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 僕の矢もリリウムの矢も、お互いを掠めて逸れた。

 でもそれは、別にわざと外した訳でも、もちろん腕が悪くて外れた訳でもない。

 相手の構えを見れば、どこを狙って矢が飛んで来るのかくらいは察せられるから、自分の矢を放つと同時に横に跳んで、何とか避けただけの話である。

 お互いにハイエルフなのだから、それくらいはできて当然だ。

 今のは、まぁ、挨拶のような物である。


 しかし、どうやらリリウムは、意外に年若いハイエルフなのかもしれない。

 僕は、百五十歳で深い森を出るまで、若いハイエルフの中では頭一つ抜けて弓の腕が上手かった。

 前世の記憶を持ってた僕は、深い森のゆったりとした時間の流れが退屈で、弓の修練は格好の暇潰しだったから。


 但し深い森を出てからは、弓は狩りをしたり、魔物との戦いに使うくらいで、以前のような難しい的当てに挑む事は少なくなってる。

 別に腕が落ちたとは言わないが、成長は間違いなくしていない。

 鍛冶や剣や魔術や彫刻や、旅や人との関わりに意識を傾けてる間にも、他のハイエルフ達が弓の修練を続けていたなら、僕はきっと中の下くらいの実力に位置するだろう。


 けれども、今の一射でわかったリリウムの弓の実力は、僕と同程度か、少し劣るくらいだった。

 つまりそこから考えると、彼女が弓を特に苦手としていないなら、僕より年下である可能性が高い。

 そして弓の実力が近ければ、互いに矢を放つタイミングや狙いを読めてしまうので、どちらかが当てる事よりも回避に比重を置けば、大きなミスをしない限りは決着がつく前に矢が尽きる。

 僕は弓以外にも剣や魔術が使えるし、何なら素手での喧嘩も不得意じゃない。

 お互いの矢が尽きたなら、その時点で勝負は決まるだろう。


 それで決着が付くのなら、無理に相手を傷付ける必要もなかった。

 何しろ僕は、北の大陸が焼かれる事は止めたいけれど、別にリリウムを殺したい訳じゃないのだ。

 負けを認めさせさえすれば、後はゆっくりと説得すればそれで済む。

 言葉で人間への憎悪が消えるとは思わないが、復讐を諦めさせる事はできる。

 だって、彼女の復讐は既に果たされてて、人間の帝国の皇帝も、付き従った人間達も、既に南大陸と一緒に焼けて死んでしまったのだから。


 そんな風に甘い事を考えて、矢筒の矢に手を伸ばした時、不意に風が渦巻く。

 異変を察して咄嗟に地を転がれば、先程まで僕が居た場所で、風が弾け飛ぶ。

 衝撃に思わず腕で顔を庇えば、だが今度は周囲の海から水球が浮かび上がって、僕を的に砲弾の如く放たれる。

 それは間違いなく、精霊の力による攻撃だ。

 一体何故と思う間もなく、僕は水の砲弾から逃げ惑う。


 幸いにも僕が身に纏う外套には、黄金竜の鱗が仕込んであって、並みの金属鎧よりもずっと頑丈だった。

 故に数発の水球がぶつかったくらいなら、致命傷になりはしない。

 だけど問題はそこじゃなく、精霊がハイエルフである僕に対して攻撃を加えたって事である。

 生まれてからずっと、絶対的な味方であり、最も身近な友であった精霊がだ。

 幾ら相手が同じハイエルフとはいえ、どうして精霊が僕を攻撃するのか。

 あまりに衝撃的過ぎて、考えが少しも纏まらない。


 見れば、リリウムの周囲には複数の、風と水の精霊がいる。

 そして彼女と同じ、憎悪に満ちた目で僕を睨み付けていた。

 いや、違う。

 絶対に可笑しい。

 そんな事はあり得ない。

 百歩譲って、何らかの理由で精霊がリリウムの味方をしなければならない事情があったとしよう。

 それでも精霊が、僕に憎しみを向けるなんて事は、あり得る筈がないのだ。


 だとしたらリリウムの周囲に浮かぶアレは、精霊であって精霊でない。

 あぁ、そうか。

 僕はそんな存在に、一つだけ心当たりがあった。

 精霊であって精霊でない存在といえば、そう、僕らハイエルフだ。

 ハイエルフの魂は、肉体を離れた後に精霊となる。


 つまりリリウムの周囲に浮かぶ精霊達は、……人間の帝国との戦いで、命を落としたハイエルフなのだろう。

 恐らく彼らが守り導いたから、彼女は黒檀竜の所まで辿り着けた。

 いいや、いっそ精霊となったハイエルフ達が、リリウムを突き動かして南の大陸を黒檀竜に焼かせ、人間を滅亡させようと動いているのかもしれない。

 もしそうだったら、もうアレは精霊というよりも、怨霊のような物である。


 あぁ、相手が真っ当な精霊じゃないとわかれば、……気持ちは随分と落ち着いてきた。

 それならば仕方ない。

 戦いで死んだハイエルフ達は、そりゃあ人間を滅ぼしてしまいたいだろうし、それを邪魔する僕は憎くて仕方ない筈だ。


 尤も、気持ちが落ち着いた所で状況は何も変わらないけれども。

 憎しみに囚われていたとしても、精霊の力は僕が誰よりも知っていた。

 何せ精霊と共になら、黄金竜が相手であっても傷の一つも付けられると挑もうと考えた事すらあったくらいなのだから。

 今の状況の厳しさは、十分以上にわかってる。


 ……なのに、何故だろうか。

 相手が友である精霊でなかった事への安堵が広がって、僕の心は満たされていた。

 水球から逃げ回る最中に弓は手から落としてしまったけれど、それでも大丈夫だ。


 腰に手を伸ばせば、僕の魔剣に触れる。

 大丈夫だと思える根拠は、ここにある。

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