301


 その日の朝、滞在してる屋敷の裏庭で日課の鍛錬をこなしてた僕は、不意に世界が揺れたように感じた。

 いや、実際に地揺れが起きた訳じゃない。

 そもそもこの大陸では滅多に地揺れなんて……、ハイエルフが意図的に地の精霊に働きかけないと起きないし、僕は地揺れの兆候があれば事前に感じる事もできる。

 だから寧ろ、本当に地揺れであった方が、僕の動揺はずっと小さいだろう。


 それは、とても巨大な存在が、東の地で動いた事で起きた波。

 強い羽ばたきによる大気の揺れ。

 人の耳には聞こえぬ声は大陸中に広がって、他ならぬ僕へと呼び掛けていた。


「黄金竜……」

 僕は呼び掛けに、その名を呟く。

 どうやら黄金竜が、僕に会いに来るらしい。


 一体、どうして真なる竜が目覚めてしまったのか。

 さっぱりわからないけれど、その結果として起きる事は恐らく一つ。

 そう、今の世界の終わりだ。


 だけど、黄金竜は即座に世界を焼き始める訳でなく、まず僕に会いに来るという。

 ならばまだ、その対面にて、世界の終わりを食い止める事はできる筈。

 そもそも、不死なる鳥であるヒイロの話だと、増え過ぎた歪みの力を魔物ごと焼き払う、本来の意味での世界の終わりはまだまだ先の予定だ。


 以前のように、話し合いで済むかもしれない。

 しかし既に目覚めてしまった黄金竜を止めるには、力を以て当たるしかないかもしれない。

 古の種族の中でも最も強力な真なる竜と争えば、僕に勝ち目は皆無だろう。

 でも全身全霊で抗えば、僕の存在と引き換えに、幾許かの傷を黄金竜に刻む事はできる筈。


 ハイエルフは肉体の生を終えた後、不滅の魂は精霊になる。

 他の生き物に比べれば、僕にとっての死は、きっとそこまで重くない。

 もちろん頭でそう理解してても死ぬのは怖いし、今の生きてる時間を手放すなんて事は、考えたくもないけれど。

 ただ竜の炎に焼かれて、未だ精霊ならぬこの魂が無事に済むかは、試してみなければわからなかった。

 何しろ古の種族には含まれぬものの、同じく創造主に生み出された存在である神々ですら、竜の炎は恐れたと聞くから。


 胸の奥が冷たい。

 身体が震えてしまう程に。

 それでも、僕の好きなこの世界が炎に包まれ、親しく、愛しい人々が焼かれてしまうのを、座して見ている事はできない。

 だから怯えていても、震えていても仕方ない。

 やるべき事は、できる事は、きっとある。


 僕は素早く身支度を整えると、小舟を借りて海に出た。

 サウロテの町中に、黄金竜に飛んで来られるのは、些か以上に都合が悪い。

 もちろん、多少離れたところで本気の黄金竜と戦う羽目になれば、そんな距離は誤差に過ぎない。

 何しろ相手は大陸を、世界を焼き尽くす真なる竜だ。

 戦いの余波だけでも、サウロテは崩壊するだろう。


 故に申し訳ないけれど、僕がサウロテを離れたのは町を心配しての事ではなく、戦い易い場を選んだというだけである。

 精霊の力を最大限に借りるなら、町中よりも海の上が良い。

 ここには火や土の精霊は居ないけれども、海に宿る強い水の精霊と、風の精霊の力は大いに借りる事ができる。

 海という巨大な自然環境を利用すれば、たとえ相手が真なる竜であっても、傷付けるくらいには戦えると思うのだ。

 ……だったらいいなぁって、希望混じりの推測だけれど。



 やがて東の空に、巨大な竜の姿が見えた。

 以前に黄古帝国の地下で会った時よりも遥かに大きいけれども、その身に纏う雰囲気は変わらない。

 紛れもなくそれは真なる竜。

 七年間、毎日語り合った古き友である、黄金竜だ。


 向こうも既に僕に気付いている様子で……、いや、そもそも東部から、僕を目指して飛んで来てるのだから、気付いていて当然か。

 待ち受ける僕の前に、といっても相手が大き過ぎて距離感が良くわからないけれど、舞い降りた。

 その羽ばたきだけで、海がうねって揺れている。

 もしも水の精霊が支えてくれなければ、風の精霊が守ってくれなければ、僕の乗る小舟なんて、あっという間にひっくり返ってしまうだろう。


 でも、うん、これくらいの方がそれらしい。

 震えてしまいそうな胸の冷えが収まった訳じゃないけれど、ここまでくれば開き直れる。


「久しぶりだね、黄金竜」

 僕は黄金竜の視線を真っ向から受け止めて、向こうが呼び掛けて来るよりも先に口を開く。

 幸いにも、発した声は震えてなかった。

 あぁ、僕は割と、土壇場での度胸はある方なのだ。


『友よ、我の感じる時間の流れからすれば、語り合った日々はつい先日のようにも思うが、しかし友が久しいというのであれば、久しいのだな』

 黄金竜から降って来る思念、彼にとっての声は、覚えのある穏やかで静かなもの。

 だけど僕は知っている。

 もし真なる竜としての役割を果たす心算なら、黄金竜は穏やかで心を乱さぬままに、世界を焼き尽くしてしまうのだと。

 彼はとても優しいけれど、だからこそ世界を守るという役割、炎で焼き払うという破壊のシステムに、余計な情を挟まない。


『だが友よ。友にとっては久しぶりで、我にとっては瞬く間の再会だが、我は友に問わねばならぬ。この世界は、友にとって変わらずに素晴らしき、価値ある世界であるのかと』

 先日から瞬く間に変わってるけれど、黄金竜と過ごしたのは八十年程前の話だから、まぁ真なる竜の時間感覚からすれば、本当に誤差のような物なのだろう。

 ならば何故、黄金竜はとっては誤差のような時間しか過ぎていないにも拘わらず、再びその問い掛けを僕にする必要があるのか。

 それもあの時とは違って、僕が黄古帝国を訪れた訳でもないのに、わざわざこちらに出向いてまで。

 ただどうしてその問い掛けが再びなされたのかはわからなくても、答えは変わらず決まってた。


「もちろん、この世界は僕にとって大切な世界のままだよ。もし君がそれを焼こうとするなら、敵対してでも止める心算で、僕はここに立っている」

 僕の言葉に、海のうねりは強くなる。

 しかしそれは、黄金竜の羽ばたきによるものではなく、僕の心に呼応した海に宿る水の精霊が、徐々に荒ぶり始めているのだ。

 相も変わらず海に宿る水の精霊は、本当に雄々しい。


 水の精霊には対しては穏やかなイメージを抱く人が多いらしいけれど、実はその攻撃性は非常に強い。

 何故なら水は津波や川の氾濫といった、大災害をも引き起こすから。

 でもその攻撃性に、僕が逆に引き摺られるのはよくなかった。


 恐怖の感情は、強く押さえ付ければ裏返り、時に高揚を齎す事がある。

 だが恐怖に反発する高揚は強い攻撃性を帯び、それに流されて自分を見失えば、所謂パニック状態だ。

 怯えて竦むよりは多少マシだけれども、そんな破れかぶれが真なる竜に通用する筈がないだろう。

 今の僕は、まだ自分を抑えられていて、見失ってはいなかった。

 冷静に、戦意を折らず、けれども激情に流されず、僕は黄金竜から目を逸らさない。


『真なる竜と戦う。それが友の身に何を齎すかをわかって、その言葉を吐くのか』

 黄金竜の思念は、やっぱり静かで穏やかで、なのに暴力的な恫喝よりもずっと恐ろしく思う。

 だけど僕の答えは、今更変わる筈がない。


 ウィンはやっと、西部の戦争を終わらせられた。

 アイレナは西中央部や西部のエルフが安心して暮らせる環境を取り戻す為に、今も向こうに赴いている。

 アズヴァルドが生きる残りの時間は短いが、彼は子や孫に囲まれて、看取られて逝くのだ。


 竜の炎によるリセット、終焉というシステムは、世界を守る為に必要な物ではあるのだろう。

 古の種族が頭を突き合わせて出したその結論、苦渋の決断に対して、異論を挟む心算はなかった。

 彼らとて、他に手があれば世界を焼くなんて真似を選ぶ筈がないし。

 ただそうであっても、僕がハイエルフとして存在してる間は、大切に思う人を、世界を焼かせはしない。

 それが僕の我儘に過ぎないとしても、こればかりは譲れない。

 だって僕は、そう、古の種族としての理屈よりも自分の感情を優先する、クソエルフなのだから。


「当然だ」

 僕は、黄金竜から目を逸らさずに、はっきりとそう告げる。

 次の瞬間、竜の炎に焼かれようとも、全力で一矢報いる覚悟を以て。


 すると黄金竜は、口から炎を吐く代わりにその長い首を動かして、

『わかった。ならば我はその友の意思に助力をしよう。北の大陸を守りし黄金竜は、南の大陸の黒檀竜からの要請を拒絶する。我が守護する大陸は、今は未だ終焉の時に非ず。友が愛する素晴らしき世界を、我が焼く必要はない』

 一つ大きく頷いた。

 あぁ、どうやら今回の黄金竜の来訪には、僕が思ってる以上に複雑な事情があるらしい。

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