足を踏み入れること。
幼い頃からそうだった。小学校の帰り道、わざわざ遠回りをしてでも初めての道を目指した。時には道なき道も冒険したものだ。野を越え山越え他人の家の庭すら越えてエンヤコラ。
そう、それは最高の冒険だった。残念ながら、漫画に出てくるような不思議の国にたどり着いた経験は一度もないけれど、いつでもワクワクドキドキしたものだ。
あ、失礼。
こうやって時々、好きなことや嫌いなことを思い浮かべるのは癖なのだ。もしかしたら、煙を出しそうな頭を冷やすための回避行動かもしれない。深い意味はないので気にしないで欲しい。
少し、落ち着けたようだ。
僕は会社では専務という立場を任されてはいるけど、社長は妻である。逆玉に乗ったというのとは、ちょっと違う。
この会社は、結婚してから妻が買った宝くじで、幸運にも獲得した賞金で設立したゲーム制作会社なのである。
それまで一介の主婦だった妻は、この分野では大変優秀なディレクターだった。そうであると信じてはいたけど、本当にそうだったことを知った時は驚いたものだ。
時代の流れに乗れたというのも大きいだろう。本格的にゲームを作る前に、運転資金を稼ぐために制作した動画配信アプリは、たまたま有名なインフルエンサーの目に留まり拡散されると、宝くじの当選金額を上回る利益を生み出してしまったのだ。
最近も、身近な友人とのコミュニケーションツールとして開発されたアプリは情報ウェブサイトや雑誌で高い評価を受け、利用者を順調に増やしている。
そんな会社にあって、僕の仕事はといえば、資料収集とその整理。華やかな世界には全く関係のない地味な仕事だ。
元々量販店の倉庫で管理を担当していたので、それくらいしか役に立てないというのが実情だが、僕の働きぶりがあるからこそ、皆が自分の仕事にだけ集中出来ると思っている。きっと、僕の仕事がなければ、半年で出来るものも2年はかかってしまうだろう。
大げさかもしれないけれど、それくらいこの仕事に誇りを持っている。
僕がいるからこそ、この会社は成功していると自負さえしていた。
なのに今、何者かによって殺されようとしている。困ったもんだ。
ああぁ、本当に死んじゃうんだなぁ。
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