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庵を出て、僕は大きく大きく息を吐く。
外は、既に日が沈んでいて、空には大きな月が浮かんでる。
「ね、父様。面白い人だったでしょ?」
吸い込まれそうなくらいに綺麗な月を眺めてると、ふと声を掛けてきたのはソレイユだ。
面白い人、というのは長蛇公の事だろうけれど、……まぁ、僕と話が合うかはさておいて、確かに随分と面白い人だった気はする。
ただ、疲れた。
暫くはもう、難しい話は沢山だって思うくらいに。
「長蛇公は私に何度も言ってたよ。父様にはこの大陸を救って貰った恩が、母様には南の大陸を助けて貰った恩があって、エルフのキャラバンはとても立派な商会だって」
恩かぁ。
僕は、多分アイレナも、やりたい事をやっただけなのに、そんな風に思われても、何とも言えない。
まぁエルフのキャラバンが立派な商会なのは確かだ。
僕が気紛れで思い付いたエルフとドワーフの交易をアイレナが形にしてくれて、よくもまぁここまで育ったものである。
多くのエルフが関わってくれて、更に多くの人が加わって。
仙人である長蛇公が警戒心を露わにした商会なんて、他には存在しないだろう。
今、中ではケイレルと長蛇公が、アイレナの立ち合いの下で詳細な条件を詰めている。
これから、エルフのキャラバンと黄古帝国は契約を交わす。
両者の有する資産、握ってる流通が、北の大陸全体に対して一定の割合を越えないようにする契約だ。
逆に極端に下回った場合には、互いに助け合う事も契約の内容に含むそうだが。
僕がそうしろと言うならエルフのキャラバンと以前と同じ取引を続けるとの長蛇公の言葉に、待ったを掛けたのはケイレルだった。
長蛇公の行動の理由がわかった今、その必要はないと、ケイレルはきっぱりそう言って、詳細な契約を結ぶ事を提案したのだ。
だから僕は、難しい話からは解放されて、今はこうして空を見上げてのんびりしてる。
なるほど、ケイレルはやっぱり、アイレナの後継者に相応しいエルフだった。
黙っていれば以前と同じ取引を続けられるかもしれない。
その状況で声を上げるのは、実に難しい事だったろう。
しかしケイレルの賢さは、長蛇公の意思を受け入れた上で、もっと詳細な契約を交わす道を選ばせた。
結局はそれが、エルフのキャラバンに長い安定を齎すと考えた上で。
「他の仙人も、色々と父様の話はしてくれるよ。あっ、父様、竜翠帝君を殴ったって本当なの? 一応は皇帝陛下だよ。駄目じゃない」
不意にソレイユに昔の失敗を持ち出されて、思わず咽そうになる。
そんな事もやらかしたなぁ。
自信満々に殴ったら、相手が胡散臭かっただけで、そんなに悪い訳じゃなかったって話だ。
でも殴っちゃ駄目な理由が皇帝陛下だからというのはちょっと面白い。
それを言うなら僕は皇帝陛下の養父で、ソレイユは皇帝陛下の実の娘だった。
まぁ、大陸の正反対にある全く別の国の話だけれども。
「あの時は色々あったんだよ。起きそうになってる黄金竜に影響されてたし、竜翠帝君は思わせぶりな態度を取って来るからさ。黒幕かなって思ったんだよ」
少しみっともないけれど、口を尖らせて反論、というか言い訳を行う。
笑われるかな、とは思ったけれど、ソレイユは逆に納得した顔で小さく頷いた。
あぁ、やっぱり彼女も、竜翠帝君は胡散臭いと思ってるのか。
夜の風は心地好く、耳をすませば虫の音が聞こえる。
パンタレイアス島を出発した時は夏だったのに、もう秋になっていた。
いや、たった季節の移り変わりが一つだけで、この黄古帝国にまで来れた事に、驚くべきなのかもしれない。
「話し合い、上手くいくといいね」
ソレイユの言葉に、僕も頷く。
彼女とてエルフのキャラバンでは、色々と仕事を手伝ってた身だ。
多少の思い入れはあって当然である。
後ろの小さな庵の中では、世界を左右するかもしれない話し合いが続いてた。
いいや、自分達で世界を左右しない為の話し合い、と言った方が正しいのか。
いずれにしても、えらく規模の大きな話が、小さな庵で行われている。
それが何とも面白くて、僕の顔には自然と笑みが浮かぶ。
「上手くいくんじゃないかな。僕には商売の事なんてさっぱりわからないけれど、長蛇公が分野は違っても王亀玄女や白猫老君と同じく、或いはそれ以上に凄い仙人だって事はわかったよ」
別にこれまで長蛇公を侮っていた訳ではないけれど、彼の得意分野は僕には理解が難しかった。
王亀玄女や白猫老君は、その得意分野に関しての知識があるから、彼らの凄さがすぐにわかったけれども。
だったら会った事のない凰母とやらも、きっと何かが凄い仙人なのだろう。
そしてソレイユは、そんな仙人達に囲まれて弟子をやってる。
あぁ、ちゃんと恵まれた環境に居るのだなと確認できて、嬉しい。
それから僕は、ソレイユと他愛のない話をした。
王亀玄女の訓練が厳し過ぎるとか、白猫老君は見た目がお爺ちゃんだから重い物を担いだりしてるのを見たら心配になるとか、そんな話を。
なんでも白猫老君は、今でも自分で鍛冶を続けているらしい。
個人的には今の僕の剣が、どこまで王亀玄女に通用するか試してみたくはあるけれど……、流石にそれをしようと思えば長く黄古帝国に留まり過ぎる事になる。
王亀玄女が黄古帝国を離れないなら、僕との手合わせが実現する事はないだろう。
「ねぇ、父様。もう一度、父様がこの国に来た時の事を聞かせて。今度は、ちゃんと全部、詳しくね」
ソレイユは、また随分と時間の掛かりそうな話をねだる。
だけど恐らく、庵の中で行われてる話し合いはそれ以上に時間が掛かるから。
まぁ、それくらいは良いだろう。
今のソレイユになら、敢えて伏せてた裏話の類も、きっと話しても大丈夫だ。
どうやら僕の事を好き勝手に話してくれてる仙人達への、いい意趣返しにもなると思うし。
これで僕が黄古帝国にやって来た目的は殆どが果たせた。
後、用事があるとすればたった一つ。
「いいよ。でもそれが終わったら、うぅん、長蛇公の話が終わったら、ウィンの墓に案内して欲しいな」
僕はソレイユの言葉に頷いてから、逆に頼み事をする。
西部で一番の大国、サバル帝国の皇帝であったウィンが没したのは、大陸の正反対であるこの地だ。
つまりはそういう事だった。
その後、ウィンの遺骸は魔術による防腐処置を受けてサバル帝国に運ばれたというが、僕はウィンが眠るのはこの地だと思ってる。
少し複雑そうな表情を浮かべたソレイユが、ウィンと最期にどんな話をしたのかは知らないし、彼女から言い出さなければ聞かないけれども。
折角ここまで来たのだから、偲びたいと思うのだ。
色々と不器用だったかもしれないけれど、間違いなく精一杯に生きた、可愛らしくて立派だった、僕の自慢の子供の事を。
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