第180話
僕は別室に案内されて、ノンナの孫であるらしい宿の女将、シェーネの話に耳を傾けた。
なんでもこの宿屋が以前よりも大きくなった経緯には、アイレナやエルフのキャラバンが関わっているらしい。
丁度、僕が大陸の東部へと旅立った頃、エルフのキャラバンはこのジャンぺモンを訪れたそうだ。
そう、ノンナに、僕が書いた手紙を届ける為に。
そしてその際にエルフのキャラバンは、この宿を滞在場所に指定したんだとか。
あぁ、キャラバンは町を訪れればどこかの宿に滞在するから、単に宿を利用する事自体は、別に珍しい話でもなんでもない。
けれどもエルフのキャラバンは、ジャンぺモンを訪れた際には必ずこの宿に滞在したいと町の領主に働きかけた。
恐らくは、アイレナの判断で。
エルフのキャラバンは単に交易の為だけに人間の町を回っている訳ではなく、エルフという種族に対する窓口としての役割も担ってる。
ジャンぺモンの町の領主は、即ちトラヴォイア公国の王でもあるから、それは人間の国に対する、エルフという種族からの要請だった。
要するに一種の外交案件だ。
その結果、ジャンぺモンの領主はこの宿を保護しなければならなくなった。
どうやらその時、この宿はちょっとしたトラブルに巻き込まれていたらしく、アイレナはそれを解決する為、権力者である領主を宿の後ろ盾にしたのだろう。
自分達が動いて直接トラブルを解決するよりも、その方が穏便に、継続的に宿が守られる事になると考えて。
……その辺りの判断ができるのは、流石はアイレナと言うしかない。
腕の良い冒険者として多様な人間と出会い、種族を代表して人間の国との交渉すらこなしてきた彼女は、間違いなく最も人間の社会を熟知してるエルフである。
僕も人間の世界に暮らして長いが、その手の判断力、交渉力ではアイレナに及ぶ気がしなかった。
一応、僕は薄っすらとではあっても前世を人間として生きた記憶を持ってるけれども、尚も全く。
もしも僕がその場に居たなら、トラブルを力で粉砕するか、時間が解決してくれるまで守りながら待つくらいが精々だ。
あの時、エルフのキャラバンがこのジャンぺモンに向かってくれたのは、幸いというより他にない。
もちろんアイレナがそうやって手を回したのは、その場に居なかった僕やウィンの代わりに。
エルフのキャラバンが贔屓にしている宿だとの噂が広まり、物珍しさも手伝って泊り客は増え、部屋数を増やす為に増築し、この宿は今の形になったらしい。
まぁ元より食事の美味しい宿だったからこそ、物珍しさから集まっただけの客も一度限りで逃さずに捉まえて、繁盛に繋がったのだ。
それはノンナやその両親から継いできた、この宿の良さが皆に認められたという話でもある。
そういえばもしかすると、エルフのキャラバンが幾度か訪れているからこそ、門番をしていた衛兵は、僕に対してあんなにも好意的な態度だったのだろうか。
アイレナがどこまで考えて差配してるのかは分からないけれど、ジャンぺモンで目の当たりにした結果を見て、僕はそれを嬉しく思う。
「お婆ちゃんは、エイサーさんとウィン君、あっ、私より年上の方でしょうけれど、お婆ちゃんがそう言ってたので、……お二人の事を、とても沢山話してくれたんですよ。エイサーさんは、憧れの人だったって」
宿の女将、シェーネはそう言ってカップに茶を注ぐ。
あぁ、それで彼女は、名乗らずとも僕の名前を言い当てたのか。
ただノンナには僕がハイエルフである事は告げていたけれど、どうやらシェーネはそこまでは知らぬ様子。
茶請けは小麦の焼き菓子で、サクリと齧れば歯応えが程好く、練り込まれたバターの香りが口の中にふわりと広がる。
実に良く茶に合う。
その時、ふと気付けば、ジッとこちらを見詰める幼い視線。
シェーネの娘、ノンナの曾孫の……、確かアイナと呼ばれた少女。
見知らぬエルフに興味があるのか、話に加わりたそうに向こうでモジモジとしている様が、実に可愛らしい。
思わず招いて焼き菓子を与えてやりたくなるけれど、それをしてしまえば後で母は子を叱るだろう。
昔と然して変わらぬ気安い空気の宿ではあるけれど、それでも客に物をねだる癖が付くのは彼女の為にもならなかった。
しかし僕が残した焼き菓子は、もう流石に別の客に出す訳にもいかないだろうから、もしかするとアイナの口に入る可能性もある。
故に僕はそれ以上は焼き菓子に手を付けず、茶だけを飲んで喉を潤す。
胸を過ぎるは、懐かしさ。
来て良かったと、そう思う。
大陸の東部に向かう前の僕には、ノンナやカウシュマンといった親しく思う人間が失われる事を、受け入れられるだけの心の余裕がなかった。
だけど今は、もう違う。
旅立つ前の僕と今の僕で、たかだか十数年の時間の間に、どんな風に心の持ちようが変わったのかは、自分では分からない。
多くの物を見て、考えて、何かを得たようにも思うし、僕は僕のままで特に変化はないような気もする。
まぁ、そんな物だ。
きっと多分、僕は一歩くらいは前に進んでるけれど、その一歩も小さな一歩だ。
千年の時間の中の十数年なんて、その程度だろう。
それよりも今、大切なのは、あの時は受け止められなかった喪失を、改めて確認して、受け入れる事。
大陸の東部へ旅立つ前なら、生きてるノンナにも会えたのだろうけれども、それはもう、僕が選んだ選択の結果だ。
悔やんだところで、どうにもならない。
目が合ったので笑みを向ければ、アイナは顔を赤くして、バタバタとあちらへ走り去ってしまった。
先程は明るく出迎えてくれたのに、落ち着けば恥ずかしさが出てきたらしい。
どうやら僕は、ふられた模様。
この宿には、ノンナの墓参りもしたいし、一週間か二週間は滞在しようと思ってる。
或いは滞在期間をもう少し長くして、久しぶりに鍛冶仕事をするのもいいかもしれない。
その間にアイナは、僕に懐いてくれるだろうか?
ノンナとそうしたように、彼女ともフルーツのタルトを食べに行けたら、それはとても素敵だと思うのだけれども。
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