第110話
剣を学び、鍛冶を教え、日々はとても穏やかなのに、時間は瞬く間に過ぎて行く。
再び道場に戻ってから十三年、ウィンが旅立ってから八年、鍛冶を教え始めてから七年が経つ頃、僕は鍛冶場をソウハを始めとする数人の弟子に完全に譲った。
教えられる事はまだあれど、教えなければならない事はもう殆どなかったし、少しでも多くの時間を、カエハに使いたいと思ったのだ。
そう、彼女が日課の鍛錬をこなす事に、少しずつ時間が掛かるようになって来たから。
動かずに休む時間もじわり、じわりと増えて行く。
避けられぬ時が、少しずつ近づいていた。
僕はその時を少しでも遅らせる為、運良く荷物袋の奥底に眠っていた、最後のアプアの実を食べるように言ったが、カエハはまだいいと首を横に振る。
そして更に一年が経つ頃、遂に日課の鍛錬を、彼女はこなせなくなってしまう。
僕はもう、殆どの時間をカエハの傍で過ごすようになる。
ずっと一緒にいれば、話す事はそんなにない。
今日は暖かい。今日は寒い。
そんな他愛のない話や、後はもう何度も繰り返した思い出話くらいだ。
だがそれでも、カエハは僕の話を何度でも聞きたがった。
ただ彼女は、自分がそんな状態でも僕が剣を振るのをサボる事は許さない。
だから僕はカエハの部屋のすぐ傍、庭で剣を振り、彼女は椅子に座ってそれを眺める。
それはもう半年が経ち、カエハが布団から起きられない日が多くなっても、変わらずに続く。
僕には、もうすぐ時間の尽きるカエハが、一体どんな風にそれを受け止めているのかは、分からなかった。
怖がっているのか、諦めているのか、もしかするとその時を待ち望んでいるのか、それすらも。
でもカエハは、僕と話す時も、僕が剣を振るのを見る時も、楽しそうな顔をしていたから、それだけを信じて時を過ごす。
「……そろそろですね」
ある日、不意にカエハが、そう言った。
もうずっと覚悟はしていたから、突然の言葉にも僕は驚かない。
しかし、それでも、
「そうなの? 後少し、どうにかならない? できれば三年くらい」
やっぱり認めたくなくて、無駄な軽口を叩いてしまう。
するとカエハは僕の言葉に苦笑いを浮かべて、
「貴方のお願いなら聞いてあげたいと思うのですが、でも三年は随分と長いですね……」
首を横に振る。
やはり駄目らしい。
今回はもう十五年も一緒に過ごしてるのだから、三年くらいは誤差の範囲だと思うのだけれど、……まぁそういう問題でもないだろう。
「それにエイサーは、十分に私の傍にいてくれましたから。そろそろまた、自由にしてあげたいとも思うのですよ」
そのカエハの言葉に、僕は一瞬胸が詰まるけれども、それを何とか表情には出さずに、飲み下す。
僕は別に、縛られてここに居た訳じゃないのに。
自ら望んで、選んでカエハの隣に居たのに。
いやでも、恐らくそれは彼女だってわかってる。
だけどやっぱり、もうどうしようもないのだろう。
「ですからエイサー、あれを戴けますか?」
カエハはそう言い、僕は頷く。
そして僕は、最後の一つのアプアの実を、摩り下ろして匙で彼女の口に運んだ。
ゆっくりと、ゆっくりと、少しずつそれを食べ、飲むカエハ。
それから食したそれが身体に染み渡るのをじっと待ち、笑みを浮かべた。
彼女は身を起こし、本当に久方振りに立ち上がる。
「美味しい物ですね。エイサー、ありがとうございます。では、剣を。貴方が鍛えてくれた、あの剣を」
そう言って部屋を出て、庭へと降りるカエハに、僕は慌てて枕元の剣を掴み、追い掛けて手渡す。
だが幾ら使い慣れていても、それは鋼の、重い金属の剣だ。
今の彼女に持てる筈がない。
なのにカエハは、しっかりと剣を手で握ると、すらりと鞘から抜き放つ。
「ここが私の、カエハ・ヨソギの、剣の道の、人生の果て」
ゆらりと、剣を構え、彼女はそう言い放つ。
その言葉に、だけど僕は泣けない。
見届ける為には、涙は邪魔だ。
次の瞬間、世界から音が消える。
色も、時間の経過すら、全てが消え去ったように僕は感じた。
振り抜かれたのはあまりに静かで、しかし凄絶で、全てを断つ剣。
もちろんそれは、僕がそう感じただけかも知れない。
ただそれ程に、美しい剣だったのだ。
僕には極みだとしか言葉が出ない程に。
「……こんなものでしょうか。エイサー、ちゃんと見ましたね?」
振り終えたカエハの手から剣が零れ、地に落ちる。
咄嗟に駆け寄り、僕は崩れる彼女の身体を抱きとめた。
小さく、軽く、冷たい身体を。
カエハは、震える手を伸ばして僕の頬に触れ、
「エイサー、……愛して、いますよ」
そう言い残して、事切れる。
剣も目に焼き付けて、最期の言葉もしっかり聞いて……、もう僕が、涙を、嗚咽を、我慢する理由はどこにもない。
僕はカエハの身体を抱き締めて、ただひたすらに、涙を流して、叫び、泣いた。
シズキや他の弟子達が駆け付けても、ずっと、ずっと。
やがて葬儀が終わり、カエハは墓に入れられて、……それを見届けた僕は道場を発つ。
誰もが僕を引き留めてくれた。
ソウハやトウキや、弟子達も。
僕がいずれ去るだろうと分かっていた筈のシズキですら、まだもう少しと口にする。
でも、うん、今は一つ所に、留まりたい気分じゃなかった。
気持ちが沈んでる事もあるけれど、僕は多くの物を、目にしたい。
だって僕は、またやがてここを訪れるだろう。
そう、カエハの墓に、参る為に。
その時、一杯に土産話をしなきゃならないから。
遠く、遠くに旅をしよう。
急ぐ訳ではないけれど、エルフ達にもこの地を去る事を告げたら、東へ。
ヨソギ流がやって来たという、源流の地を、見に行きたいと思ってる。
空を流れる雲の後を追い掛けながら。
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