第166話
僕がゴン爺の家に滞在し始めてから、もう一年は経つ。
この国の鍛冶の技法は、完全に物にしたとは言い難いけれど、後は自らの研鑽でどうにかなるだろう目処は立った。
元より鍛治師としての経験は長いのだから、それなりに応用は利く。
弟子入りをして学んでいるならともかく、客人扱いをされている以上、自分でどうにかできる事は、自分でなんとかするべきだ。
ミズヨの話も、多く聞けた。
幾ら彼女が博識だといっても、無限に知識が湧き出す訳でもない。
最近では、月を見ながらの雑談に興じる事の方が、多かった。
それに何より、ゴン爺とミズヨの時間を、これ以上は奪いたくないから。
彼と彼女の記憶に、エイサーって名前の余所者の記憶は、もう十分に刻めただろうし。
……見届けたい気持ちは、実は少しだけある。
恐らくミズヨがこの家に留まる理由は、ゴン爺を看取る為だろう。
あぁ、少し違うか。
より正しくは、その瞬間までの時間を少しでも近くで過ごして、共有して、自らの心に刻む為。
僕がカエハに対してそうしたように。
そんなの邪魔できる筈がない。
共感するからこそ、見届けたく思うが、それが野暮であり過ぎる事くらい、僕にだってわかる。
ただゴン爺がどう考えているのか、僕には分からなかった。
どうして僕を道場に連れて来て、ミズヨを紹介してくれたのか。
わざわざ道場に泊めてくれた理由も。
今の道場の主は、ゴン爺の血を引く子ではなく、弟子の中で一番出来が良かった者らしい。
そもそもゴン爺に子はいないそうだ。
だからこれ以上、僕が道場に留まり続けるのは、彼らを親しく思うからこそ、やめよう。
二人に時間がもっと、十年や二十年あるのなら、その中に僕が数年混じったって、むしろ良い刺激になるかもしれないけれど、……老いた人間の終わりはあっという間に訪れるから。
僕はゴン爺ではなく、ミズヨの気持ちにこそ共感する。
この先も思い出を抱えて長く生きるだろう彼女に。
故に、そろそろ旅立ちの時である。
「なんでぇ、もう行くのか。もっとのんびりしてけば良いのによ」
旅立つ僕に、ゴン爺はそんな事を言う。
実に困った爺さんだ。
僕が言えた義理じゃないけれど、もっと素直になれば良いのに。
でもゴン爺とミズヨの関係なのだから、余計な差し出口は不要である。
後どの程度の時間があるのかは知らないけれど、彼らなりにその時間を大切に過ごせばいい。
「もう十分にゆっくりしたよ。このままだと居心地が良すぎて、本当に根が生えちゃうからね。その前に扶桑樹を見に行かないと。ゴン爺、ミズヨ、世話になった。ありがとう」
僕は自分の足を叩きながら、そう言って笑って見せる。
ミズヨとは兎も角、ゴン爺とは恐らくこれが永遠の別れだ。
口には出さないけれど、互いにそれは分かってた。
偶然にも道が交わり知己を得たが、元より彼と僕とでは、生きる場所も時間も大きく異なるから。
もっと早く出会ってたら、僕は気の合う友人と多くの時間を過ごせただろうに。
いやでもその場合は、カエハと過ごした、僕にとって最も大事な時間が減ってしまうから、……そんな仮定はあり得ないか。
「私達は渦を避ける事もできるし、渦に守られて暮らす事もできる。貴方はただ、あるがままに貴方であればいいわ。エイサーが良い人だって、もう私達は知ってるから」
要するにミズヨは、僕が思うように道を選べと、エールを贈ってくれているのだ。
僕がこの地にどんな影響を齎しても、それに応じて生きて行けるからと。
ゴン爺は何を大袈裟なって顔をしてるけれど、ミズヨの気遣いは嬉しかった。
だけど僕も、ミズヨは少しばかり大袈裟だと思う。
少なくとも今の僕にはもう、この島を南北で真っ二つにして引き離そう、なんて心算はない。
そもそも今の状況でバランスが取れているなら、余計な手出しは不要だとすら思い始めてる。
もちろん今後そのバランスが保たれ続けるという保証は、どこにもないのだけれども。
タカトという名の英雄が現れて人側が持ち直したように、鬼にもまた英雄が現れたなら、今のバランスが容易く崩れ去る可能性はあった。
しかしそこまでの事を僕が考えるべきかといえば、多分答えは否なのだ。
鬼が手強い相手だったとしても、人間も、翼人も、人魚も、彼らは決して弱くない。
一時的にバランスが崩れて苦境に陥ったとしても、この扶桑の国の人達ならば、何とかする力はあると思えた。
「ミズヨ、これまでのお礼に、これを渡しておくよ。使い道は、君が考えて」
最後に僕はそう言って、ミズヨに黄古帝国から持ってきた、仙桃を一つ手渡す。
彼女なら、その意味は分かるだろう。
上手く使えば、ゴン爺とミズヨが過ごす残りの時間を、ほんの少しでも良い物にしてくれる筈。
願わくば彼と彼女の迎える結末が、お互いにとって満足の行くものでありますように。
何時か再びミズヨと再会する事があったなら、今度はその話を聞かせて貰おう。
央都を抜けてそのまま道を真っ直ぐ北に。
前線に赴くこの街道の名は、
この道は、北へ向かう者の数の方が、南へと戻る者の数よりもずっと多い、そんな道だ。
でもその道を行く者の多くは、顔に悲壮感を浮かべず、また周囲もこの道を行く者を哀れまない。
それはこの、扶桑の国の人達の強さだった。
その生き方を幸か不幸か決めるのは彼らで、少なくとも扶桑の国の人々は、それを不幸と思わぬようにして、生きている。
彼らなりの、理で。
僕はそんな道を、一人で歩く。
目立たぬように、時には大きく道を外れて。
同じ道を行く者達には、混じらない。
そう、僕はこの先にある町、鎮守に入る心算はなかった。
あの町に入るのは、扶桑の国を守る兵を志す者、或いは傭兵で、僕はそれに当て嵌まらないから。
軍に組み込まれ、管理される気は毛頭なかった。
僕はあくまで、その先に見える扶桑樹を目指すだけ。
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