十六章 雲まで届く樹の上で

第151話


「おぉぃ、森人様よ、本当に頼むから落ちないでくれよ!!!」

 帆柱の下から、船長の困ったような声が聞こえてくる。

 無理を言って上にあがらせて貰ったけれど、悪い事をしてしまっただろうか。

 でも海を進む船の、一番高い帆柱の上で感じる風は、とても強くて元気が良くて、僕の心を湧き立たせてくれた。


 あぁ、そういえば、海を行く船に乗るのは、これが初めてだ。

 ぐるりと上から船を見下ろせば、幅広の大きな船である事が良くわかる。

 これではとても川には入れまい。

 上からでは見えない水に沈んだ部分、喫水だって深いだろうし。 


 不意に、一際強く、風が吹く。

 僕が普通の人間だったら、思わず身体を持っていかれてしまうかもと思うくらいの、強い風が。

 だけど僕はハイエルフだから、落ちると危ないからと一言告げれば、風に身体を押される事はない。


 髪や外套は風に靡いても、身体が押されないというのは、きっと人間からすると不思議な感覚なのだろうなと、そう思う。

 薄れた記憶に残る前世では、僕も人間だった筈なのだけれど、今ではすっかりハイエルフの感覚が当たり前になっていた。

 ……ただこれから向かう先、扶桑の国が持つ文化は、前世の記憶に残るそれに、とても近い。

 一体僕は、そこで何を見、何を感じるのだろうか。

 本当に、実に楽しみだ。


 帆柱の下では、船長が諦めたように、けれどもやはり気になって仕方がないといった様子で、僕の事を見上げてる。

 実は万に一つ、足を滑らせて落ちたとしても、僕は浮遊の魔術が使えるのだけれど、……まぁ、そういう問題でもないか。

 そろそろ下に、戻るとしよう。


 折角厚意で手配して貰った船なのだから、あまり迷惑を掛けて心象を損ねるのもよくはない。

 僕は下りる前に、もう一度前を見据える。

 目指す先、扶桑の国は、まだまだ見えなかった。



 黄古州を東に進めば、青海州に。

 青海州を更に東に進めば、大きな港へと辿り着く。

 僕はその港で船に乗り、東の海に浮かぶ島国、扶桑の国を目指してる。


 船は黄古帝国の皇帝である竜翠帝君が、青海州の州王、長蛇公を通して手配してくれた。

 尤も僕がこの船に乗り込んだのは、黄金竜との最後の会話を終えてから、もう一年が経ってからになってしまったけれども。


 というのも、ほら、黄金竜が眠りに就く前にくれた、あの鱗の加工に手間取ったからだ。

 熔けない、砕けない、斬れない鱗は、加工の方法が分からなければ最高の素材とはなりえない。

 例えば金剛石、ダイヤモンドもカットや研磨の技術が高まるまでは、その価値はもっとずっと低かったそうだし。


 仙人達の知恵を借りても、彼らもこれまで黄金竜が鱗を渡してくれた事なんてなかったらしく、首を捻って困ってた。

 まぁ色々と試行錯誤はしたけれど、どれだけの熱を加えれば熔けるのか、どれだけの力を加えれば砕けるのかは分からぬままで、時間を随分と使ってしまう。

 かといって、加工もせずにそのまま持ち歩くには、黄金竜の鱗は大き過ぎるし、目立ち過ぎる。

 最終的には、白猫老君が一時的に強度を大幅に引き下げる魔術の札を使って鱗に施し、僕が魔剣で小さく切るという、力技で解決したけれど。

 手応え的にはそれでも結構ギリギリだったと思う。


 ただその試行錯誤の最中に判明したのが、黄金竜の鱗はミスリルと擦り合わせると強い力を発するという事。

 これは実に面白い特性で、その力は黄金竜が眠る空間に満ちていた物と近く、一部は魔力としても利用ができる。

 つまりミスリル、黄金竜の鱗、ついでに魔力の導線となる妖精銀があれば、誰にでも使用可能な、強い魔道具が作れる筈。

 尤も妖精銀に関しては兎も角として、ミスリルも黄金竜の鱗も、普通は手に入らない代物だ。

 素材があまりに貴重過ぎて、誰でも使用可能な強い魔道具は、あまり現実的じゃない。


 僕はミスリルの腕輪も、黄金竜の鱗も持ってるけれども、コントロールの利かない自分以外の魔力なんて、危なっかしくて気軽に魔術に使う気にはならないし。

 切った鱗は外套の裏地に仕込んで防具にして、残りは背負い袋にしまってる。

 何時かは上手い使い道も思い付くだろう。


 他にも背負い袋には仙桃も詰め込んでいるから、……もしかしたら今の僕の背負い袋は、世界で一番中身が高価かもしれない。

 まぁ誰にも、そんな風には見えないだろうが。


 それから結局サイアーは、黄古州に置いて来る事にした。

 番がいて、子がいて、恵まれた居場所に在る彼を、足があれば便利だからと連れていくには、僕はサイアーに感情を移入し過ぎていた。

 馬に対する態度としてはあまり正しくはない気もするが、僕は生まれた時から知るサイアーを、友人のようにも、子のようにも感じる時があるから。

 僕が旅立つ姿を見て、さも当然のようについてこようとするサイアーには、……うっかり泣かされてしまいそうになったけれども。

 それでも僕は、彼を置いて行くと決めたのだ。


 だからこれから始まる扶桑の国の旅は、再び一人旅になる。

 ……その事を、少し寂しく感じてしまうのは、草原から黄古帝国、更に白河州から黒雪州を通って、黄古州までぐるりと回った、サイアーの背に揺られる旅を、僕が殊の外に気に入って、楽しく感じていたからか。



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