第205話
キリキリと、音を立てて弓の弦が引き絞られる。
狙いを澄まして、番えられた矢が狙う先は、気配を察して耳をそばだてる一羽の兎。
そして兎がダッと駆け出すのと、矢が放たれるのは、僕が見る限りほぼ同時だった。
「あーっ、もう、何で逃げるの!」
その結果、矢はぶすりと地を突き刺し、兎は一目散に逃げ去ってしまう。
不満気に唇を尖らせてそんな言葉を口にするのは、矢を放ったアイハ。
だが幾ら怒ってみたところで、結果が変わる筈もない。
それにそもそも、命中しなかったのは単に彼女の実力だ。
アイハも一応は弓の扱いを知っているが、その腕前はまだまだ未熟で、野生の獣を仕留めるには不足してる。
実は先程の矢も、仮に兎が逃げなかったとしても、結果は変わらなかっただろう。
「そりゃあ矢が刺さると痛いからね。狙われてると察したら、素直に仕留められてはくれないよ」
僕の言葉に彼女は、多少不満気にしながらも、納得したように頷く。
このところ、僕が定期的に王都からアイハを連れ出し教えているのは、森での狩りの仕方に、仕留めた獲物の捌き方、それから可能な限り安全に野営を行う方法だった。
つまりは、そう、彼女が冒険者になる為の、訓練である。
アイハが言う『義の為に、弱い人を助ける為に、剣を振るってみたい』という望みを叶えるには、恐らく冒険者になるのが一番の近道だと思う。
その意見にはシズキもトウキも、それからアイハ自身も同意し、納得した。
もちろんアイハには他にも選べる道はあるけれど、そのどれもが彼女の望みとは些か遠い。
例えばアイハが道場を継げば、彼女が剣を振るう理由は常に流派の為となる。
或いは剣で身を立て、国や貴族に仕官したなら、剣を振るうは主の為だろう。
しかし冒険者であったなら、少なくとも受ける依頼は選べるし、戦う理由も自分で決める事ができる。
世界を知り、人間という生き物を知り、それでもアイハが弱い人を助けたいと思うなら、そのような依頼を受ければいい。
冒険者とてしがらみは皆無ではないけれど、自らの実力によって立つならば、歩く道を選べる自由はある生き方だ。
僕自身は冒険者をした事はないが、アイレナとその仲間に出会ってから、数多くの冒険者を見てきた。
鍛冶屋として武器防具を見立てたり、旅の最中に相席したり、知人が冒険者として身を立てたり。
一つ星の駆け出しから、最高峰である七つ星まで、僕は幅広く冒険者を知っている。
そんな僕の目から見て、アイハの望む生き方に最も近いのが、実力のある冒険者として身を立てる事なのだ。
誰かを救いたいと思うなら、その余裕を持ち、また自由でなければならないから。
或いはアイハが望むなら、冒険者として身を立てた後、黄古帝国を目指せばいい。
そうすれば真に、遊侠として生きる事も、決して不可能ではない筈。
但しその為には、単に剣術の腕が立つだけでは足りなかった。
冒険者として活動するなら、あらゆる危険から自分の身を護る必要がある。
依頼を選り好みする気なら、そもそも金に困らぬように採取や、獣や魔物を狩って稼がねばならない。
更に時には、人を躊躇わずに斬らねばならないのだ。
故に幅広い技術が、知識が、覚悟が必要になる。
獲物を狩り、捌いて食し、安全に野営を行うのは、その為の基礎の基礎だった。
狩りを通して命を奪う事に慣れ、また時には思わぬ危険な目にも遭い、恐怖を知るだろう。
正面から挑むばかりが正しい訳じゃないと理解し、気配を殺す技術も学べる。
他にも、仮にアイハが何らかの怪我をすれば、僕は薬草の見分け方と、それを用いた応急手当の方法を教える心算だ。
技術と、知識と、覚悟を、少しずつ彼女に身に付けさせていく。
もしも途中で、アイハが冒険者の道を望まなくなったとしても、得た経験は無駄にはならない筈。
想定された形ではなくても、彼女の人生の中で何らかの意味を持つだろう。
でもこのままアイハに狩りを任せっぱなしだと、どうやら今晩は食事が抜きになりそうだ。
狩りが成功せずに食事抜きは、あまり楽しい経験ではなかった。
僕も狩りに参加するか、それとも食用が可能な野草を教えて狩りのついでに集めるか。
少しばかり、思案する。
「もーっ、また逃げた!」
丁度その時、また矢を外したアイハが、怒りのこもった声を発した。
あまりよくない兆候だ。
感情的になればなるほど視野は狭くなり、獣にも気配を気取られる。
そうなれば狩れる獲物だって狩れやしない。
或いは怒りの声、撒き散らされる気配を、魔物が察して狙いに来る場合だってあるのだ。
アイハもやがては魔物と戦う必要があるけれど、……まだそれは少しばかり早かろう。
僕はぷりぷりと怒る彼女の頭に手を伸ばし、落ち着かせるように軽く叩き、それから撫でる。
アイハはそれに、子供扱いだと文句を言うが、だからといって手を払い除けたりはしなかった。
まぁ子供扱いとは言うが、実際に子供なのだから、何の問題もありはしない。
さてそうやって落ち着かせたら、やはり食べられる野草も教えながら狩りを続けるとしようか。
折角なのだから自力で食材を集めた方が、少しは楽しくなるだろう。
前のめりにならず、視野を広く、落ち着いて行動した方が、結果も良くなる。
教える事は沢山あるけれど、できればその全てを、楽しく身に付けて欲しい。
だってその方が、きっと僕も楽しいから。
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