第165話


 月明かりの下で、人魚は謡う。

 まるで過去を懐かしむように。


 いや実際、懐かしんでいるのだろう。

 今晩彼女が、ミズヨが謡っているのは、大きく昔じゃなくて、少し昔、五十年ほど前に鬼と戦った、戦士達の話。

 五十年って年月は、人間には世代が一つか二つ変わるくらいに大きいけれども、人魚である彼女にとっては違う。


 昔、人魚の子供達が複数で、禁じられている鬼の領域に近付いた事があったそうだ。

 子供はやんちゃで好奇心旺盛で、時に怖いもの知らずである。

 また大人に駄目と言われれば言われる程に、その禁を破りたくなってしまう。

 どうやらそんな子供の性質は、人間も人魚も同じだった。


 ただそうやって禁を破っても、本当は然程に大きな問題になりはしない。

 海の中の人魚を捕らえる術は数少なく、子供達も陸に上がる訳ではないから、少し度胸試しをすれば満足してこっそりと帰ってくるからだ。

 そして子供は大人になるにつれ、陸地でどれ程に過酷な戦いが行われているかを知る。

 輸送の仕事に携わるようになれば、知り合った人間や翼人が戦地に赴き、そのまま二度と帰らなかった哀しみを、幾度となく味わう事にも。


 ……しかしその時は、子供達には運がなかった。

 何しろ覗きに行った鬼の領域で、本当に鬼に出くわして、しかもそれが妖術を扱う刺青入りの鬼だったのだから。

 子供達はその鬼の妖術に捕まり、砦に連れ去られてしまう。


 恐らくその妖術というのは、僕も知る魔術だと思われる。

 鬼の祖となった魔族は、魔力でその身を変質、魔物化させた人だ。

 或いは彼らはそれを進化と呼んだかもしれないけれど、とにかく魔力の扱いに長けていた事は間違いがない。

 当然ながらその方法は、魔術と深い関わりがある筈。

 つまり鬼が入れてる刺青は、僕やカウシュマンが武器や道具に刻み、黄古帝国の識師達が札に墨で描く、術式の紋様じゃないだろうか。


 いずれにしても姿を消した子供達が鬼に攫われた事を知った人魚達は、非常に焦った。

 たとえすぐさま鬼に食われなかったとしても、水から長く引き離された子供は、環境の違いにやがて死んでしまう。

 この国が成立した経緯からもわかる通り、人魚は同族への愛情が非常に強い。

 それが子供であれば、尚更だ。


 しかし自分達では鬼の砦がある陸には行けず、……また鬼の砦を攻めるとなると人間や翼人にどれだけ被害が出るかもわからない。

 助けは求めたいが、自分達の種族の不始末を、陸や空の同胞に押し付ける訳にもいかない。

 そんな風に、人魚達は悩んだという。


 だけど子供達を見捨てる事に耐えられず、とある人魚が出会った人間に助けを求めた。

 人魚は、攫われた子供の一人の姉で、人間は腕自慢の武芸者だったそうだ。


 攫われた子供の姉から話を聞いた武芸者は、

「任せろ。姉ちゃんの弟は、俺が助けてやるよ」

 悩む素振りすら見せずにそう言って、伝手を使って仲間を集めた。


 何でもその武芸者は、普段は前線で大いに活躍する戦士で、たまの休暇に釣りにと出掛け、そして彼女に出会ったらしい。

 まだ弟や子供達が救われた訳ではないけれど、安堵と、それから戦士とその仲間を危険に晒す申し訳なさに涙を流す彼女に、

「まぁ、鬼退治は俺らの仕事だ。姉ちゃんが気に病む事じゃねぇさ。それより移動の船の手配は任せたぜ」

 笑みを浮かべて役割を与えてくれたそうだ。


 かくして武芸者とその仲間達は、海から鬼の領域へと入り、夜陰に紛れて砦に攻め込む。

 その戦いを、弟や子供達、それから武芸者と仲間達の無事を祈るしかなかった彼女は、自分の目では見ていない。

 だが激しい戦いだっただろう事は間違いなく、やがて砦からは火の手が上がり、子供達を抱えた武芸者とその仲間が海辺へと戻る。

 弟も、子供達も全員が無事だったけれど、武芸者の仲間の数は、……やはり大きく減っていた。


 けれども彼らは、誰も彼女を、弟や子供達を責めはせず、その無事を喜ぶ。

「子供を叱るのは仕事の外だ。心配かけた親にしっかり叱って貰いな」

 そんな風に、やはり笑って。


 人間は勇敢に戦い死ぬ。

 戦いで死なずとも、寿命は人魚に比べてずっと短い。

 時に儚さすら感じてしまう程に。

 だけど人魚である彼女は、それでもそんな人間に興味を抱く。


 勇敢に戦い、喪失にも耐えて笑みを浮かべるくらいに強く、とても優しいその人間に。

 それから彼女と武芸者の付き合いは、不思議と途切れず、思いの外に長くなった。


 そう、それは恐らく、ゴン爺とミズヨの過去の物語。

 ミズヨの語りはまだ続き、ゴン爺は少し離れた場所で、月を肴に酒を飲んでる。

 どうしてミズヨが、そんな話を僕にしたのか。


 それはきっと、僕に知ってて欲しかったのだろう。

 彼女よりも更に長い時を生きる僕に、ゴン爺という人間がどんな人であったかを、少しでも。

 その気持ちは、よくわかる。


 僕はミズヨから多くを教わったから、この話も心に刻もう。

 彼女にとっての英雄だった、愛する武芸者の物語を。

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